ep1
やはり森を迂回するべきだった。
旅人フォルカーはすでに半日以上森を彷徨い、己の選択を深く後悔していた。
彼はかつて忠実な騎士だった。騎士とは規律を守るべき真面目なものだが、仕えていた王子に心からの忠誠を誓い日々鍛錬に励むフォルカーは、主人である王子からも信頼されていた。
だがその王子を数年前に病で失ったことで、彼は突然この世の全てのことが無為に思えてしまった。殉死も考えたが城にそういった習慣はなく、周囲の心優しい人々はこぞって彼を慰め、労った。
しかし彼は優しい人々に首を振り、王子の思い出の残る城には居られないと騎士を辞めた。それからこうして今まで、あてのない旅を続けている。
今は一人旅の途中で、急ぐ道でもない。町では森に入るなと忠告され、迂回する道まで教わったのだから、素直にそちらを選べばよかったのだ。
それはこんな忠告だった。
――あの森には、迷い込んだ旅人を襲う《世界で一番美しい魔法使い》が住んでいる。
町の宿屋兼酒場でその話を聞いたのは、王都から離れた小さな町にしてはやけに質のいい装備の兵士を見かけたことが切っ掛けだった。
「親父さん、今この町では何かあるのか。王都からの兵士が来ているようだが」
土埃に汚れた旅装のフォルカーが、そう言って飲食代と宿代を少し弾んだ額で出すと、頭髪の白くなった店主の愛想が明らかに良くなる。
「こりゃあどうも! お客さん、あれを見ただけでどこの兵士か分かるんですかい」
大柄で剣を下げた旅人は小さな町や村では警戒されやすいが、金払いさえ良ければそれなりの待遇は受けられる。それはフォルカーが旅の中で得た経験によるものだった。
「あの兵士達の紋章なら、以前に見たことがある。失礼な言い方かも知れんが、よほどの事件でもない限りこの町に来るような者たちではないだろう」
「なら、よほどの事件らしいね。王の命令で、高名な大魔術師を連れた討伐隊が森の魔法使いを捕まえに来るそうですよ」
「この辺りに、そんなに危険な魔法使いがいるのか?」
尋ねながら、店主が用意した酒と杯を受け取った。手近な木製の卓に着くと、布に包まれた剣を邪魔にならないように長椅子へ置く。
魔法使いや魔術師と呼ばれる者達のことは、彼も幾ばくか知っていた。かつて城に出入りしていた頃、何度か姿を見たこともある。そのため変わり者が多いということも、知識としてあった。
「いますとも。この町の人間は、子供の頃から寝物語に聞かされてるよ。森には世界で一番美しい魔法使いがいるんだそうで。そいつが人を惑わすので、絶対に行っちゃならんと教えられるんです」
「世界で一番とは、随分と大きく出たものだな!」
フォルカーは思わず笑い、酒を呷る。酒精は旅人の空腹に染みて熱を生む。
「本当にそんなものがいたら、かえって一目見ようと人が集まって来るだろう」
「今も時々はいますよ。そのまま帰ってこないか、帰って来ても何かおそろしいものを見て気が変になってしまうか、どちらかさ。ただ私が覚えている限りでは、大抵は帰って来ないほうが多いね」
ふざけたところのない店主の様子に、フォルカーも笑みを消す。
「本当に危険な森なのか……」
「あの森は悪夢みたいな霧が出るんで、地元の人間でもろくに近付かないよ。私が子供の頃から、調子に乗った悪ガキなんかも度々遭難してるんです。森に魔法使いだか誰だかが住んでいるのも事実だが、どっちにしろ行かない方がいいね」
店主は嫌な話をしたというように首を振ると、卓へ肉とパンを運んで来た。味に期待ができるような物でもないが、フォルカーにとって久しぶりの携帯食以外の食事だ。ありがたく口に運ぶ。
「……だがわざわざ兵士が来るくらいなら、そいつが犯人なんだろう。どうしてこれまで捕まえなかったんだ」
「さて、そりゃあこっちが訊きたいですね。うちだって、森に入る高名な大魔術師様とお供のために宿を用意しろとか言われただけで、詳しい事情なんか知りゃあしませんよ」
店主は肩をすくめる。
「まあ面倒だが金払いの悪くない客だから、こっちはありがたいですがね。……お客さんもですよ」
「俺もか」
「あんたも気前のいい客だから、こっちも死なれちゃあ気分が悪い。南に向かうつもりなら、あの森は迂回して行きな。霧も魔法使いもおそろしいが、鉢合わせた討伐隊に間違って討たれたくもないでしょう」
店主の人並みの親切心に対し、フォルカーは感謝の念で頷いた。
「ありがとう。覚えておこう」
そう、覚えていたのだ。だから、森に入った。
噂とは言え、森に何者かがいるというのも、迷い込んだ人間がいなくなるというのも、それなりに事実であるようだった。
それにも関わらずわざわざおそろしい噂のある森に入ったのは、フォルカーが幾らかやけを起こしていたからにほかならない。
酒というものは時に魔法使いよりもおそろしいものだ。酔いが回ってくるうちに、彼はその魔法使いを討伐隊より先に退治してやろうかなどと考え始めた。
もはや騎士ではないとは言え、剣の腕は完全に錆びついたわけでもない。簡素な旅装の下にも分かるほど、その身体は鍛えられている。
つまり、彼にはそれなりに戦うことへの自信もあったのだ。
そして、彼が森の魔法使いを怖れなかったのにはほかにも理由があった。
――《この世で一番美しい魔法使い》。
その言葉を聞いた時に、フォルカーは思わず笑った。何と大袈裟な通り名だろう。少なくとも、彼にとってその名前は嘘でしかない。
フォルカーがこの世で最も美しいと思える存在は、かつて仕えたあの王子のことだった。たとえどんな女神や美姫や妖精や仙人が現れようとも、惑わされるつもりなどない。
しかし、もしその美しさに王子よりも心惹かれることが出来たのなら、この重く石のような心も少しは楽になるだろう。彼は半ば皮肉な気持ちでそう考えた。
それらが、彼にこの森を迂回させなかった理由だ。
しかし魔法使いどころか、鹿一匹に会う前にも森に迷ってしまうとは我ながら情けない。
「またさっきの場所か……」
フォルカーは先程目印に折ったばかりの木の枝を見つけ、悔しげに唸った。
気付けば、いつの間にか同じ所ばかりぐるぐると歩いてしまう。それならばと直線を歩いてみても、今度はその前の目印に戻る。
霧が出るとは聞いていたが、ただ進もうとするだけでこれほど迷わされるのはどうにもおかしい。
そのうちに段々と日も暮れてきた。一度森を出て戻ろうにも、どちらから来たのかすらも分からない。
森そのものに弄ばれているような気分になりながら大きな石に腰を下ろすと、今度は少しずつ霧が出てきた。
「まずいな……」
フォルカーは持っていた干し肉を囓る。唾液と塩分は少しだけ気分を落ち着かせたが、このままでは森で夜を明かさねばならない。
せめてもう少し野宿に良い場所はないかと立ち上がり、灯りを手におそるおそる霧の中を再び歩き出した。




