第60話 治せない時にも
救命列は二本、搬送待ちの列が一本。
その外側に、毛布だけの列があった。エダ・モーンの担架は、そこへ運ばれた。
試行暦、第百十日。
《大低潮》による都市機能の反復停止が続く中、街道治癒院の臨時救護棟は、戦場の救護所さながらの様相を呈していた。
天井の魔導照明が明滅し、精密な体内走査を行う診断盤の光は数十分おきに消灯を繰り返している。魔力環境の低下により、空間の魔力を吸い上げて稼働する大型の治癒補助設備は、ほとんど使い物にならなくなっていた。
限られた治癒師の数と、人力に頼らざるを得ない物理的な処置。
マリエル・ノースは、次々と運び込まれる負傷者を前に、声の限りに指示を飛ばしていた。
赤札は、今すぐ処置すれば助かる第一救命列。橙札は、短時間の処置で搬送に耐えられる第二救命列。黄札は、保温と止血を行って搬送を待つ列。黒札は、救命不能だが放置しない毛布列だった。
「この方は赤い札! 第一処置室の『直ちに処置』の列へ! そちらの出血患者は黄色札! 『保温・止血して搬送待ち』の列へ並べてください!」
マリエルは患者を、重症度と緊急度に応じて明確な列へと振り分けていく。
そして、その三つの列のいずれにも入れない患者たちがいた。
それは、現在の治癒院の設備と人員では、どう処置をしても助かる見込みのない『救命不能』と判定された者たちだ。
彼らは、救護棟の最も奥、風の当たらない壁際に並べられた『毛布列』へと移される。だが、そこは決して死を待つだけの放置場所ではない。マリエルたちは毛布列の患者にも必ず担当者をつけ、巡回時刻を記録し、可能な限りの鎮痛や口腔の湿潤といった『実施行為』を記録票に残す運用を徹底していた。治すことはできなくても、苦痛を減らす手順は放棄しない。
バンッ、と救護棟の扉が開き、血だらけの担架が運び込まれてきた。
「西区からの急患です! 倒壊した棚から子供を突き飛ばして、自分が下敷きに……!」
担架を運んできた住民班の若者が悲痛な声を上げる。
マリエルは駆け寄り、担架の上を見て息を呑んだ。
そこに横たわっていたのは、西区で配水所を取り仕切り、マリエルの作った専門語だらけの手順書を「生活の言葉」へと翻訳してくれた恩人、元助産師のエダ・モーンだった。
「エダさん……!」
エダの意識はかろうじてあったが、顔面は蒼白で、呼吸は浅く速い。胸腹部を強打しており、腹部が異常に膨隆している。マリエルの経験の浅い目から見ても、致命的な大量の内出血を起こしていることは明白だった。
「どきなさい」
マリエルの背後から、治癒院のロザ主任が進み出た。
主任はエダの脈をとり、腹部を素早く触診すると、冷たく、しかし僅かに震える声で判定を下した。
「……腹腔内で大出血が続いている。複数の内臓損傷が疑われるわ。平時なら魔導手術と輸血設備で繋げる命だけど、その両方が機能しない今の低魔力環境下では……救命不能域よ。黒札を」
マリエルの頭の中が真っ白になった。
エダは、つい数日前までピンピンしていて、自分に文句を言いながら一緒に赤縄札を書き直した人だ。そんな彼女を見殺しにするなんて、絶対にできない。
「主任、待ってください! 私が持てる魔力を全部注ぎ込んで、せめて血管だけでも塞ぎます! 他の手の空いている治癒師を呼んで、交代で魔力を流し続ければ、あるいは……!」
マリエルはエダにすがりつこうとした。親しい一人を助けるためなら、運用規則を曲げてでも救命資源を集中させたい。治癒師としての冷静さを失い、感情のままに叫ぶ。
だが、ロザ主任はマリエルの肩を強く掴んで引き戻した。
「周りを見なさい、マリエル!」
主任の鋭い一喝に、マリエルは弾かれたように周囲を見渡した。
『直ちに処置』の列には、今すぐ止血術を施せば確実に命が助かる複数人の患者たちが、苦痛に呻きながら順番を待っている。
もしマリエルがエダ一人に魔力と人員を独占すれば、あの列で待っている三人の命が、確実に血の海に沈むのだ。
「……ッ」
マリエルは唇を強く噛み、血の味が口の中に広がった。
全員を救う魔法はない。主任の選別は残酷だが、今ここで救える命を最も多くするためには従うべき判断だった。
マリエルは親しい一人を見捨てられないという誘惑を断ち切り、自らの手でエダの担架の持ち手を握った。
「……エダさんを、壁際の列へ移動させます」
マリエルはエダを毛布列へと運んだ。
だが、救命を止めることは、世話を止めることではない。
マリエルはエダの体を乾いた毛布で包み、ロザ主任から許可された微量の鎮痛魔法だけを定期的に施した。水で湿らせた布で彼女の唇を潤し、エダの元助産師仲間たちと交代で、絶対に誰かが側に付いて見取りの役を担う体制を組んだ。
「……まったく、大げさなんだよ」
毛布の中で、エダがかすれた声で文句を言った。
「こんな分厚い毛布、暑苦しくて敵わないね。あたしはまだ死なないよ」
「すみません、でも体温を下げてはいけないので……」
「ノースの嬢ちゃん。あんたの顔が暗いから、こっちまで気が滅入るんだよ」
死の淵にあっても、エダは聖人君子のように感謝を並べて微笑んだりはしなかった。彼女は普段通りに小言を言い、苛立ち、生活者としての生々しい感情を吐き出した。
「ほら、あんたの腰に下げてるその札……見せてみな」
エダの要求に、マリエルは腰から『赤縄札』を外して彼女の目の前へかざした。
エダは震える指先で、裏面に自分が書き足した文字をなぞった。
「……ダメだね。『隣へ渡したか』って字が、小さすぎる。これじゃあ、老眼の年寄りには見えないよ。もっと太く、一番上に書き直しな」
「……はい。はい、直しておきます。後で一緒に、もっと太いペンで書き直しましょう」
マリエルは溢れそうになる涙を必死に堪え、彼女の訂正を受け取った。
同じ時間、臨時救護棟の入り口では、新たな患者たちが次々と運び込まれ、エダが整えてくれた『息があるか、血が止まるか、冷えていないか』という生活語の手順に従って、滞りなく『直ちに処置』の列へと引き継がれていた。
エダの残した言葉が、今この瞬間にも何十人もの命を確実に繋いでいる。だが、その成功体験が、エダ本人が死んでいくという事実を美しく相殺してくれるわけではなかった。
日没前。
エダ・モーンの呼吸が止まった。
マリエルはゆっくりとエダの手を離し、時間を記録した。
悲しみに浸りきって泣き崩れることは許されない。彼女にはまだ、生きて順番を待っている患者たちがいる。
マリエルは綴じ板を引き寄せ、覆しようのない事実として『死亡票』を書き込んだ。だがそれと同時に、彼女はもう一枚の紙を死亡票に留め金で留めた。
それは、エダが運び込まれてから息を引き取るまでの間、何時何分に誰が鎮痛を施し、誰が唇を潤し、誰が手を握っていたかを示す『介護記録』だった。
命を救うことはできなかった。だが、彼女の最後の時間を孤独と激痛の中に放置せず、人としての尊厳を守るための手順は、確かに果たされた。その記録を、マリエルは医療者の意地として残したのだ。
「マリエル! 休んでる暇はないわよ!」
ロザ主任の緊迫した声が響いた。
救護棟の入り口に、全身を泥とススで汚した警備隊の伝令が倒れ込むようにして入ってきた。
「北区からです! 喰魔種の群れが想定以上の規模で北門に接近! 北区全域の住民が、外縁部へ向かって大規模撤退を開始しました! 負傷者が多数出ます、最大級の受け入れ準備と支援を!」
マリエルは綴じ板を置き、袖で目元を乱暴に拭った。
机の上に残されたエダの死亡票。その横に置かれた救護札の裏面には、元助産師が最後まで消さずに残した四文字が、炭のインクで刻まれていた。
『隣へ渡したか』
マリエルはその言葉を胸に刻み、新たな悲鳴が上がる扉の方へと駆け出していった。




