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フライハイト  作者: 雪方麻耶
19/21

毒を食らわば

 手首を固定されたまま、反対の手で首を掴まれた。物凄い握力で喉が潰されそうになる。


「ぐおお……」


 呼吸が苦しい。血液が脳まで届かず、白く霞んでいく。

 だが、苦痛や慄きを意に介している暇などなかった。総介の思考は、薄れながらもひとつの違和感の正体を解明しようとフル回転していた。

 この連中は俺や優を追ってきたんじゃない。覚束ない足取りで、なぜ三階まで上がってきた……。新庄は、なぜ一直線に三階まで上がってきたのか。俺たちが三階にいるとわかったのか。

 そこまで考えた時、総介の脳裏に浮かび上がるものがあった。確かに見たはずなのに、ごく自然に置かれていたので印象に残らなかった物。この連中はあれを求めて上がってきたのか?新庄も、こいつらが三階まで上がってくることを知っていたからこそ、俺たちが追い込まれていると推し量れたのか?

 総介の目が見開かれた。首を握り潰そうとしている新庄の手首を掴み、引き剥がしにかかった。

 新庄の口角が冷笑で上がる。


「無駄なことを。人間の力で引き剥がせるはずが……」


 そこまで言ったが、新庄は腕に掛かる力に笑みを消した。予想を超えた力で抗われ、ついに新庄の指が総介の首から離された。


「こ、こいつ……?」

「うおおおっ!」


 総介は首から新庄の手を引き剥がしながら、同時に掴まれていた手首を捻り、ナイフを持った手を自由にすることにも成功した。瞬発力を利用した脱出だった。

「そんなに血が欲しいなら、自分の血でも啜ってろっ」

 縛めを解いた総介は、間髪を容れずにナイフを新庄の脇腹に突き立てた。


「きいぃあぁぁっ!」


 奇声を発しながら、新庄は掌底を放った。


「がぶっ!」


 胸板にまともに食らった。肺が潰されかねない衝撃に、総介は体ごと吹っ飛ばされた。ナースステーションのカウンターを飛び越え、端末機器やモニターなど様々な物を巻き込んで机上を滑り、床に叩きつけられた。

 耳障りな金属音がフロアを疾走し、たまりにたまった埃が煙の如く舞い上がった。


「ほんのちょっぴりですが驚きました。まさか私の握力から逃れて反撃してくるとは……火事場の馬鹿力というやつですか」


 新庄は忌々しそうに独り言ち、突き刺さったナイフの柄を掴んだ。


「かあっ!」


 信じられないことに、刃のほとんどが体内に入り込んでいたナイフを力任せに引き抜いた。噴水のように血が迸ったが、新庄が低く唸ると瞬く間に血が止まった。筋肉を締めて止血したのだが、アダムだからできたというわけではない。新庄の身体能力が異常に高いのだ。


「総介ぇっ!」


 病棟の真ん中まで進んでいた優は、立ち止まって総介の名を叫んだ。

 じんじんと熱を持った痛みは鳴りを潜め、意識はナースステーションの奥に向かった。しかし、ここからだと壁が死角となって見ることができない。総介がどのような状態なのかを知ることができない。

 このまま進むべきか引き返すべきかの葛藤が始まるが、自分が戻ったところでなにもできないのはわかっていた。

 迷ったのは数秒だったが、固めた決意は鉄よりも強靭だった。総介は身を呈して自分を逃してくれたのだ。その意志を無駄にしてしまうのは、彼に対する裏切りとなる。


「進むのよ。優」


 自らに命令し、階段を目指して再び歩き出した。

 視界がぼやけ、階段までの距離感が掴みづらくなる。溢れて零れた涙は頬を焼いて床に滴る。捻挫の熱よりも涙が伝った頬が熱かった。


「かああああっ」


 甲高い声が迫った。物凄いスピードで優を追い越し、新庄が立ち塞がった。


「きゃあっ!」


 総介が必死の思いで稼いだ距離を、新庄はたった一度のジャンプでいともたやすくゼロにしてしまった。

 新庄の狂気に満ちた目に見据えられ、かろうじて維持していた気力が放出してしまった。手摺に掴まったまま膝が崩れた。壁にもたれ掛かりながら、ずるずると座り込んでしまった。

 その様子を眺めていた新庄は、目尻を下げいつもの柔和な笑顔に戻った。まるで人格が二つ宿っているみたいな変わり方だった。


「優。お父さんは悲しいよ。あんな通りすがりの男になにを期待していた?」

「わた、私……」

「実を言うとね。私は海斗と違って、本当に君たちを娘のように思っていたんだよ。海斗が馬鹿な事故さえ起こさなければ、あの施設でずっと暮らそうと考えていたんだ。特に優。君は一番長く一緒に生活をしているしね」

「あ…あ…」

「どうだろう? 優さえよければ、また一緒に暮らさないか? 子供たちならもう一度集めればいい。亜希と同じ年頃の女の子だって見つかるさ」


 新庄は手を差し伸べた。捨てられた子犬を怖がらせないようにゆっくりとした差し伸べ方と一緒だ。伸ばされた方は思わず安堵してしまう、芳醇な誘いだった。


「この手を握れば、君は助かるんだ。迷うことなんかないだろう?」


 優は震えながら手を伸ばした。新庄が歯を見せる。それこそが正しい選択だと言わんばかりの穏やかな笑みだ。


「そう。それでいい。もう一度お父さんと呼んでおくれ」


 しかし、優の指先が新庄の手に触れる寸前、優は思い切りその手を払った。


「あ、あなたのような化け物をお父さんと呼ぶくらいなら、死ぬ方を選ぶわ」


 呆然とする新庄。震えながらも強い意思を眼差しに込める優。

 二人の間は、ぴんと張った糸をさらに引っ張るくらいの緊張感で埋まった。優の心の扉は固く閉ざされ、もうどんな説得も甘言も通用しない。そのことを理屈ではなく直感で理解した新庄は、再び獰猛な肉食獣を思わせる険しさを分泌させた。


「……愚かな小娘だ。せっかく目をかけてやったというのに」

「どうせ、子供を集める道具として利用するつもりなんでしょう?」

「それのどこがいけない。君は命を継続させられ、私は糧を得ることができる。持ちつ持たれつの関係だ。共生だよ。悪い話ではないはずだ」

「あなたはやっぱり化け物よ。人の気持ちなんか塵一つほども理解できない、哀れな人造人間だわ」

「論理的に動くことを拒み、ここまで計算的な生き方ができないとは……やはり人間は度し難いな。君はもう必要ないよ」


 新庄の一言は死神の鎌だった。ここで殺されることを悟った優は、それでも新庄から目を逸らすことはしなかった。ここで脅えてしまったら、命だけではなく精神まで化け物に絡め取られる気がしたからだ。人の矜持を捨てたまま死ぬ。それだけは絶対に嫌だった。


「よく言った。優」


 張った糸を断ち切る声が通り過ぎた。

 優が振り向く間もなく、新庄が吹っ飛ばされた。その勢いは凄まじく、優が必死に目指した階段まで一気に弾かれた。


「ぎぇえええっ!?」

「年頃の女の子にお父さんと呼ばせようなんて、気持ち悪いんだよ」


 優の傍らには総介が立っていた。一瞬で間合いを詰め、新庄を蹴り飛ばしたのだとわかるまで、数秒を要した。


「総介……」


 戻ったはずの視界が再びぼやけた。だが、同じ熱さでも今度のは心地好い愛撫が伴っている。優は、涙にも種類があるのだと知った。


「総介、大丈夫なの?」

「優、俺に近づくな」


 優の問いに対する返事は、まったく答になっていなかった。

 その時になって、優は総介の様子がおかしいことに気づいた。肩で息をしており、なにかに耐えているように苦しそうだ。堪えていないと内側から爆発してしまうのではないかと思わせるくらい、気迫が迸っている。


「おまえ……使ったのか?」


 緩やかな動きで立ち上がった新庄が、近づいてきた。豹が獲物を狩る際に用いる、忍び寄る歩き方だ。ダメージがあるためか、それとも用心しているのか、判然としなかった。


「ああ。すごいなこいつは。心臓が破裂しそうだ。延命どころか、逆に命が縮まっちまうんじゃないのか?」


 総介はアルミのケースを新庄に投げつけた。新庄は拳でケースを弾いた。カツンと音を響かせて、通路にコロコロと転がった。それは所々に錆を浮かべたシルバーの筒で、海斗がポケットから取り出した物と同じ薬ケースだった。

 優は叫びたくなった。

 総介はフライハイトを飲んだのか? この絶体絶命の状況を打破するため、薬でアダムと同等の力を手に入れたのか? しかし、フライハイトは未完成で、使用した者がどうなるかは、迫り来る者たちを見ればわかるではないか。それでも、ここから脱出するために、新庄の魔手から逃れるために、使ってしまったのか。

 総介も新庄に近づいた。二人が接近するにつれ、両端から圧縮されるように緊迫した空気が濃密になっていく。

 はじめは二人とも向かい風の中を進むようにゆっくりだったが、近づくのに比例して徐々にスピードを上げ、ついには全力疾走となった。

 総介が突きを繰り出すが、新庄は掻い潜って体当たりをぶちかました。


「ぐええっ!」


 総介が口から血を吹き出した。

 二人は重なったまま壁を突き抜け、病室の中に倒れ込んだ。転がりながら体を引き剥がし、先に立ち上がったのは総介の方だった。

 イルリガードルスタンドが目に入ったので、掴んで力任せに新庄の頭めがけて振り下ろした。

 ゴッと鈍い音がして、確かな手応えが腕を上ってきた。


「ケエェェエッ!」


 ぱっくりと開いた傷から流れ出た血で、新庄がいよいよ異形の怪物に変貌していく。

 視界が遮られたのか、がらむしゃに腕を振り回す。獰猛な拳が総介のすぐそばをかすめ、まったく攻撃を止めない気迫に飲み込まれそうになる。


「もう一撃食らって、さっさとくたばれっ!」


 総介はイルリガードルスタンドを振り上げたが、打ち下ろすために足の動きを止めたのが裏目に出た。

 新庄は殴らないで、総介の胸ぐらを掴んでそのまま引き寄せた。まるで歯車に巻き込まれるような、圧倒的な力に引っ張られバランスを崩した。

 構わず振り下ろしたイルリガードルスタンドは、衝撃でぐにゃりと曲がり新庄の肩を砕いたが、痛みに構ってられないのは彼も一緒なのか一向に怯む気配もなく、今度は逆に総介を思い切り突き飛ばした。


「おおっ⁉」


 総介はとっさに新庄の腕を掴み、飛ばされるのを堪えた。しかし、窓際まで後退してしまい、もう後がない。

 新庄は、またもや総介の首を握り、前へ押し出した。総介の上半身が反り、ガラスのない窓から外にはみ出す。


「死になさい。あなたさえいなくなれば、また一からやり直せる。あなたを始末した後に孤児院を燃やし、不幸な事故で火事になったことにしますよ」


 総介は首を捻って地上を見下ろした。窓の外は、病院に入る前に見た建設途中で放棄されたビルだ。そして、ある一点で視線を固定させた。

 総介の頭に逆転のイメージが湧いたが、それは伸るか反るかの博打に近い方法だった。だが、総介は迷わなかった。


「……じゃないか」

「なんです? 苦しくて上手く喋れないのはわかりますが、言いたいことがあるなら、しっかり喋ってください」

「小細工を考えるじゃないか。海斗もそうだったぜ。人間を見下していながら、やってることは人間そっくりだな」


 総介は仕掛けた。勝負に出たのだ。

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