第2章
翌朝になっても霧は晴れていなかった。
魔法使いの言った通り、ここの霧は気まぐれらしい。
昨晩は到底落ち着いて眠ることなどできないかと思ったが、温かいスープを口にして柔らかなベッドに入ると、フォルカーはすぐに眠りに落ちた。
これまでの旅の中でも安心の出来ない場所で眠ることは何度かあったが、それでもこんなに気を抜いてしまったことはない。
やはり王子と同じ顔と言うことでいくらか警戒心が薄れてしまったのだろうか。そう考えてフォルカーは嘆息する。
すると、コンコンと、ドアをノックする音がした。
扉を開けてみたが、そこには誰も居ない。奇妙に思って見回すと、昨日は気付かなかった生き物がそこに居た。
「鳥……ではないな」
犬ほどの大きさの、大きな鳥のような、小さな竜のような、羽根のある青い生き物が足下でこちらを見上げている。
「今のはお前か?」
「――やあ、お目覚めかな旅の人」
返事をしたのは小さな青い竜ではない。声のする方へ視線を向けると、廊下の先で魔法使いがこちらを見て微笑んでいた。
「朝食は必要かな? 私ではなく使い魔に用意させた物だけれど」
魔法使いに招かれるまま入った部屋は食堂で、長いテーブルにはパンとスープからなる食事も用意されていた。食事そのものは簡素だが食器は質の良い物のようで、スプーンやフォークなどカトラリーもきれいに磨かれている。
「……昔話の魔法使いも食事をするのか」
「厄介なことにね。人のように飢え死にすることはまずないけど、飢えは感じるんだ。だがそのおかげで、こうして君に食事を与えることも出来る」
「そうなのか……感謝する。ありがとう」
魔法使いに促され、フォルカーは食事に手を付けた。何かよからぬものが入っていることを考えないわけではなかったが、もし魔法使いが悪さをしてくるつもりなら昨晩自分が眠っている間にもできただろう。
そうやって逐一自分に言い聞かせないと、もはやフォルカーは警戒することすら忘れてしまいそうだった。
魔法使いは、フォルカーの正面の席へ腰掛けると青い竜を呼んだ。
「ランベルト」
小さな竜がばさりと翼を広げると、人が手を広げたほどの大きさになる。その翼の一打ちで竜は主人の膝の上に収まった。
「それは本物の竜なのか」
目を閉じて丸くなった小竜をフォルカーが指さすと、魔法使いが笑う。
「偽物の竜というのが居るのかい? 私の友人だよ」
「名前はお前が付けたのか」
「ああ」
「いい名だ」
その言葉に、何故か魔法使いが眉をひそめた。理由が分からずフォルカーは戸惑う。
「……? そう言えばお前自身の名前を訊くのを忘れていた。俺の名はフォルカーだ」
訊ねると魔法使いの表情は更に歪み、困惑を露わにした。
「君はおかしな奴だね。人を惑わす魔法使いに名前を訊いてどうするんだい。自分の名前まで簡単に教えてしまって」
「いけなかったか。魔法使いのルールまでは詳しくないんだが」
「……まあいいさ。私はエリオだ、フォルカー。名前が必要ならそう呼ぶといい」
「分かった、エリオ」
偽名だろうとは思ったが、呼び名を伝えるということは魔法使いも会話をする気はあるのだろう。拒絶の態度がないと判断し、フォルカーは喜んで頷いた。
簡素な食事は、ごく短時間で終わった。
「エリオ、この森の霧はどうなっているんだ」
スープの器を空にし、スプーンを置いたフォルカーが尋ねる。
「ここに来るまでに分かったろう? 霧が出ている間は堂々巡りだよ。ここはそういう森なんだ」
「霧はいつ消える」
「さあ。言っておくが私のせいではないよ。私はここの霧が人払いに都合が良かったから、この森に暮らしているだけだからね」
長い間に噂になってしまって、余計な人間が来ることも増えたけど。エリオはそう言ってため息をつく。
「……そうして、長い間には森で迷って出てこられなくなる者もいたのか」
「いたと思うね。私の忠告を無視してあの霧の中、森を抜けようとした者達もいたから」
フォルカーの目には、エリオが本気でその者達のことを憂いているように見えた。
「噂とは随分違うんだな……」
「森の魔法使いが人を喰うって?」
エリオが皮肉げな笑みを浮かべる。だがフォルカーはそれには肯定せず、一番印象の強かった噂の話をした。
「この森には、世界でいちばん美しい魔法使いがいるのだと聞いた」
「ああ、それは近年よく言われている噂だな。随分夢のあることを言い出した奴がいたものだ」
エリオが可笑しげに目を細める。
「それで、噂はあたっていたかい?」
「美しいのは確かだが……」
どう答えていいのか分からず、フォルカーは目の前の男の顔を改めて見つめる。
「……やはり、見れば見るほどヴァレンテ様にそっくりだ」
「ヴァレンテ……男の名前か。なるほど、君は私の姿が男に見えるんだな」
エリオがいかにも初めて知ったように頷いたことで、フォルカーは目を丸くする。
「お前は男にも女にもなるのか」
「なるというより、そう見えるらしいね。私自身にはよく分からないが」
「だが、昨日触れた時も見た目と変わりなかったぞ」
「相手にそう思わせるのがおそろしいところさ。厄介なものだよ。女の乳房だと思ったまま私の胸を揉む奴もいる」
「なるほど、本当のお前は男なのか」
フォルカーが言うと、エリオはしまったといった顔をした。彼にとっては余計なことを話してしまったらしい。
「どうせ私の本当の姿など君には見えないんだ。どうでもいいじゃないか。それより、久しぶりに愛するヴァレンテ様に会った感想はどうだい」
そう言って、フォルカーの前に顔を突き出す。
「君のヴァレンテ様はどんな顔をしてる?」
「とても……美しいお顔をされていた。容姿もだが、たたずまいが美しい。あの方が宝石のような目で俺を見ると、この方のためなら命も惜しくないと思えた」
自分と同じ顔であって自分ではない相手を臆面もなく賞賛され、エリオが呆れたように首を振った。
「大層惚れていたんだね」
「そういうものじゃない。命をかけてお仕えするに相応しい主だったから、俺は忠誠を誓っていたんだ」
「……ふうん」
気が付くと、エリオはニヤニヤと品のない笑みを浮かべていた。
「――それじゃあ、君はヴァレンテ様とやらを一度も抱きはしなかったということか」
何を言われたのか、一瞬フォルカーには理解が出来なかった。魔法使いの口にした言葉は、彼にとってそれほどまでに意識の中にないことだった。
頭の中で意味が結ばれると、フォルカーの顔が怒りで朱に染まる。
「……貴様!」
急に立ち上がったせいで、椅子がガタンと音を立てた。エリオの膝の上の竜が音に驚いて目を開く。
「お前は俺だけではなくヴァレンテ様をも侮辱したぞ!」
「そんなに怒ることじゃないだろう。思うだけなら止められる物じゃない」
「俺の忠誠を下卑た欲と一緒にするな!」
「欲のある思慕が必ずしも下卑ているとは思わないけどね……君がそう思っていたならそれでもいいさ」
エリオが面倒そうに立ち上がると、膝の上の小竜はするりと床へ降りた。
「これからしばらく研究室に籠もるから、邪魔をしないでくれ。私は君が来る前と同じように過ごさせてもらうが、霧が晴れるまでここに滞在するというのなら君を客人として扱おう」
言われて、フォルカーは自分がここに厄介になっている身であったことを思い出す。
「無論、君が出て行きたくなったら霧など構わずいつでも出ていけばいい。のたれ死んでも良いならね」
皮肉を言い残し、エリオは地下へと降りる階段を下っていった。
後には小さな竜と、立ち上がったままのフォルカーが取り残される。
「……くそっ」
塔の主を怒鳴りつけた手前出て行きたいのは山々だが、あの妙な霧がある限りここを出てもまた同じことになるのだろう。
こうしてフォルカーの、塔での滞在の日々が始まった。