第6話 治せない者の救命
救護訓練所のひんやりとした空気の中、淡く頼りない魔導の光が明滅していた。
マリエル・ノースは、床に横たえられた模擬患者の腹部に両手をかざし、額から大粒の汗を流していた。ダミーには、刃物で深く抉られたような模擬創傷が設定されており、赤い染料が絶えず滲み出ている。
通常、上級治癒師であれば、数秒の詠唱と高い魔力出力によって一気に細胞を活性化させ、傷口を塞ぐことができる。しかし、マリエルの手から放たれる治癒の光は蛍のように弱々しく、傷の表面を撫でるだけで、一向に出血が止まる気配はなかった。
「……っ、塞がって。お願い、塞がって……!」
マリエルが必死に魔力を振り絞る傍らで、見学していた小柄な少女、フィオナが腕を組んでため息をついた。
「相変わらず地味で時間がかかるわね、マリエルの治癒は」
「……治癒は繊細な魔力操作が必要なの。集中しているんだから、静かにして」
「でも、暗くて傷口が見えにくそうじゃない。私が手元に灯りを――」
フィオナが親指と人差し指を鳴らして極小の火を灯そうとした瞬間、マリエルは血相を変えて怒鳴った。
「やめて! 火花が散って患者が驚いたらどうするの! 治療中に余計な魔力の波を立てられたら、私の術式が乱れちゃうわ。危ないから、絶対に魔法を使わないで!」
語気鋭く拒絶され、フィオナはむっとした顔で手を下ろした。
フィオナ自身、教官から「大術式は使うな」と制限され、地味な泥水浄化の訓練を強いられている鬱憤があった。だからこそ、同じように地味で手際の悪いマリエルに苛立ってしまうのだ。
一方のマリエルは、フィオナの派手好きで大雑把な魔力操作を極度に危険視していた。互いの判断を信じられない二人の間には、見えない壁が築かれていた。
「そこまで。治療失敗だ」
訓練所の入り口から、教官グレンの声が響いた。
マリエルがハッとしてダミーの計器を見ると、出血過多を示す赤いランプが点灯していた。五分間治癒を注ぎ続けたにもかかわらず、深い傷は塞がっていなかったのだ。
「私には……やっぱり、無理なんです。深い傷や内臓の損傷を修復するだけの出力がない。治せない治癒師なんて、患者に触れる資格がない……」
マリエルは血糊で汚れた手を震わせ、床に視線を落とした。
マリエルは動かないダミーを一度見た。見たのに、血を流す腹から手を離せなかった。ここを塞げないまま次へ移れば、『治せない治癒師』だと認めることになる。
「お前の欠点は治癒出力の低さだ。それは最初から分かっている」
グレンはマリエルの言葉を否定せず、足元に置かれた大きな木箱を蹴って開けた。
中には、さらに四体の模擬患者ダミーが入っていた。グレンはそれらを無造作に床へ転がし、それぞれの胸元にある状態設定スイッチを入れた。
「実戦では、患者は一人ずつ順番に運ばれてきたりはしない。今から多数傷病者対応訓練を始める。患者は計五名。制限時間は五分。始めろ」
突然の指示に、マリエルは弾かれたように顔を上げた。
床には、腹から血を流す重傷のダミーの他に、腕の骨折(中等症)、足の擦り傷(軽症)、そして静かに横たわりピクリとも動かないダミー(呼吸停止)が散乱している。
マリエルの視線が五体の間を往復し、一体目へ戻った。
(私が治さなきゃ。私が、全部……っ!)
マリエルは真っ先に、最も見た目が悲惨な腹部裂傷の重傷ダミーに飛びついた。
目の前の血を流す一人を見捨てるなんて、治癒師として絶対にやってはいけない。その恐怖に背中を押されるように、彼女は自身の残り少ない魔力を振り絞り、微弱な治癒術を注ぎ込み始めた。
「マリエル、あっちの動いてない患者はどうするの!? 私が様子を見ようか?」
フィオナが焦った声で尋ねるが、マリエルはダミーの腹から目を離さずに叫んだ。
「ダメ! 素人は触らないで! 間違った処置をしたら悪化するわ。とにかく邪魔しないで、今この人の出血を――」
「でも、あっちのダミー、顔色がどんどん青くなってるわよ! せめて体を温めるための熱源を――」
「熱で血管が拡張したら出血が増えるでしょ! 魔法は使わないでって言ってるじゃない!」
マリエルはフィオナの介入を一切拒絶し、重傷者一人に固執した。
数分が経過する。マリエルの魔力は底を尽きかけ、治癒の光がふっと消えた。重傷ダミーの出血は止まっていない。
ピィーッ、ピィーッ、ピィーッ。
訓練所に、冷たい警告音が鳴り響いた。
マリエルが息を呑んで振り返ると、部屋の隅に放置されていた『呼吸停止』のダミーの計器に、黒いランプが点灯していた。
「時間切れ。呼吸停止の患者一名、死亡」
グレンが懐中時計を閉じ、静かに宣告した。
マリエルは呆然と座り込んだ。死亡したダミーは、治癒魔法など使わなくても、顎を上げて気道を確保するだけで蘇生する設定だった。
「お前の善意は、一人に張りついた。その間に、助かるはずの一人が後ろへ回った」
「ちが……私は、目の前のこの人を助けようと……っ」
「治癒量と救命率は別物だ」
グレンは重傷ダミーの前にしゃがみ込み、マリエルを見据えた。
「お前は自分の治癒力を過信し、救命不能な重傷者に固執した。結果として、すぐに対処すれば助かったはずの呼吸停止患者を放置し、殺した。治せない治癒師が患者に触れる資格がないのではない。自分が何を『治せない』かを判断できない奴が、現場に立つ資格がないんだ」
「…………!」
「魔法で傷を塞ぐことだけが治癒師の仕事ではない。出血量、意識、体温を観察しろ。魔法で治せない傷なら、圧迫止血と固定を行い、最も生存率の高い順に搬送の優先順位をつけろ。治せないなら『治せない』と宣言して、次の手へ渡せ」
グレンの言葉が、マリエルの胸に突き刺さる。
目の前の一人を見捨てるようで怖かった。自分が無力だと認めるのが怖かった。だが、その弱さが、救えるはずの命を取りこぼしたのだ。
マリエルは両手で顔を覆い、深く深呼吸をした。そして、顔を上げた。
「……もう一度、やらせてください」
配置を戻し、二度目の訓練が始まった。
マリエルはダミーたちの間を素早く駆け抜け、それぞれの状態を確認する。そして、腹から血を流す重傷ダミーの前に立つと、振り返って声を張り上げた。
「この傷は、私の出力では修復できません! 治癒不能!」
訓練所に、彼女の明確な宣言が響いた。
マリエルは魔法を使うのをやめ、すぐさま厚手の清潔な布をダミーの腹部に当て、全体重をかけて物理的に圧迫止血を行った。
「重傷者一名、圧迫止血と保温後、搬送へ回します! フィオナ!」
「な、なに!?」
「創傷部の奥を確認する。三秒だけ、私の手元に光の魔法をちょうだい。ただし、熱を持たせないこと。三秒以上は絶対にダメ、それが条件よ!」
マリエルは初めて、フィオナに具体的な『使用条件』と『中止条件』を提示して協力を求めた。
明確な線引きを与えられたことで、フィオナも迷いなく動けた。
「三秒ね。それなら任せて!」
フィオナは指先から、熱を持たない純粋な光の小術を灯した。
一、二、三。
条件通りに光が消える。マリエルはその三秒間で出血の中心を見極め、当て布を重ねて腹帯で圧迫を保った。
「止血完了! 次に呼吸停止患者の気道確保に入ります!」
マリエルはダミーから離れ、放置されていた呼吸停止患者の顎を素早く持ち上げた。空気が通り、ダミーの計器が緑色のランプ(蘇生)に変わる。
五分後。すべてのダミーに、魔法を使わない適切な応急処置(止血、洗浄、保温)が施されていた。
「訓練終了。死亡者ゼロだ」
グレンの言葉に、マリエルは床に手をついて大きく息を吐き出した。
フィオナが歩み寄り、無言で水筒を差し出した。マリエルはそれを受け取り、「……さっきの光、ちょうど良かったわ」と小さく礼を言った。フィオナも「べ、別に。三秒って言われたからそうしただけよ」と照れ隠しに顔を背ける。
マリエルは水を一口飲んだ。もう、フィオナの指先を警戒して見張ってはいなかった。
「教官」
マリエルは立ち上がり、グレンを真っ直ぐに見つめた。
彼女の白衣は模擬血で汚れ、声もまだ少し震えていた。視線が腹部裂傷へ戻りかけ、今度は先に、隣の呼吸停止ダミーを見た。
「私は、深い傷を治せません。でも、だからこそ誰よりも早く状況を観察し、命の優先順位をつけて搬送につなげます」
「次は、最初の十秒で全員を見ます。それでもまた一人へ手を置いたままになるかもしれません。だから、その時は止めてください」
フィオナが鼻を鳴らした。
「三秒の灯りでよければね」
マリエルはようやく頷いた。
「私は、治癒師ですから」
少なくともその瞬間だけは、自己卑下より先に、次に見る患者の顔が浮かんでいた。




