第4章
ランベルトを追って塔から出ると、小さな竜は塔の入り口で小石を撒いていた。小石の入った袋を器用に後ろ足で持ち、宙に浮いてはぽとりぽとりと降り撒く。
「ランベルト、それを貸してくれ。お前の主人から手伝いを頼まれた」
声をかけて手を伸ばすと、竜は言葉が理解できているかのように従順に袋を差し出す。フォルカーは受け取った袋から小石をつまみ出し、見よう見まねで小竜と反対の向きへ撒いた。
「扉の前だけでいいと言っていたな」
丁寧に小石を撒きながら、フォルカーはエリオの表情を思い出していた。
人間くさい、感情のある顔。余裕のある皮肉げな魔法使いが、あんな顔をするとは意外だった。
「……お前のご主人はもしかして、元々はああいう様子なのか?」
フォルカーがランベルトに訊ねてみると、小さな竜は分かっているのかいないのか、グゥ、と小さい鳴き声を漏らす。
「俺はおそろしい魔法使いの噂しか知らなかったせいでそういうものだとばかり思っていたが、あの魔法使い……エリオからすれば、突然押しかけた俺のほうを警戒していたのかも知れないな」
無論、人間である自分が容易に魔法使いに敵うものだとも思わないが、そう考えるとやはり少し悪いことをした気がする。
「なあ、ランベルト。お前はどう思う」
だが竜は自分の仕事は終えたとばかりに、素知らぬ顔で大きな石の上でくつろいでいる。
「何だ無視か? ……いや、無視ならまだいいが、まさか告げ口はされないだろうな」
自分の想像に気まずくなったフォルカーは口をつぐんだ。そうして、今度はエリオの《顔》を思い出す。
赤くなっていたのはヴァレンテ王子と同じ顔だというのに、あの時は不思議と王子のことは思い起こさなかった。ヴァレンテのそんな表情を、フォルカーは一度も見たことがなかったからだ。
王子は絶えず重責にあり、しかしそれを表には出さずいつも柔らかく微笑んでいた。病にかかって以降ですらそうだった。気高い方だと思っていた。その思いは今も変わらない。
だが自分が知らないだけでヴァレンテ王子にもああいった、戸惑うような恥じらうような表情をする機会があったのだろうか。誰か、自分ではない相手の前では。
そうだったらいいと、フォルカーは思った。弱みを見せられるような、心許せる相手がいたと思いたい。それがたとえ自分でなくても。
王子とは似つかぬエリオの表情が何故だかまた見たくなり、フォルカーは作業を終わらせるために手を動かした。
森の霧は、幾日経っても晴れなかった。
このままではランベルトを市場に行かせられないとエリオは愚痴をこぼしたが、森から出られないことに一旦腹を括ったフォルカーは、いっそ大して不満はなかった。
塔の裏には小さな畑もあり、魚の釣れる川もあった。
なるほどこれでは塔の魔法使いが人前に姿を現さなくてもいいはずだと納得し、フォルカーは日々畑仕事や釣りなどをして過ごした。魔法使いはろくに食べずとも死なないようだが、ただの人間のフォルカーには食料が必要だったからだ。エリオの指示なのか、小さな竜のランベルトはフォルカーをよく手伝ってくれた。
一方、エリオはフォルカーにはお構いなしに日々研究を続けていた。フォルカーは雨の日には研究室に本を持ちこみ、隅の椅子に座って読書をした。気が散るので出て行ってくれと言われることも稀にあったが、大抵は放っておかれ、時には作業の手伝いをさせられた。
塔での日々は、穏やかに過ぎていった。
フォルカーは仕える王子を亡くした自分が、こんなにも穏やかな気持ちになることがあるとは思っていなかった。
それはきっと、この森の魔法使いと小さな竜のおかげなのだろう。
王子のことを忘れたわけでは無論ない。痛みが消えたわけでもない。だが絶えず血を流しているかのようだった生々しい胸の奥が、ゆるやかにだが傷口を塞がれつつあるのをフォルカーは感じていた。
あるとき、ふとフォルカーが言った。
「一度、お前の本当の姿を見てみたいものだ」
魔法使いは相変わらずそれを一笑に付した。
「見てどうするというんだい。君にとっては、私なんかより大好きな王子様の顔を見ている方が良いんじゃないのか。それに本当の私の姿は、ふた目と見られぬ醜悪な化け物かも知れないよ」
「別におまえの美醜が知りたいわけじゃない。そもそも誰であろうとヴァレンテ様以外の人間がヴァレンテ様の顔をしていることのほうが、よほど気に食わないからな。そうではなく、お前自身と顔を合わせてみたいと思っただけだ」
フォルカーが少し拗ねたような口調になる。今ではそうした砕けた物言いができるほどに、二人は打ち解けてきていた。
「どうせ本当は俺なんかよりもずっと年寄りなんだろう。だとしたら実際のお前の姿は、真っ白い長い髭をたくわえていたりするのか」
「君は私に対してそんな想像をしていたのか」
フォルカーの言葉に、エリオは呆れたようにため息をつく。
「おかしいか? もしかすると皮肉屋の老人ではないかと考えていたんだが。森の外ではそういった噂もあったしな。……だが詮索されるのが嫌だというなら、この話は止そう」
無理に素性を暴きたいわけでもない。ただフォルカーは、相手を一方的に別人のような姿で見ているのも、もしくは逆にカーテン越しにこちらの姿ばかり一方的に見られているような状況なのも、今ではどちらももどかしく感じていた。フォルカーには、自分がこの魔法使いに対して外見とは関係なく、感謝と好意を抱き始めているのだという自覚が芽生え始めていた。
「そうだね、機会があったら本当の姿を見せてやってもかまわないさ。君の生きている間に、そんな機会が来るとしたらね」
「楽しみにしておこう」
皮肉げではあっても拒絶を感じさせないエリオの反応に、フォルカーは安堵する。
そんな日々のある日の夕方、森の霧は突然に晴れた。