第4話 三つより多く考えるな
視界の端で、青白い魔導光がチカチカと明滅していた。
王立総合実務院カルド分校の屋内訓練場。剣士志望のリーゼ・ヴァルトは、額に汗を滲ませながら、対峙する上級生に向かって木剣を構えていた。
『右肩に筋力集中・左への踏み込み確率七十八パーセント』
『推奨回避ルート:右後方へのステップ・または前方への刺突による相殺』
彼女が装着している訓練用の魔導具から、相手の重心や筋肉の僅かな動きを読み取った「剣技補助の推奨表示」が次々と視界へ投影される。高魔力期が生み出したこの最新技術は、才能の乏しい者を最適解へと導く強力な補助輪だった。
リーゼは表示に従い、右後方へステップを踏もうとした。
しかし、上級生がフェイントを混ぜて剣軌道を変化させた瞬間、補助表示の表示枠がけたたましい警告音と共に分裂した。
『軌道変更・推奨回避ルートの再計算を実行』
『ルートA:後方跳躍(成功率五十二パーセント)』
『ルートB:左への切り返し(成功率四十八パーセント)』
『ルートC:防御態勢への移行(成功率六十パーセント)』
『ルートD:――』
(どれが、一番正解なの!?)
三つ、四つと選択肢が増殖した瞬間、リーゼの思考は動きを止めた。
情報が頭の中で渋滞を起こし、体が金縛りに遭ったようにピタリと止まる。その無防備な胴を、上級生の木剣が容赦なく薙ぎ払った。
「そこまで! 勝者、モラン!」
審判の声が響き、リーゼは床に膝をついた。まただ。また「固まって」しまった。
周囲で見ていた生徒たちから、「あいつ、また固まってたぞ」「速そうに見えるのに、どんくさいよな」という容赦ない囁きが聞こえてくる。リーゼは唇を噛み締め、木剣を握る手を白くなるまで握り込んだ。
「なぜ動けなかった」
頭上から降ってきた静かな声に、リーゼは肩をビクンと揺らした。
見上げると、教官のグレン・ハルバートが腕を組んで見下ろしていた。
「……相手のフェイントで、推奨表示の選択肢が一気に増えて……どれが一番被害が少なく、確実に勝てるルートか、計算しようとして……」
「お前は、選択肢が三つを超えると固まる。それが事実だ」
グレンの指摘は身も蓋もなかった。
リーゼは悔しさに顔を歪めた。班長なら、誰より早く百点の指示を出さなければならない。そう考えるほど、二つ目の選択肢を比べている間に三つ目が増え、体が止まった。
グレンは懐から一枚の硬い紙片を取り出し、リーゼの前に差し出した。
「これを持て」
受け取った紙片には、そっけない筆跡で三つの言葉だけが書かれていた。
『生存・人数・退路』
「選択肢が溢れて頭が真っ白になったら、この三つだけを見ろ」
「これは……?」
「班長の仕事は、最速で『百点の正解』を出すことじゃない。最悪の『致命的な損失』を防ぐことだ。迷ったら、生き残れるか、人数は揃っているか、逃げ道はあるかの三項目に絞って判断しろ」
リーゼは手元のカードを食い入るように見つめた。
頭の中の霧が晴れていくような気がした。正解を出さなくていい。この三項目さえ守れば、絶対に間違えない。グレンがくれたこのカードこそが、自分を縛り付けていた呪縛から解放してくれる「正解表」なのだと、彼女は錯覚した。
「……はい。この通りにやります!」
リーゼはカードを大事そうに胸元へ仕舞い込んだ。
グレンは返事をせず、カードを胸へしまうリーゼの手だけを見ていた。
*
翌日、補完実務班の五人は、廃屋を模した入り組んだ立体訓練区画にいた。
目的は、区画の最深部に置かれた模擬遺物の回収。ここでも魔法補助のついたゴーレムが徘徊している。
リーゼは先頭を歩きながら、胸ポケットのカードの感触を確かめていた。昨日とは違う。迷ったらあの三つに従えばいい。彼女の足取りには自信が満ちていた。
「前方に目標の模擬遺物を発見。ですが、周囲の魔力反応がおかしいです」
最後尾を歩いていたノエルが、鼻をヒクつかせながら小声で報告する。
彼が言い終わるか終わらないかのうちに、遺物の周囲の床が跳ね上がり、三体の重装ダミーゴーレムが起動した。想定外の伏兵だ。
前衛のバルトが咄嗟に丸太の盾を構え、フィオナが一用途に絞った閃光の極小術を放ってダミーの視覚感知部を焼く。
「班長、指示を! 遺物を回収して強行突破するか、一度引くか!」
マリエルが叫ぶ。
敵は三体。こちらの武器の残量。遺物までの距離。制限時間。後退した場合の再突入のリスク。
無数の情報が濁流のようにリーゼの脳を襲い、再び三つ以上の選択肢が互いにぶつかりかけた。彼女の足が止まり、呼吸が浅くなる。
(だめだ、また固まる……っ。違う、迷うな!)
リーゼは懐からカードを乱暴に引き抜いた。
視線を落とす。
『生存・人数・退路』
百点の正解はいらない。最悪を避ける。
リーゼの脳内で、余分な情報が削ぎ落とされた。遺物の回収(試験の点数)という目的を切り捨てる。
「遺物は放棄! 生存を最優先とする!」
リーゼの明瞭な声が響いた。
「点呼! 全員無事ね!?」
「バルト無事!」「マリエル無事!」「ノエル無事!」「フィオナも平気!」
「よし、五人欠けなし! 退路は後方の第一扉! バルトと私が殿を務める、マリエルたちは先に扉を開けて外へ抜けろ!」
淀みない指示だった。五人の動きがピタリと噛み合い、ダミーの攻撃を躱しながら後方へと見事な連携で撤退していく。
マリエルとフィオナが背後の重い扉に手をかけ、押し開く。
(完璧だ。私は間違えなかった。教官のカード通りにやった!)
リーゼは強烈な高揚感を感じていた。三つの項目をクリアし、全員を無事に退路へと導いた。班長としての責務を完遂したのだと。
ダミーの追撃を振り切り、最後にリーゼ自身が開かれた扉を潜ろうと足を踏み出した、その瞬間だった。
「止まれッ!!」
訓練区画の外周に立っていたグレンの、空気を劈くような一語が飛んだ。
ビクンと体が反応し、リーゼの足が空中で止まる。
直後、重い音が鳴った。
リーゼの鼻先をかすめるように、頭上から梁を模した砂袋が落ち、床へ横倒しになった。中身は砂と軽い木片で、落下索には床すれすれで重さを逃がす補助縄も付いている。それでも進路へ踏み込めば、足を払われて転倒は免れない。
粉塵が頬を打つ。リーゼはその場へ尻餅をついた。
「な……っ……」
リーゼは砂袋を見上げたまま、喉を鳴らした。
吊り索は訓練用の別系統で、グレンの合図を受けた外周教官が解除していた。危険線を越えた時だけ落とす仕掛けだった。
「見事な撤退判断だった。だが、上を見ていなかったな」
砂埃を払うこともせず、グレンが歩み寄ってきた。
リーゼは蒼白な顔で教官を見上げ、震える手でカードを握りしめた。
「でも、教官のカードには……生存と、人数と、退路しか……上が危ないなんて、書いてなかった……!」
それは無意識に出た、手順への責任転嫁だった。
グレンは冷たい目で見下ろした。
「俺は答えを渡した覚えはない。入口を渡したつもりだった。カードは自動で正解を出す呪文じゃない」
リーゼは息を呑んだ。
「お前は情報が溢れると混乱する。だから、まずは三つに絞って頭を落ち着かせろと言ったんだ。だが、現場には常にカードに書かれていない四つ目、五つ目の危険が存在する。火災、二次崩落、頭上の脅威。それに気づくための余裕を作るための三項目だ。お前はカードの文字を追うことだけに満足し、自分の目で現場を見ることをやめた」
リーゼの親指は、カードの三行だけを隠すように重なっていた。目の前には、その紙にない砂袋が横たわっている。
リーゼは自分の甘さを恥じ、強く唇を噛んだ。
カードは魔法のアイテムではない。自分が使いこなさなければならない、ただの道具に過ぎないのだ。
彼女はゆっくりと立ち上がると、震える手で懐からペンを取り出した。
そして、グレンから渡されたカードの余白に、自分自身の不格好な字で力強く書き足した。
『火、上方、二次崩落』
用意された三項目だけではない。自分自身で見つけた、四つ目の危険。
グレンは何も言わず、彼女が書き終えるまで待った。




