人の心
総介たちは食堂に集まっていた。今度はコーヒーもビスケットもなしだ。
二階の惨劇を見た戸川は血走った目で呼吸を荒くし、海斗はケガをした頭を抱えて崩れ落ちそうだ。優が応急手当したが、巻いた包帯には血が滲んでいる。
重苦しい沈黙の中、口を開いたのは戸川だった。
「隣家から通報があって来てみれば……いったいなにが起きたんだ」
数秒の間をおいて優が答えた。
「私のせいだ。私が余計なことをしたから……」
「亜希を探すのが余計なことだってのか?」
総介の台詞に、優の顔がくしゃっと歪んだ。
「だって……」
「どういうことだ?」
戸川は身を乗り出した。優は亜希の行方を見つけるために行動していたことや、総介に助けられた経緯を説明した。
「危険なことを……」
戸川の声が尖った。だが、友人の身を案じてのことだったし、今は掘り返している場合ではないと思ったのか、それ以上のことは言わなかった。
「しかし……アダムが人を襲うなんて、ちょっと信じられんな。新庄さんを連れていった奴も、二階で死んでるやつも、アダムだってのか」
戸川の呟きに、優は総介に視線を送った。
「手首を調べてみろ。その個体の情報を読み取るコードが刻まれている。小指の爪ほど小さいし、処理をして消してる奴もいるから、わかりづらいがな」
「……新庄さんを助けないと……でも、どこに連れ去られたんだ?」
「病院です」
それまで頭を抱えて下を向いていた海斗が、顔を上げた。その端正な顔は青ざめていて一気にやつれたように見える。
「僕を襲った奴から、次亜塩素酸ナトリウムの匂いがしました」
「じあえん……なんだ、それは?」
戸川が眉を持ち上げて訊いた。
「消毒薬ですよ。病院って独特の匂いがあるでしょう。あの匂いがしたんです」
「病院かっ」
総介は思わず大きな声を出した。まったく迂闊だった。アダムは病気とは無縁なので、病院との繋がりが想像できなかった。だが、病院ならたしかに多人数を収納できるし、設備も整えやすい。
「ここらへんに大きな病院はあるか?」
「それなら、美濃病院だな。車なら十分と掛からない。徒歩でも二十分もあれば行ける」
戸川の説明を聞くまでもなく、優には道順を描くことができた。
「行きましょう。まだ間に合う」
「そうだな。おい」
戸川は座らずに立っていた団員の一人に指示を出した。
「二人ほど事務局に戻って武器を調達しよう」
優と戸川が立ち上がった。しかし、総介は動かなかった。
「総介?」
「意気込んでるところに水を差すようで悪いんだが……」
一度言葉を切って続けた。
「俺は助けに行くなんて一言も言ってないぜ」
「総介。またそんな……」
優の声が曇り、戸川は不思議なものを見るような視線で凝視する。
「この街のアダムは、なにか変だ。今まで会ったことのないタイプで、危険な匂いがぷんぷんする」
「そりゃ……アダムが人を襲うなんて……」
総介の話を聞いていない戸川は、アダムの安全性について言及したが、総介は首を振った。
「そうじゃない。あんたらが知らないだけで、アダムは人を襲い続けている。今までも、そしてこれからもだ」
「なんだ? なにを言っている?」
戸川は初めて因数分解を説明された学生のように眉間にしわを寄せた。だが、総介は意に介さなかった。
「アダムが大量虐殺するなんて不自然なんだ。人間は奴らにしてみれば命の糧だ。言わば食糧だ。それなのに、意味もなく命を奪うなんて、どう考えてもおかしい」
「食糧? なにを言ってるんだ。あんた……」
戸川の声には怯えが混ざり始めている。身に迫る恐怖ではなく、子供が怪談を怖がるように、不可解なものに対する心に忍び寄る怖さを味わっている。
「襲撃の理由も、優が原因ではない気がする。もっとなにか……違う目的のために実行したんじゃないだろうか」
総介は話の本筋が逸れたと思い、軌道修正した。
「つまり、そんな得体の知れない陰謀の中に飛び込む気はないということだ」
食堂が静まり返った。総介の話に恐れ、そして助けに行かないという冷酷な態度に怒りを感じて喋れないといった感じだ。優がその息苦しい沈黙を破った。
「……お父さんを、亜希を見捨てるの?」
まるで、三流役者が渡されたばかりの台本を読んでいるような、感情の篭もらない言い方だった。隣に座っている隆が不安そうに見つめている。
さすがの総介も、即座には切り返せなかった。顎を引いて声を一段落とした。
「俺は巻き込まれたんだ。責任を押し付けるのはやめろ」
優が立ち上がった。肩がわなわなと震えている。さっきのように息巻くと思ったが、海斗が優の手にそっと自分の手を重ねた。
「僕が行く。新庄さんには返しきれない恩がある。なんとしても助けたい。それに、亜希ちゃんも捕らわれているなら尚のことだ」
「そんな……海斗さん、ケガしてるじゃない」
「大丈夫だよ。これくらい」
海斗は立ち上がった。しかし、短い呻きを発すると膝から崩れ落ちた。テーブルにしがみついて、なんとか転ぶのは防いだ。
「海斗さんっ」
優が腕を添える。彼女の力を借りて、海斗はゆっくりと立ち上がった。
「……情けない」
「とにかく休みましょう。横になってなきゃ駄目です」
「そうだね……」
優は海斗に肩を貸した。海斗の体重で体が斜めに傾く。
食堂から出る時、振り向きもせずに言った。
「総介……夜が明けたら出ていって。お別れの挨拶はいらないから」
「………………」
重たい空気がさらに重たくなる一言を残して、優は海斗と消えた。
隆は困ったように優の後ろ姿と総介を交互に見たが、すぐに椅子から降りて優の後を追った。
「あんたは、もっと人の心のなんたるかを学んだ方がよさそうだな」
戸川の声は乾いていた。総介を非難するというよりも、沈黙に耐え切れなくなったから言っただけだとわかる口振りだ。
「おまえだったら、数時間前に出会ったばかりの人間のために命を懸けられるのか?」
「こういうことは、時間の問題じゃ……」
一応の反論を試みるも、戸川は途中で押し黙った。誰だって命は惜しい。感情的には優の味方だし、助けは多い方がいいに決まっている。しかし、総介の言うことは決して間違ってはいないことも理解できるのだ。
人は仕事と思えば、無茶な行動だってできる。新庄と亜希の救出に赴くのは、自分がこの街の守り人であると自覚してるからだ。立場ゆえにやらなければならないと思えるのだ。もし、自分がよその街で総介と同じ状況に立たされたとして、投げ掛けられた問いに「やるとも」と言い切れる自信はなかった。
それでも、自警団のリーダーを務めているプライドが、戸川の口を辛辣にさせた。
「手を貸したくないってんなら、それでいいさ。所詮あんたは余所者だからな。それに拳銃なんかどうやって手に入れた? そこいらの粗悪なコピー生産品じゃない。ベレッタなんて表のルートじゃ入手できないんじゃないのか? どうもあんたは信用できん」
そう言い残し、戸川と自警団の団員も出ていった。
一人残された総介は、胸のうちに青白い炎を燻らせた。
「人の心だと……?」
先代の馬鹿どもはそれを軽く考えたから、今の状況を生んだんだ。言われるまでもなく、いつも考えている。
声を大にして訴えたい衝動を、総介は唾と一緒に飲み込んだ。
戸川は海斗の部屋をノックした。返事がない。遠慮がちに扉を開くと、ベッドで寝ている海斗と傍らに座っている優と隆がいた。
「優ちゃん。入るよ」
室内には必要最低限の物しか置いてなく、気のせいかひんやりした。
「これから美濃病院に行ってくる。新庄さんも亜希ちゃんも必ず連れ帰るから」
「待って。私も行きます」
優は立ち上がった。戸川は優と向き合う。
「いや、これは我々の仕事だ。優ちゃんは海斗君のそばにいてやってくれ」
「でも、私のせいで……」
「あいつが言ってただろう。優ちゃんのせいじゃないって。気に入らない奴だが、その意見には賛成だ。子供が余計な責任を感じるもんじゃない」
「こんな時に大人も子供も……」
戸川は優の頭に手を置いた。
「こんな時だからだ。人口はどんどん減っているんだ。君たちが安心して次の世代に繋げられる環境を作るのが、大人の責任なんだ」
ずっと引き締まっていた優の口元が緩んだ。
「戸川さん。おじさんみたい」
「俺はもうおじさんだよ。大船に乗ったつもりで待っててくれ」
戸川は、優の肩をぽんと叩いて部屋から出ていった。
優は海斗の寝顔を見つめながら葛藤していた。
自分はここに座っているだけでいいのか。襲われた新庄の苦悶の表情が浮かび、亜希のあどけない笑顔が浮かび、それから幼い命を強制的に終了させられた子供たちの遺体が脳裏を直撃した。今も二階に横たわっている。片付ける余裕がなかったので、毛布を掛けてあるだけだ。
片付けるだなんて……。
物を扱うみたいな表現を用いた自分に驚き、涙腺の機能が狂ったように涙が零れ落ちた。
「優お姉ちゃん」
いつも頼っている者が泣き崩れ、隆は一気に不安になった。彼の目にも涙が浮かんでくる。
いったい、これはなんの罰だ?
堪えずに嗚咽を漏らしていたら、涙が滴る手に、海斗の手が添えられた。
「海斗さん……起きてたの」
「こんな時に気を失うなんて……僕は本当に無力だ」
「そんなこと言わないで。相手は普通じゃないんだもの。仕方ないよ」
「優ちゃん、新庄さんを……亜希ちゃんを……」
優の胸がきゅっと締まる。それに連動して、海斗の手を強く握った。
そうだ。やはり、このままなにもしないなんて駄目だ。戸川さんは危険が及ばないように気遣ってくれたが、私にもできることがあるはずなんだ。
「安心して。戸川さんがもう向かってる。私も行ってくるから」
「……一人じゃ無理だ。百武さんに一緒に行ってもらうんだ」
優のまぶたに総介の冷たい顔が浮かぶ。
「でも、あいつは……」
「彼なら助けてくれる。行ってくれるよ」
海斗は声を振り絞り、それだけ言うと再び気を失った。力なく崩れる手を、優はそっと毛布の中に入れる。そして隆をまっすぐ見つめた。
「隆。海斗さんの看病をお願い」
「優お姉ちゃん、病院に行くの?」
「そう……そうよ」
「あのおじちゃんは?」
「総介は……もう街から出ていくから……」
「でも、一人じゃ危ないよ。海斗兄ちゃんだって、あのおじさんと行けって」
隆は必死に訴えた。優の身を案じてのことには間違いないが、それ以外にも、どこか総介を信頼している口振りだった。子供の心を掴むなにかが彼にはあるのだろうか。
「大丈夫。戸川さんたちが先に行ってるから。今からならすぐに追いつける」
「でも……」
なおも言い募る隆と目線を合わせるため、優はしゃがんだ。そして、彼の手を取った。
「帰ってきたら、隆の好きなもの作ってあげる。留守番できるわね?」
「………………」
「海斗さんを守ってあげて」
「うん……」
「いい子ね」
優は隆の頭をやさしく撫でた。それから、海斗の寝顔をしっかり瞳に焼き付けた。
「いってきます」
決意のために固くなった声で、聞こえているはずのない海斗に出掛けることを告げた。




