猫のいたぶり、虎の咆哮
優を抱きかかえて駆け下りた。
「総介っ」
「黙ってろ。舌を噛むぞ」
とにかく一階にたどり着くのだ。降りてしまえば窓をぶち割ってでも建物から脱出できる。そして、そのまま優と一緒に街の外に出てしまえば……。
総介の頭の中では、病院前に停められていた自動車が使えないか、脱出ルートはどうするかなど、目まぐるしい早さで段取りが構築されていた。
「ううっ⁉」
階下から上がってくる何者かの気配を感じ取り、総介は急ブレーキをかけた。勢いはそのままで、前につんのめり危うく転びそうになった。優を抱えたまま転んだら、今度は捻挫どころでは済まない。
二階から上ってきたのは、緩慢な動きの集団だった。どこを見ているのかわからない目は一様に濁っており、まるで死人が歩いているようだった。
「クスリを…早くクスリを」
「うか、うかうかかかぁ~」
「いったい、なんだこいつらは?」
生気がないにも関わらず、悪寒を誘う研ぎ澄まされた危険な雰囲気も伴っていた。動きは緩慢そうだが、数が多い。
「フライハイトを投与された連中か?」
海斗が言っていた。フライハイトを摂取した人間も、信じられない怪力を発揮する。掴まれたら逃げ出すのは至難の業だ。
一か八かの突破を試みるのは無謀と思い、三階へと引き換えした。組み上がりつつあった逃走経路が、音を立てて崩れていく。
「奥にもう一つ階段がある。そっちから降りるぞ」
三階は両端に病室が並んでいて、通路を分けるように調剤室やースステーションナが島となった造りだった。目の前はデイルームとなっており広いスペースを有していたが、それ以降は奥まで病室が並んでいた。嫌な感じを覚えたが、突っ切るしかない。
総介は、装備を確認した。M9はレストランに転がったままだ。装備しているのはシースに収まったナイフ一本のみ。いよいよ追い込まれてしまった。
総介は迷ったが、それは一瞬だけだった。優を下ろして両肩に手を置いた。
「総介?」
「おまえは先に逃げろ。俺が時間を稼ぐ」
「なに、言ってるの?」
「足が痛むだろうが、這ってでも逃げ延びるんだ」
「そんな。そんなのダメだよ」
「俺なら大丈夫だ。あんな奴らにやられやしない」
「うそっ。総介だってボロボロじゃない」
「全員を相手にしようなんて考えてない。時間が稼げたらすぐに追い掛ける。五~六人くらい相手にできる」
「嫌よ。総介が行かないなら、私も行かない」
優は総介に抱きついた。子供とは思えないきつい抱擁だ。
なぜ、こんなにも効率が悪いのか。この状況では二人とも助かるなんて無理な相談だ。なら、片方を生かすために、もう片方ができることをする。考えるまでもないことなのだ。それなのに、この土壇場にきて冷静な判断ができない。
だが、今の総介にはそのことが心地好かった。これだから人間なのだ。機械のようになんでもかんでも結果だけを優先させたら、それはもうアダムと一緒だ。アダムが人間を超えられないのは、この要領の悪さがあるからなのだ。
「…………」
「総介?」
総介は優の頭に手を置いた。
「ガキがよけいなことを考えるんじゃない。子供は大人に甘えるもんだ」
優の視界が歪んだ。どんなに苦しくても歯を食いしばって耐えてきたのに、今日だけで何年分もの涙を流した。
苦しそうな呻き声が近づいてきた。その様子は、さながら地獄から這い出てきた亡者の群れだ。
歩みは緩慢で早い動きはできないようだが、じりじりと確実に近づいてくる様子は、心を万力で締め付けられるような恐ろしさがあった。
そして、ついに自我を失った亡者の行進が三階にたどり着いた。
「行けっ!」
総介の叫びは、物理的な力を帯びて優の背中を押した。優は躊躇を振り払い、手摺を伝って片足を引きずりながら階段を目指した。
その様子を確認した総介は、シースからナイフを抜いて視線を巡らせた。
新庄もすぐに降りてくるだろう。銃を回収できなかったのは痛恨だった。
なにか武器になりそうなものはないか? 切れる物、ぶつけられる物、なんでもいい。とにかく、亡者どもの進行を遅らせて時間を稼ぐのだ。
視界の中に、なにかが引っ掛かった。一度通り過ぎてしまったが、総介の気に止まる物があった。
なんだ? 今注意を引かれたのはなんだったか……。
ナースステーションのデスクに置かれている物を改めて凝視した。
しかし、一度目に入ったはずの物は見つけられなかった。まるで総介に見つかるのを嫌って隠れてしまったかのようだ。
気のせいだったのか……焦る気持ちが、なんでもない物に縋ってしまったのか。
総介が気落ちした直後、目の前の窓がいきなり割れて神経を掴まれる破壊音が反響した。思わず体が跳ねる。ガラスが砕ける音と優の悲鳴が重なり、総介は反射的に一歩退いた。
信じられない物を見た。衝撃の連続で感覚が麻痺してしまっていたが、それでも信じられなかった。そこには、頭や肩に乗っかったガラスの破片を取り払う新庄がいた。
外からだと……?
デイルームとなっているスペースの窓をぶち破って侵入してきた。新庄は不敵な笑みを浮かべた。はじめて会った時の真摯的な笑顔とは程遠い、悪魔が宿った笑みだ。
「待っていたのに全然降りてこないので、察しがついたんですよ。降りられない理由があるんだとね」
地上に先回りしてから、跳躍して飛び込んできたというのか。
新庄は見た目で判断力を鈍らせたと言ったが、まったくその通りだ。こいつの身体能力は、これまで出くわしたどのアダムよりも突出している。あまりに圧倒的な力に脅威した海斗さえも超えている。
「うむぅ……」
総介が絶望に染まりかけた時、意外なことが起こった。群れの一人が、新庄の肩を後ろから掴みかかったのだ。倣うように、他の者も新庄に掴みかかる。なにか意図があるとは思えない動きで、一人が掴んだから、とりあえず自分も掴んだという感じだ。
その様子を見て、総介に期待が芽生えた。
フライハイトの影響で自我を失った人間が誰彼構わず見境なく襲うなら、新庄を片付けてくれるかも知れない。倒せなくとも、足止めをしてくれれば優と脱出できる。
だが、総介が描いた絵図はあまりにも甘かった。
「邪魔だぞ。なりそこないども……」
新庄は群がる糧を一蹴し、周りを血の海に変えた。これでは、倒すどころか時間稼ぎもできない。
「我々と同じくらいの力を得て従順になる者もいれば、こうして木偶の坊になり果てる者もいる。知能が惚けて扱いやすくなるのはいいのですが、人間にとってフライハイトは中毒性があるらしくて、切れるとこうやって暴徒と化すのですよ。まったく人間の浅ましさときたら……」
新庄の嘲笑。なにが嬉しいのか、先程から笑みが絶えない。おくびにも出していないが、獲物を追い詰めた喜びに昂ぶっているのか。
今この瞬間にだって、総介を動けなくできる力を秘めているのかも知れない。しかし、わざと焦らしてなぶって悦楽に浸っている。こちらが脅えて心が折れるのを待っているのだ。
鼠をいたぶる猫のようないやらしさに、総介の怒りが頂点に達した。憤激が畏怖を粉砕し、強力無比な敵に挑む原動力となった。
ここまで我を見失ったのは初めての経験で、脳から指令が伝わる前に、脚が勝手に新庄に向かって突っ込んだ。
「うおおおおおっ!」
逃走のための兎の脚が、闘争のための虎の脚へと変化した。疾風迅雷の突進で、瞬く間に新庄との距離を縮めた。
「ほお、これは?」
まだ笑うのをやめない新庄の首めがけて、ナイフを一直線に走らせた。いくらアダムといえども致命傷になる部位だ。
入った思った。思った瞬間、手首をものすごい力で掴まれていた。強く握られた手首は空中に固定されたみたく動かない。骨まで達する痛みが脳天を突き抜け、みしみしと不吉な音を立て始めた。
「気合だけで打破しようなんて、しょせん……」
「おあっ!」
新庄が喋ってる途中だったが、総介は肘打ちを頬に食らわせた。
新庄の顔が痛みで歪む。
「ジジイのニヤついた顔なんて、見たくないんだよ」
新庄の口から血が滴る。そして、歪んだ顔が総介の挑発で一層醜悪に歪んだ。
「無能な人間が……」
低い怨嗟を込めた呟きは、怒りを孕んだ恫喝よりも腹の底に響いた。




