第61話 誰の命令で逃げる
北門を開ける命令と閉める命令が、同じ印を押されて同時に届いた。
試行暦、第百十一日。
《大低潮》の波が反復し、王都北区は極度の混乱に陥っていた。
魔導遠話網が断続的に途切れる中、王都暫定教育・記録指揮所からの指示を携えた二人の伝令が、息を切らせて北門の中継詰所へ駆け込んできた。
地方警備隊の現場調整補であるリーゼ・ヴァルトは、二人が差し出した命令書を受け取り、眉をひそめた。
「どういうことだ。こっちの書面には『外縁退避路へ向けて北門を全開放せよ』とあるのに、もう一通には『喰魔種の接近に備え、北門を完全封鎖せよ』とあるぞ!」
北門の警備隊長が声を荒らげる。二通の命令書には、どちらも中央の正規の認可印が押されていた。
少し前のリーゼなら、自分が中央の意図を完璧に読み解こうとして思考の泥沼にハマっていただろう。だが、彼女は命令書の中身そのものよりも、その端に刻まれた『受領時刻』と『発行時刻』の記録欄を冷静に見比べた。
「遠話の断続で、紙伝令の中継に遅れが生じています。……旧命令と新命令の順序が逆転して届いたんです。発行時刻が新しいのは、『北門を開放せよ』の方です」
リーゼは旧命令である『封鎖』の紙に赤で斜線を引き、失効条件を満たしたとして躊躇なく破棄した。どちらの権威も盲信せず、時間という物理的な条件で切り分ける。
「隊長。王都の北側市街地から、多数の避難民がこの北門を目指して押し寄せてきます。すぐに外縁の退避路を開き、誘導の指揮を」
「分かっている! だが、門の魔導駆動機がさっきから反応しない。俺は手動での門の開放と、詰所周辺の防衛に掛かり切りになる。避難民の誘導と周辺警戒まで手が回らん!」
北門隊長がギリッと歯噛みした時、詰所の奥で魔導通信機の配線と格闘していた若い技術者が立ち上がった。
セドリックだった。彼は本来、魔導通信網の復旧・保全技術者としてこの北門に派遣されていた。
「隊長。緊急委任条項の適用を進言します」
セドリックは冷静な声で告げた。
「私は通信技術者ですが、カルド分校での統一資格試験において前衛班長として合格し、警備補助の有資格者でもあります。現在、魔導具の戦技補助が乱れ、正規の警備隊員の戦力が低下しています。私に、周辺警戒と市街地側の警備小隊の統率を暫定委任してください」
それは、危機に乗じて指揮権を乗っ取る越権行為ではない。魔導具が止まっても、彼自身の身体能力と戦術理解という『職能』そのものは消えない。その職能を、現場の手詰まりを解くため、一時的な委任の下で貸し出す合理的な提案だった。
隊長は数秒だけ迷い、重々しく頷いた。
「許可する! これより北門周辺の警備小隊統率を、セドリック技術員へ暫定委任する!」
暫定小隊長となったセドリックは、即座に控えていた騎士たちへ適切な指示を飛ばし始めた。
そして彼は、その足でリーゼの前へと歩み寄った。
「ヴァルト調整補。私は戦闘と警戒の指揮は執れますが、北区の細かな土地勘と、逃げてくる住民の避難線の判断については、あなたに委任します」
「……私に?」
「中央の確認を待っていては間に合いません。ここから先の退避路の選定は、あなたが決めてください」
それは、有能な若手が、自分の専門外の領域を現場の担当者へ切り分ける『権限交代』だった。
リーゼは綴じ板を握りしめた。
(私が、何百人もの避難民の逃げ道を全部決める……)
一瞬、自分が全責任を負い、全員の命の判断を自分に集めなければならないという重圧と、それをやり遂げてみせたいという誘惑が湧き上がった。
だが、自分が全てを抱え込めば、必ず判断が遅れる。伝令の試験の時と同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。
リーゼは息を吐き、周囲の現場担当者たちを呼び集めた。
「門番は『退路が安全か』だけを見て! 荷役長は荷物を見捨てて『人数』だけを数えて! 住民班長は『再集合時刻』だけを叫んでください! 私が判断するのは、最終的にどの道を使うかだけです!」
自分が判断する項目を極限まで減らし、現場へ権限を渡す。それが彼女の選んだ『分散指揮』だった。
*
「喰魔種の群れが接近! 避難民の後方に迫っています!」
見張りからの悲鳴が響いた。
深層の餌不足から這い上がってきた《鉱殻喰い》の群れが、市街地を抜けて北門へと向かってきていた。彼らは人間を直接襲うわけではないが、避難民が手放せずに持っている「携帯魔導具の残留魔力」に引き寄せられていたのだ。
「強化術式は展開するな! 魔力を放出すれば、奴らの蓄魔嚢を刺激してさらに群れを呼ぶぞ!」
前線に立ったセドリックが鋭く命じた。
彼は騎士たちに大魔法で喰魔種を討伐させるような、英雄的な愚行は選ばなかった。
「避難民から魔導具を回収し、鉛で裏打ちされた『封緘箱』へ集めろ! 発煙筒を焚け! 物理的な煙と柵で、奴らを外縁の『管理誘導区』へと流し込むんだ!」
セドリックの指揮により、魔法を使わない物理的な対応が展開される。喰魔種の群れは、煙を嫌い、魔力の勾配が意図的にずらされた外縁の空洞へと、ズルズルと向きを変えていった。
群れを逸らすことには成功しつつある。だが、避難民の誘導には致命的な問題が発生していた。
「ヴァルト調整補! 避難経路の『河岸路』で崩落の兆候があります! 路肩が沈み、避難用の物資を積んだ馬車が三台、立ち往生しています! このままでは後ろがつかえます!」
「もう一つの『北大路』は!?」
「あちらは徒歩なら通れますが、物資車は通れません!」
報告を受けたリーゼは、決断を迫られた。
物資車を救うために河岸路の復旧を試みれば、数百人の避難民の足が止まる。かといって物資を失えば、避難先での生活が成り立たなくなるかもしれない。
(両方は、守れない……)
リーゼは唇を噛み切り、決断を下した。
「河岸路は放棄します! 物資車三台も捨てて! 全員、徒歩で通れる北大路一本へ退避を集中させてください!」
後で「あの物資があれば」と責められ、誤りだったと判明しても、決して取り戻すことはできない。その手痛い代償を自らの責任として負い、彼女は一本の道だけを選び取った。
中央への確認を待つことなく、現場の緊急委任条項の下で、リーゼの指示が実行される。
門番が退路を示し、荷役長が人数を数え、住民班長が声を枯らして誘導する。
泥まみれになった避難民たちが、次々と北門を抜け、北大路に設けた退避線を越えていく。
「最後の住民、退避線を越えました! 北門、完全閉鎖!」
重い木製の門が、物理的な閂で完全に閉じられた。
その瞬間、リーゼの肩から力が抜けた。彼女に与えられた『退避線決定権』は、住民退避の完了と共に自動失効し、現場の指揮権は再び小隊長であるセドリックへと正しく返還された。
権限を奪うのではなく、必要な時だけ借り受け、任務が終われば返す。その権限規則が正しく機能したのだ。
だが、彼らが安堵の息を吐く暇はなかった。
通信室の遠話器から、環境局からの赤い緊急通報を知らせる鋭い警鈴が鳴り響いた。
セドリックが受話器を取り、その顔を強張らせる。
「……環境局から、『二つの枝系統で補償暴走』の赤票です」
北区をはじめとする周辺系統が安全のために次々と落ちた結果。
王都の魔力を統括する心臓部、『主中継核』が、周辺の魔力不足を補うために、自動補償機能を働かせて外部から異常な勢いで魔力を吸い上げ始めてしまったのだ。
高密度の残留魔力は、喰魔種の巨大な群れを呼び寄せる最悪の誘引源となる。
最後の避難民が北大路へ逃げ込んだ時。
北門の詰所に設置された、王都中央の魔力圧を示す吸上げ針が、危険を示す赤い境界線を、ジリジリと、しかし決定的に越えていった。




