第5話 わたくしの椅子
どれだけそうしていただろう。五分か。十分か。
ふいに柔らかいものが額に当たった気がして目を開いた。
今のは何だ。ゆで卵を指で押した時のような、もちもちの弾力と瑞々しさ。けれど表面は少々ざらついておりマットな質感をしていた。
なんて蠱惑的な物体であろう。
オフィーリアは体を起こし、今触れてきたものが何であったか探るため、軽く首をひねった。
「すまん。起こしたな。少し、息をしているか不安になった」
「今、わたくしに触れましたか?」
「不躾だったな。謝ろう」
「いえ、それはかまいません。ですが、何か道具をお使いになって?」
「道具? 手に決まっているだろう。牢に入っているんだぞ」
ほら、と広げられた手の平に目を奪われる。
ふわふわと綿毛のような体毛に囲まれた黒い肉球。見ただけで分かった。先程オフィーリアに触れたのはこれだ。
人間と動物の間のような可愛らしい長さの指。たまらず自らの手を重ねれば、もっちりとした弾力に押し返された。今までに味わったことのない多幸感に肩が震える。
楽園ここに見つけたりだ。
「……何をしているんだ、君は。ハイタッチじゃないんだが」
「ここが極楽かと思いまして」
「いや、極楽じゃなくて牢獄だ。どう見ても」
ぱっと離れていく手を掴み、自らの頬に押し当てる。当たり前のように怪訝そうな顔をされたが「人肌が恋しくて」と殊勝な態度をみせればため息をついて力を抜いてくれた。
こんなに転がしやすい人は初めてだ。
素直すぎて逆に良心が刺激される。
オフィーリアは肉球のふにふにした弾力をしばらく楽しんだ後、大人しく距離を取って座りなおした。
このままだと際限なく甘えてしまいそうになる。
「では向こうの隅にいる。広めの独房とはいえ二人で分けたら狭い。俺のことは気にせず、残りのスペースは全部君が使うといい」
「あら、本日は抱き合って眠るものかと思っておりましたのに」
「あのな……」
獣人は三度目のため息を吐いた。
「そういう軽口はほどほどにしておけ」
「といいますと?」
「俺を毛皮扱いするなってことだ。布団くらいならいくらでも脅し取ってきてやる」
「ふふ。ご心配には及びません。そちらは対策済みですもの」
慌てた顔が見られるかもと期待したが、残念だ。手の内を読まれていたらしい。隅を目指して歩く彼の背中を、ひょいと軽い足取りでついて行く。
「君はあっちにいろ。なんのために移動したと思っている」
「あら、今日はなんでも言うことを聞いてくださるのでしょう? それに、隅以外わたくしのスペースならばどこにいようと勝手ではなくて?」
「本当に素直じゃないな」
呆れたように頭をがりがり掻いて、そのまま腰を下ろす。
約束はきっちり守るタイプらしい。一日くらいなら上手く言い包め煙に巻いて逃げる方法もあるだろうに。真面目な人だ。オフィーリアも彼の隣に腰を落ち着け、満足そうに微笑んだ。
ああ可笑しい。結局、逆サイドに移動したこと以外何も変わっていない。
「それで? 何が望みだ、お嬢様」
「しばらく一緒に暮らすのですもの。ギスギスした関係は嫌ですわ。ですので、まずはお互いを知るために自己紹介などいかがでしょう?」
「獣人である俺と親睦を深めたいと? まぁいいだろう。承った。で、それだけか? 俺を好きにしていいのは今日だけだぞ」
金の瞳が挑発的に揺れる。今までの仕返しというわけか。
オフィーリアは考えるように顎に指を置いた。今日が終わるまでまだ時間はある。取り付けたい約束はあるが、それは追々切り出す方が良いだろう。ベストなタイミングを見計らわなければ警戒心を抱かせてしまう危険性がある。
(いきなり本題では些かムードに欠けますものね。時間はたっぷりございます。とりあえずは、この挑発に乗ってみましょうか)
頭のてっぺんからつま先まで舐めるように観察する。ピンと伸びた耳。もちもちの肉球。絹のような手触りの毛に包まれた身体。見れば見るほど誘惑の塊だ。これを好きにしていいとは。なんて心躍る提案だろう。
平常心を装いながら唾を飲み込み、ぺちりと床を叩いた。
「では、椅子におなりになって」
「は?」
オフィーリアの言葉に、彼は一瞬にして距離を取った。
「いきなり酷い注文だなおい! 四つん這いになれと? どんな格好で自己紹介させる気だ!?」
「違います。なぜ四つん這いになるのですか。わたくしはただ……その、ひ、膝、に……乗せていただけたら、と」
「……膝?」
なんだか恥ずかしくなってぷいと顔をそむける。
大きな身体にふわふわの毛。一度くらい包まれたいと願ったのだが、そんなにおかしい注文だったのだろうか。
「どれだけ捻くれているんだ君は。ほら、これでいいか」
胡坐をかいた状態で太ももを叩く。なんという誘惑だ。楽園の入り口に見える。
しかし、喜び勇んで飛び込んでは少々はしたない。オフィーリアは端の方にちょこんと腰を落とした。すると大きな腕が伸びてきて彼女を抱きかかえると、丁度穴の部分にピッタリお尻が嵌まるようなベストなポジションへと連れて行かれた。
「さて、座り心地はいかがです? お嬢様」
「……わ、悪くはありません」
嘘だ。天国が見えそうなくらい良い。
絶対的な安心感ともふもふの癒し。こんなものを知ってしまったら戻れなくなる。人間を駄目にしてしまう椅子だ。今すぐ「満足しました」と後腐れなく抜け出すべきなのだろうが、それはそれで勿体な――いや、負けを宣言するようで悔しかった。
駄目だ。既に抜け出せなくなっている。選択を誤ったかもしれない。
「この状態での自己紹介も締まらないが……まぁ、君に任せる。好きにしろ」
「あら、殊勝な心がけですわね。いいでしょう。わたくしはオフィーリア。歳は十六。リングット公爵家の一人娘です。あなたのお名前は?」
「待て。公爵?」
金の瞳が真ん丸に見開かれる。
「君、まさか、公爵令嬢か? 嘘だろう。本当にお嬢様じゃないか。確かに良い物を着ているとは思ったが……どうしてこんな場所に」
「あら、お名前を教えてくださらないの?」
余裕の笑みを崩さず彼の頬に触れる。事情を話すくらいやぶさかではないが、今はそれよりも早く彼の名前を知りたかった。口に乗せてみたかった。
彼は呆れたように目を閉じ、口を開いた。
「……ツァール」
「つぁーる? いえ、ツァールですね。ふふ、不思議な響きですこと。なんだか可愛らしいわ」
「可愛いはやめろ」
ツァール。ツァール。何度か唇に乗せて転がしてみる。馴染のない音だ。けれど優しい音がした。良い名前だ。
「それで。どうして公爵令嬢様がこんな場所にいるんだ?」
「結論だけ申し上げますと、少々謂れのない罪を被せられまして。反論も出来ずにポイと」
「待て待て。公爵令嬢相手に冤罪を吹っかけたと? 一体誰が、どうやって? そもそも公爵家がそれを許すのか? というか、ポイって雑すぎないか?」
「質問が多いですよ、ツァール。そう矢継ぎ早に尋ねずとも時は追い立ててきませんわ。のんびりいきましょう。――あら?」
微かに声が聞こえた。この第五監獄に足を踏み入れる者が現れたらしい。
ツァールもそれに気づいたらしく、愛らしい耳をぴくぴくと揺らしている。
「ふふ。随分とお早い御到着ですこと。さすがですわ」
「知り合いか?」
「一人娘を監獄へ送られたのです。黙っているお父様ではありませんわ」
オフィーリアは名残惜しそうに立ち上がり、格子の前まで足を進める。丁度その瞬間「オフイィーリア!」という重厚な声が監獄内に響き渡った。
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とりあえず明日までは更新分あります。




