第5章
昔々あるところに――
おはなしはいつでもそこから始まるのです。
昔々あるところに、小さな国とお城がありました。そこには、自分こそが世界で最も素晴らしい存在だと思っている王子様が暮らしておりました。美しい王子は我が儘放題に人を従わせ、人から受ける好意も当然のものとしていました。
王子には弟がいました。弟王子は兄によく似た面差しで、心根の優しい思いやりのある人物でした。
ある日、兄弟が森を歩いていたときのことです。杖を手にした一人の老人が、王子達に声をかけてきました。
「お美しい弟王子よ、貴方様は御身こそが世界で最も素晴らしいと思っておられますか?」
弟王子は静かに首を振って否定しました。
「わかりません。僕にとっては、兄や父や母が最も大切で愛する人たちですから。しかし、もし僕が誰かにとって大切な存在であるならば、それもまた嬉しく思います」
「分かりました。ではお美しい兄王子よ、貴方様は御身こそが世界で最も素晴らしいと思っておられますか?」
兄王子は鷹揚に頷きました。
「ああそうだよ。みな私の言うことに従うし、私を一番美しいという。それは私が世界で一番愛されるべき大切な存在だからだろう?」
「なるほど。それでは今から貴方を、本当に《世界中の誰からも一番美しいと思われる姿》にしてさしあげよう!」
そう言って老人が杖を振りかざすと、兄王子の身体はあやしい光に包まれました。二人の王子は大変驚きましたが、老人はそのまま姿を消してしまいました。
「一体、何をされたんだろう。あの老人は《世界中の誰からも一番美しいと思われる姿》と言っていたが、私の姿に何か変わったところはあるかい?」
「いいえ、兄さん。いつもとお変わりありません」
兄弟に変わった様子は見当たりません。二人は不思議に思いながら城へと戻りました。
ところが、城へ帰ると大変なことが起こりました。兄王子の姿は、見る人によって全く別の姿に見えていたのです。
ある者は、村に残してきた婚約者であると。ある者は、昨年亡くした最愛の夫であると。酒場の歌姫であると言った者や、隣国の姫君だと言うものもおりました。
どうやら兄王子の姿は、見る者が最も愛し求める人の姿になってしまったようです。弟王子は、もとより兄王子を父や母と同じように深く愛しておりましたので、ただ本当の姿が見えていたのでした。
森で出会った老人の正体は、森の泉に古くから住む妖精でした。わがままな王子をいさめるために現れて、呪いをかけたのでしょう。
兄王子にかけられた呪いは、彼の周囲を大きく変えてしまいました。
人目に触れる場所へ出ると、見知らぬ者が我が妻と呼んで追いかけてきます。生き別れた息子だと泣きすがる者もいます。突然に腕を引かれて連れ去られそうになったこともありました。
もう兄王子本人を見ることのできる者はずっと少なくなってしまいました。それまで兄王子を褒め称えていたはずの人々でも、王子の顔のどこにほくろがあったのかも思い出せない者ばかりです。
この事態に、それまで愛し合っていたはずの人々も疑心暗鬼になりました。この人は私を愛していると言ったけれど、本当にそうなのだろうか。あそこには私ではなく別の人の姿が見えているのではないのかしら。そこには僕の姿が見えると言うけれど、それは嘘なのかも知れない。
そうした人々の欲や疑いに晒された兄王子は、身も心ももうすっかり追い詰められてしまいました。
「兄さん、森にあの老人を探しに行こう。あの老人ならこの呪いが解けるかも知れない」
「私もそう思っていた。こんなことが出来るなんて、きっとあの老人は森の泉に古くから住むと言われる妖精だろう」
そうして弟と二人で森の泉に向かうと、妖精はすぐに姿を現しました。
「おや王子様、その《世界中の誰からも一番美しいと思われる姿》は気に入ったかね」
「こんなもの気に入るはずがない。呪いを解いて、私を早く元の姿に戻してくれ」
「なあに、そんなのはごく簡単なことさ。この世にはそれをしている人達が大勢いるからね」
「何をすれば兄の呪いは解けますか。僕に出来ることがあるならなんでもします」
「お優しいかわいそうな弟君! 残念だが、これは兄の王子本人にしか出来ないことだよ」
「早く方法を教えてくれ。私に一体何をさせようと言うんだ」
「それはだね、王子様──」
──それは、兄王子にとってはとても難しいことでした。
呪いを解くことができなかった兄王子は、城で人々に囲まれた暮らしに耐えられなくなりました。呪いを受けてからというもの、王子の身体の時間はすっかり止まってしまったかのようでした。少しも年をとらず、普通の人のようにお腹が空いたり眠くなったりすることももうありません。
王子は、弟に国を任せて城を出て行くことに決めました。弟王子は心配して引き留めようとしましたが、彼のつらい気持ちや決心を知ると涙ながらに見送りました。
城を出た兄王子は様々な土地を転々としましたが、人の多い場所ではどうしても呪いの姿のせいで揉め事が起きてしまいます。人の寄りつかない場所を選び、呪いを解く別の方法を探しました。元々賢く才のあった兄王子は様々な呪いや魔法の知識を身につけ、魔法使いと呼ばれるようになっていきました。
そうして、普通の人の生が何巡もするほどの長い月日が経ちました。時折かつて暮らした城のある国の噂を聞くこともありましたが、もうあの頃にあった城は朽ち、住んでいる人々も名前も知らない者ばかりになっていることでしょう。
魔法使いが王子様だったことを知る者は、とうとう誰も居なくなってしまいました。その昔に王子だった魔法使いは、今ではどこかの森の奥に小さな竜とともに静かに暮らしているのだといいます。