理想郷
一度自分の部屋に戻ることにした。動きやすい格好に着替えるためだ。子供たちの寝室を横切る際には心臓が硬直するほどの息苦しさに襲われた。
総介は、襲撃は私のせいではないと言っていたが、やはり自分の行動がなにかよくないものを連れてきた気がしてならない。心の中で何度も子供たちに詫びながら通過し、なんとか部屋に着いた。
大きく息を吐き気を取り直した。時間を浪費できる状況ではない。数少ない衣類の中から、急いで相応しい服装を選択した。
フレイドデザインのデニムにシンプルなロゴが入ったカットソーのシャツ、シャツの上にはジャケットを重ねた。シューズは動きやすさを重視したランニングシューズにした。
改めて部屋を見回す。生活に必要な物しか置いていない味気ない部屋だ。記録に残された画像で見たことがある。昔の女の子は、この部屋とは比較にならないほど華やかに飾っていた。可愛いクッションやおしゃれな小物。欲しいものは、携帯端末で注文すればなんでも手に入ったと言う。自分もそんな時代に生まれたかったと、時々思う。
それでも、ここは思い出が詰まった部屋だし、家族と呼べる人たちと苦楽を共にした家だ。慕ってくれた子供たちを殺され、父と呼ぶ新庄までさらわれた。このままなにもしなかったら、どんな結果になろうとも後悔する。それは絶対に嫌だった。
固めた決意をさらに強固にし、優はエントランスに向かった。闘志が萎えないように足早に歩を進める。そこには総介が立っていた。すぐ横には隆の姿もあった。
「………………」
海斗は総介に頼れと言ったが、そのつもりはなかった。彼は自分の身しか考えていない。彼が自分で言ったまんまだ。巻き込まれて保身のために奮闘した結果、私も助かったに過ぎない。
「なに? 挨拶はいらないって言ったわよ」
「おまえが行ったところで、どうにもならん。世の中には勇気や決心だけじゃ太刀打ちできないことがあるんだ」
やっと固めた決心を、いとも簡単に砕くことを言う。言ってることは正しいのだが、その言い方は反感を煽った。
「そんなのわかんない。なにもしないでじっとしてるよりマシよ」
総介はため息をついた。問題児を抱えた教師のように。
「むざむざ殺されに行くようなもんだ。そんな結末、新庄さんも海斗も喜ばん」
「海斗さんが、二人を助けてって言ったの。私は行く」
「………………」
二人の緊迫したやり取りに、隆はすっかり萎縮している。
総介たちの横をすり抜け、扉を開けようとドアノブに手を掛けた。
「殺されるぞ……だが、それは一人で行った場合だ。俺が一緒に行けば死なないし、新庄さんも助けられる」
優は思わず振り返った。総介の目を見る。彼の目はどっしりと落ち着いていた。
「仕方ねえだろ。一宿一飯の恩ってやつだ。俺も行くよ」
総介の申し出に、膝が崩れそうになる。如何に気を張っていたか気づいた。しかし、散々苦い思いをしたのだ。意地が邪魔をして素直に縋れなかった。
「一人で……」
大丈夫と言おうとしたが、隆が滑り込んだ。
「お願い。おじちゃんも連れてってあげて」
懇願する声に、心に築かれた壁の一部に穴が開いた。
「……勝手にすれば」
意地っ張りな台詞に、総介は苦笑した。そして、なんとなく胸が温かくなっていくことに気づく。絆というのは、こうやって進退を重ねて育んでいくのだろうか。
「優の許可が出たからな。行ってくる」
「今日も泊まってって。優お姉ちゃんが僕の好きなもの作ってくれるって言ってたから、今夜はトマトのパスタだよ」
仲間の死に悲しみ、姉のように慕う優の身も案ずるが、同時に今日の糧のことで微笑むこともできる。幼すぎる思考に、いつの間にか身に着けていた平衡感覚が退化し目が眩みそうになる。
「そいつは楽しみだ」
総介は隆の頭を軽く叩いた。
総介と優は横並びで歩いた。総介の方が足は速いのだが、美濃病院の場所を知らない。優に先導してもらわなければならないので、歩調を合わせているのだ。
もう少しで夜が明けるが、夜明け前が一番暗い。
文明の退廃により、よくなったことがいくつかある。星空の美しさがその一つだ。あの奇跡をばら撒いたような美しさは何億年も前から存在したのに、人間が自ら遠ざけたのだ。
宇宙の光を地上に落とし、そして再び宇宙に返した。どれだけ神に近づこうとしても、やはり人の力には上限があるのだ。だとしたら、今回の事件は神すらも見下そうとした人間に与えられた罰なのだろうか。
優は落ち着かず、気持ちが跳ねては降下し、また別の着地点を求めて跳ねるを繰り返していた。
一方、総介は無言で前だけを見ている。生きている時間が長ければ、嫌でも様々な経験を積まなくてはならない。その差が如実に表れていた。
「戸川はもう向かっているのか?」
ふいに訊かれたので、返事が一拍遅れた。
「うん。大船に乗ったつもりで待ってろって」
総介は特になにも言わなかった。優は会話をするきっかけができたと思い、慌てて言葉を継ぎ足した。
「……あの、ありがとう」
控えめな声で礼を言った。総介は黙ったまま優を見下ろす。
「隆に頼まれたの?」
「それもある。だが、もっと個人的な事情だ」
「個人的? 総介の?」
「そうだ。人間らしいことがしたくなった」
優にはいまいちわかりづらかったので、目で続きを促した。
「俺は今まで自分のことを最優先に考えて生きてきた。それが当然だろうと。それなのに、おまえや戸川は身の危険も省みず、敵地へ赴こうとしている。もしかしたら、こういった不確定な行動の中に人間らしさがあるのかも知れないと思った」
「なにそれ? わかんないよ」
「俺もだ。だからこそ知りたい」
総介には、なにか見つけたいものがあるらしい。そのことについては、優は深く考えなかった。本人にもわからないものを、他人がいくら考えてもわかるはずがない。
だから、もっと具体的な質問をした。
「総介はなんで旅をしてるの?」
総介は少しだけ逡巡してから、おもむろに喋りだした。
「理想郷を探している」
優は戸惑った。
現実のありとあらゆる厳しさを経験してきたような大人から、いきなり夢でしか聞かない単語が出てきたからだ。
「そんなものホントにあるの?」
「理想郷というのは、もちろん便宜的にそう呼んでいるだけだ。俺が探しているのは、人間だけの街だ」
「人間だけの……」
「何度も言ったことだが、アダムは人間社会に溶け込んでいる。姿形は人間そのものだから、正体を見極めるのは困難だ」
なにか質問は? という感じで、総介は言葉を切った。ここまでは優にも理解できたし、もう疑ってもいない。黙って頷いた。
「逆に、アダムが人を襲うのは簡単だ。ほとんど手当り次第と言っていい。しかも、アダムは人を襲わないと信じられているから、絶対に容疑には入らない。そうやって、何十年もの間、人の血を啜って生き続けてきたんだ」
「人の血で長生きするなんて、吸血鬼みたいね……」
「その事実に気づいた連中がいるらしく、アダムを完全に隔離して、人間だけの街を築いたという話を聞いた。俺はなんとしても、その街に行きたい」
「どこにあるの?」
「わからん」
あまりにもあっさりと言うので、優は声を跳ね上げた。
「わからない? それで旅なんか続けてるの? 食料を得るのだって苦労するこの時代に」
「おまえは殺人犯がいるとわかっている館で、ぐっすり眠れるのか?」
優はぐっと返答に詰まる。
「俺は長生きしたいんでね」
肌身離さず携帯する武器。誰にもすり寄らない尖鋭的な態度。優が反感を抱いたすべてが、必死に生き抜こうとして彼が身に着けた処世術なのだ。ひょっとしたら、さっき言っていた「人間らしいことがしたい」というのは、そこらへんに起因する言葉なのかも知れない。
自分のことはもういいだろうと言わんばかりに、総介は目の前の脅威に話を移した。
「この街のアダムのことだが……」
「うん?」
「攻撃が組織的すぎる。まるで以前から計画されていたかのような周到さだ」
「なに? どういうこと?」
「逆かも知れん」
「逆? 逆って?」
「優は亜希の件で行動し、俺がアダムを一体屠った。そのせいで襲撃を受けたと思っているんだろ?」
「うん……」
「もしかしたら違うんじゃないのか? もしも亜希の失踪からして事態の端を発しているなら、図式が根底から覆る」
「えっ? なに? なんのこと?」
「まだはっきりしたことは言えない。なんとなく引っ掛かるってだけで、曖昧な点が多すぎるんだ。だが、もしかすると……」
「なによ? なにブツブツ言ってるの? 怖いよ」
優には、総介の考えていることがまるでわからなかった。しかし、とてつもなく禍々しい気配だけは感じ取れる。
なにに思い至ったのかは知らないが、その推理は外れてほしいと思った。




