第5話 泥水一杯の魔術師
「はああぁぁぁッ!」
気合の入った声と共に、小柄な少女フィオナ・セイルの杖先から火球が放たれた。
宙を飛んだそれは、三十メートル先の石の標的へ命中し――パシュッ、と間の抜けた音を立てて弾け、表面を僅かに黒く焦がしただけで消滅した。
『測定終了。火力値・一二。判定・最下位層』
無機質な魔導音声が訓練場に響き渡る。
フィオナは肩で息をしながら、悔しげに唇を噛んだ。隣の区画では、中央校の生徒が放った巨大な炎の槍が標的をドロドロに溶かし、教官たちから称賛の声を浴びていた。
フィオナの魔力量は、同年代平均の約三分の一しかない。大術式を起動するだけの容量がなく、持続力も低い。一度で大きな結果を出さなければ魔術師ではない、という彼女の強い憧れは、常にこの冷酷な数字によって打ち砕かれてきた。
「魔力切れだ。下がれ」
「まだです! もう一回やらせてください!」
食い下がるフィオナの頭を、教官のグレンが持っていた記録板で軽く叩いた。
グレンは最下位という数字を見ても、特に落胆した様子は見せない。代わりに、どこから持ってきたのか、泥水がなみなみと注がれたガラスのコップを彼女の前に突き出した。
「お前の次の課題はこれだ。この泥水を浄化しろ」
「……は? 泥水?」
「そうだ。水そのものを無から生成する大術式は、お前には燃費が悪すぎる。だから『容器内にある既存の水』から、泥や塩、微生物だけを分離しろ。外気からの魔力同調に頼らず、自分の中の内在魔力だけで完結させる閉鎖回路術だ」
グレンの指示に、フィオナは露骨に顔をしかめた。
「そんなの、魔術じゃありません! ただの生活の知恵じゃないですか! 私だって訓練すれば、もっと高火力な魔術を――」
「お前の魔力量で火力を上げれば、三発で動けなくなる。派手な一撃で息切れる魔術師より、確実に泥水を真水に変え、三秒だけ手元を照らし、一本のロープを焼き切れる小術を、三十回連続で失敗せずに行える魔術師になれ」
有無を言わさぬ口調だった。
一術一用途。大気中の魔力を鍵にして威力を増幅する現代の「外部同期型魔法」に対し、グレンが求めたのは、体内魔力だけで短時間だけ稼働する極小の術式だった。
それでも、派手な魔法で周囲を圧倒したい彼女にとって、ひどく地味で屈辱的な作業に思えた。
フィオナは不満を顔に張り付けたまま、訓練場の隅で泥水と睨み合った。
不貞腐れながらも杖を向け、分離の術式を構築する。派手さはないが、精密な魔力操作だ。泥がコップの底に沈殿し、上澄みが透き通った真水へと変わっていく。
(こんなことできたって、誰も褒めてくれないじゃない……)
小さくため息をついた、その瞬間だった。
チカッ、と。
訓練場全体を照らしていた魔導灯が、一斉に瞬いた。
フィオナが顔を上げた直後、空間の魔力位相がふっとブレるような奇妙な感覚が肌を撫でた。
「え……?」
異変は、数十メートル離れた隣の区画で起きた。
基礎魔法の練習用に使われていた大型の火鉢。その周囲に展開されていた安全障壁――炎が一定以上の熱を持たないように制御する外部同期型の魔導具が、唐突に機能を失ったのだ。
「うわっ!」
制御を失った炎が本来の火力を取り戻し、ボワッと高く燃え上がった。
火鉢の近くにいた受講生の袖口に火の粉が飛び移り、焦げ臭い匂いと共に悲鳴が上がる。
「火が! 結界が消えたぞ!」
「誰か水術を!」
予期せぬ事故に、訓練場が混乱に陥る。
フィオナは弾かれたように立ち上がった。杖を握る手に力が入る。
燃え広がる炎。怯える生徒たち。
(今だ。今、私が水の大術式で一気に火を消せば……皆、私のことを見直す!)
杖を握る指が熱くなった。
最下位の汚名を返上し、優秀な魔術師として認めさせたい。その欲求が、彼女に大火力の水球を構築させようとする。
だが、杖を振り上げようとした瞬間、彼女の脳裏にグレンの言葉と、自分自身の冷酷な『数字』がフラッシュバックした。
『お前の魔力量で火力を上げれば、三発で動けなくなる』
今の自分の魔力量で、瞬時に的確な大水球を作れるのか?
出力が足りずに霧散するか、あるいは中途半端な水で熱い蒸気を広げ、火傷を増やすのではないか。火鉢が割れれば、燃えた炭まで散る。
三つ以上の危険予測。
フィオナは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「……ッ!」
彼女は構築しかけた魔術を自ら「切った」。
称賛を浴びる魔術師になる夢を一時的に投げ捨て、彼女は杖を放り出すと、訓練場の壁際に備え付けられていた防火用の厚手布と、砂の入ったバケツを掴んで走り出した。
「どいて!!」
フィオナは燃える受講生に体当たりするように飛び込み、バケツの砂を炎の根元へぶちまけた。一気に火勢が弱まったところへ、上から防火布を被せて酸素を遮断し、力いっぱい押さえつける。
爪の間へ砂が入り、防火布の熱が掌を刺した。魔法の光は一度も出なかった。
「マリエル!」
「はい! 火傷の冷却と痛覚の遮断を行います!」
後ろから駆けつけたマリエルが、布の下から引き出された受講生の手にすぐさま治癒術を施す。連携は素早く、炎は完全に消し止められた。
「……ふう」
ススで顔を汚したフィオナがへたり込むと、ようやく周囲の大人たちが駆け寄ってきた。
実務院の安全管理担当者たちが、険しい顔で火鉢の魔導具を調べ始める。
「どういうことだ。なぜ安全障壁が落ちた?」
「魔力観測所の記録を確認しました。先ほど、およそ三秒間だけ、空間の魔力密度が急低下したようです」
「三秒? 魔導灯系統にも同時刻の瞬低がある。十秒未満なら、行政上の《局地空白》の定義には届かないな」
「危険な復帰遅延を起こしたのは、この火鉢の安全核だけです。他の同型器具は自動復帰しています」
「では、一時的な系統の乱れに対し、この一基だけが復帰に失敗したものとして処理する。該当器具を撤去。同型器具も緊急点検だ。原因記録は系統側と器具側の両方に残せ」
担当者は周囲へ立入縄を張り、同型器具が自動復帰した時刻まで記録した。火鉢を撤去するまで、訓練再開の鐘は鳴らなかった。
騒ぎが収束し、撤去されていく火鉢を見つめながら、フィオナは自分のススだらけの手を見下ろした。
魔法を使わなかった。結果として、誰の賞賛も浴びていない。ただの素早い消火係だ。
「よく術の起動を止めたな」
いつの間にか隣に立っていたグレンが声をかけた。
フィオナは少しだけ肩をすくめた。
「……私の出力じゃ、中途半端な蒸気を生んで、あの子に大火傷させてたかもしれないから。だから、砂と布を使いました。地味でしょ?」
「地味で結構だ。お前は今日、被害を最小に抑えた。それで十分だ」
グレンは多くを語らず、フィオナが先ほど浄化して放置されていた「泥水一杯のコップ」を指差した。
そこには、泥ひとつない透明な水が満たされていた。
フィオナは少しだけ口角を上げると、再び自分の課題へと向き直った。
グレンは動かなくなった携帯小灯を彼女の横へ置いた。
「明日は、術式じゃなく回路を読め。密閉電池、開閉器、灯り。この三つを紙へ写して、外の同期線を外しても点くように繋ぎ直せ」
「魔術師に配線までやらせるの?」
「暗い時に、誰かが来るまで待つなら要らん」
フィオナは煤のついた指で小灯の裏蓋を開いた。
一方、グレンの視線は生徒たちから外れ、訓練場の壁面に設置された魔力観測器の記録紙へと向けられていた。
紙の上を走る黒いインクの針跡。それは実務院の担当者が言った通り、ほんの「三秒だけ」プツリと途切れ、その後は正常な波形を取り戻していた。
二十三年前の欠測と同じものか、三秒では分からない。分からなくても、時刻を残す費用は紙一枚で済む。
グレンは懐から、ゼンマイで動く古い機械式の懐中時計を取り出した。
彼は事故の報告書の複写箋を引き寄せると、余白の部分に、針が途切れた瞬間の正確な「機械時計の時刻」を無言で書き添えた。
グレンは複写箋へ日付を入れ、古い革鞄の記録束へ挟んだ。




