港の子、沈黙を抱く
冬の神戸港は、海の色より煙の色に近い。
夜になるとクレーンの灯りが霞んで、街はまるで巨大な工場の影の中に沈む。
岡本玲奈は、その夜景を黙って見ていた。
NST——西日本特別諜報班のボスである彼女は、今はただの女に戻っていた。
山本あかりが負傷した作戦のあとから、胸の奥に重い石が沈んでいる。
自分の判断は間違っていなかった。
状況も、戦術も、すべて合理的だった。
それでも——部下が倒れた。
玲奈はその責任を、自分一人で背負い込んでいた。
彼女が向かったのは、神戸の古い住宅街の片隅にある一軒の家だった。
表札には黒川とだけ書いてある。
呼び鈴を押すと、しばらくして扉が開いた。
「……珍しいな。お前がこんな時間に来るとは」
黒川玄蔵。
元刑事。
玲奈がこの世で唯一、師と仰ぐ男だ。
玲奈は軽く頭を下げた。
「少し、話を聞いてほしくて」
黒川は黙って奥を指した。
二人はちゃぶ台を挟んで座る。
しばらく沈黙が流れたあと、黒川が言った。
「部下が怪我したらしいな」
玲奈は頷いた。
「……私の責任です」
黒川は煙草に火をつけ、煙を吐いた。
「違う」
短い一言だった。
玲奈は反論しなかった。
ただ、視線を落とす。
黒川は玲奈をじっと見て言う。
「お前は昔からそうだ。
背負わんでいいものまで背負う」
玲奈は小さく息を吐いた。
「……そうかもしれません」
黒川は煙草を灰皿に押し付けた。
「港の子だからな」
その言葉で、玲奈の記憶は遠くへ戻った。
―――――
199X年後半。
阪神・淡路大震災から数年。
港町・神戸は、ようやく立ち直りかけていた。
街の至るところに、まだ爪痕は残っていたが、
港は止まらない。
船は来る。
荷物は降ろす。
街はそれで食っている。
岡本玲奈は、その港町で生まれた。
父、岡本鉄哉。
神戸港で港湾荷役の会社を経営していた男だ。
岡本港湾サービス。
大企業ではない。
むしろ小さな会社だった。
だが港では有名だった。
理由は単純だ。
真面目すぎる会社だからだ。
港湾業界は昔から魑魅魍魎の世界だ。
利権。
政治。
裏社会。
船のコンテナ一つ動かすだけでも、
どこかの誰かが金を抜く。
そんな世界の中で、鉄哉は頑固だった。
「契約は守る」
「危ない仕事はやらん」
「人を怪我させる仕事は全部負けや」
儲けは大きくない。
だが船員や港湾労働者は言った。
「岡本の会社は信用できる」
玲奈は幼い頃から、そんな父の背中を見て育った。
父は多くを語らない。
だが嘘はつかない。
玲奈は物静かな子供だった。
泣きわめくこともなく、
騒ぐこともない。
幼い頃から、どこか大人びた雰囲気のある美少女だった。
頭も良かった。
学校ではいつも上位。
しかし友人は多くなかった。
理由は簡単だ。
玲奈は感情を表に出さない。
怒らない。
騒がない。
ただ静かに見ている。
周囲の子供はそれを
「近寄りがたい」と感じた。
それでも玲奈は情が厚い。
困っている子がいれば
最後に必ず助けるのは玲奈だった。
そんな少女の家にも、
港の影は忍び寄っていた。
岡本港湾サービスは、
ある利権の話を断った。
詳しいことは玲奈には分からない。
だが父の電話が増えた。
夜の帰りも遅くなった。
港は復興の名のもとに
巨大な金が動いていた。
そこに食い込むのは
企業
政治家
そして裏の組織
父はその流れに乗らなかった。
それが
岡本鉄哉という男だった。
玲奈はただ、黙って父の背中を見ていた。
―――――
黒川は湯飲みを置いた。
「覚えてるか」
玲奈は小さく頷いた。
「ええ」
黒川は言った。
「お前は昔から変わらん」
玲奈は視線を上げる。
黒川は静かに言った。
「港で育った子はな、
沈黙を覚える」
海の仕事は、
騒ぐ奴から死ぬ。
だから黙って見て、
黙って考える。
玲奈は、その港の空気を
子供の頃から吸っていた。
黒川は玲奈を見る。
「だがな」
少しだけ声を柔らかくした。
「沈黙してもええが、
全部背負うな」
玲奈はしばらく黙っていた。
そして小さく言った。
「……難しいですね」
黒川は笑った。
「そらそうや」
窓の外では、神戸の夜景が静かに揺れている。
港の灯りは、昔と変わらない。
玲奈はその光を見ながら思った。
自分は、あの港の子だ。
沈黙を抱えたまま、
それでも前に進む。
それが岡本玲奈という人間だった。




