第3話 橋は剣で渡れない
カルド分校の裏手には、深い森を縫うようにして幅十メートルほどの小川が流れている。
普段なら簡単な木造の訓練橋が架かっているはずのその場所に、今日、橋はなかった。意図的に外されたのだ。
代わりに川岸のぬかるんだ地面に放り出されていたのは、長さ十二メートルはある太い橋材用の丸太が二本、数枚の踏み板、数本の長い麻縄、先端に砂袋を結んだ細い投げ綱、そしてさび付いた滑車だけだった。
対岸の岸壁には、訓練用の大きな鉄環が打ち込まれている。投げ綱を通せば、太縄を向こうへ手繰らせることはできる。
「制限時間は二十分。この資材を使って対岸へ橋を渡し、そこにある五十キロの砂袋と共に全員が渡り切れ」
教官のグレン・ハルバートは、手にした懐中時計の蓋を弾くように開けると、感情の読めない声で告げた。
魔力による架橋や、跳躍を補助する身体強化は当然のごとく禁止されている。五人の生徒たちは、冷たい水が流れる小川と、重々しい資材を交互に見比べた。
「二十分……!? こんな重い丸太、普通に運んだらそれだけで日が暮れるぞ!」
大柄なバルトが顔をしかめる。しかし、赤褐色の髪を揺らしてリーゼが前に出た。昨日「判断が遅い」と告白した彼女だが、指揮役志望としての意地があった。
「弱音を吐いている暇はないわ! 私が指示を出す。バルト、あなたは一番力があるんだから、丸太の先端を持ち上げて! 私とノエルで後ろを押す。マリエルとフィオナは踏み板を運んでちょうだい!」
「お、おい、ちょっと待て」
丸太に取り付こうとしたバルトが、足元の滑車を見て動きを止めた。
「丸太をそのまま押し出すのは危ない。投げ綱を対岸の鉄環へ通して太縄を送り、この滑車を支点にすれば、半分の力で――」
「悠長なことを言っている時間はないの! 早くして!」
リーゼの強い語気に、バルトは口を噤んでしまった。
農夫としての経験が長いバルトは、重い物を扱う際の重心や梃子、滑車の使い方を体で知っていた。しかし、彼は昨日「若者より覚えが遅く、文字の処理が苦手」だと吐露したばかりだ。実務院で専門教育を受けてきた若いエリート志望のリーゼに対し、一介の元農夫が意見を押し通すことに、強い気後れを感じていた。
バルトは己の知恵を飲み込み、言われるがまま力仕事に回った。
「それから、縄を取り違えると危ないから、札をつけておくわ」
リーゼは懐から紙片を取り出すと、素早いペン捌きで『牽引用・主線』『後方固定用・副線』『予備』と文字を書き込み、それぞれの縄の端に結びつけた。
「バルト、あなたが前方の『牽引用』を引いて。合図で一気に丸太を川の上へ押し出すわよ」
「あ、ああ……分かった」
札を渡されたバルトの額に、じわりと冷汗が浮かんだ。
達筆な細い文字。ただでさえ読字の遅いバルトにとって、急かされた状況下で似たような文字の羅列を瞬時に読み分けるのは至難の業だった。
だが、「読めない」とは言えなかった。これ以上、年下の若者たちの足を引っ張りたくない。力自慢の男としての面目すら失えば、自分の居場所がなくなるような気がしたのだ。
(ええと、こっちの札が牽引、だったか……? いや、文字の形が違う……まあいい、一番太い縄が牽引用に決まってる)
バルトは文字をろくに確認せず、勘と手触りだけで一本の縄を掴んだ。
それが、決定的な事故の引き金だった。
「いくわよ、押し出して!」
リーゼの号令と共に、丸太が川へ向かって押し出される。
バルトは掴んだ縄に体重をかけ、力任せに引いた。しかし、彼が掴んでいたのは『牽引用』ではなく、後方のバランスを取るための『固定用』の縄だった。
主線による引っ張りが存在しないまま、後方から強烈なテンションがかかった丸太は、空中で致命的な回転を始めた。
「あっ――」
鈍い軋み音。重心を失った数百キロの丸太が、斜め下方へ向かって大きく傾く。
その真下には、踏み板を抱えて待機していたフィオナとマリエルの姿があった。
「危ない!」
ノエルが叫ぶ。リーゼの視線が丸太、二人、川面を往復し、その場で止まった。
丸太が落ちる。バルトは下へ飛び込まなかった。飛び込めば、自分も二人も潰れる。
「全員、動くなァッ!」
彼は足元の短い端材を蹴り上げ、傾いた丸太の腹へ斜めに噛ませた。端材の下へ拳大の石を押し込み、即席の支点を作る。
ぎしり、と木が悲鳴を上げた。落下は止まらない。だが、一拍だけ遅くなった。
「フィオナ、マリエル、下がれ!」
二人が転がるように退く。次の瞬間、端材が折れ、丸太の先が泥へ落ちた。濁った水が跳ね上がったが、人には当たらなかった。
バルトは荒い息をつき、自分の手に残った札を泥へ置いた。
「リーゼ。見栄を張って悪かった。俺は字を読むのが遅い。あんな走り書きじゃ、とっさに選べねえ」
バルトの痛切な告白に、硬直していたリーゼがハッと我に返る。
バルトは最初から滑車と支点を見ていた。リーゼは彼の言葉を急かし、腕だけを借りようとした。
「……ごめんなさい。私が間違ってた」
「謝るのは後だ! リーゼ、この丸太をもう一度動かす前に、一番太い縄へ『結び目を三つ』作れ! 予備の縄には『赤い布』を巻け! 文字じゃねえ、触って分かる記号にするんだ!」
「分かったわ!」
リーゼは即座に動き、バルトの指示通りに縄に物理的な細工を施した。
記号化された縄なら、もう読み違えることはない。二度目の事故が起きる前に、彼らは現場の知恵で手順を修正した。
「結び目三つ、主線よし!」
「主線よし!」
「引くぞ、せーの!」
バルトの掛け声に対し、全員が「復唱」で応える。
文字の速さに依存しない、実物の記号と声による確認。それは驚くほどスムーズに五人の意思を統一させた。
バルトは砂袋つきの投げ綱を鉄環の向こうへ通し、その細綱で太縄を手繰らせた。滑車と支点を組み直すと、先ほどまでビクともしなかった丸太が、五人の歩幅に合わせて対岸へ伸びていった。
全員で息を合わせ、踏み板を並べ、重い砂袋を運び切る。
対岸に全員の足が着いた時、五人は泥だらけになりながら、その場にへたり込んだ。
川岸に立っていたグレンが、カチャリと懐中時計を閉じる音が響いた。
「三十四分。制限時間を大幅に超えている」
グレンの声に、五人はうなだれた。正規課程の班が残した最遅記録よりも九分遅い。また落第だ。誰もがそう思った。
だが、グレンは手元の記録紙に破損数を書き込み、続けた。
「所要時間は最下位。端材一本破損。最初の手順では、二名を吊り荷の危険域へ入れた。そこは失格級だ」
五人の顔が沈む。
「だが、途中で止めた。原因を隠さず、手順を変えた。二度目は負傷者なしで渡った。そこは記録する」
バルトが弾かれたように顔を上げた。
グレンは彼らを見下ろし、小さく顎をしゃくった。
「最初の失敗は消えん。次は、危険域へ誰も入れる前に言え。行くぞ」
踵を返して歩き出す教官の背中を、五人は呆然と見送った。
最下位という事実に変わりはない。だが、泥だらけの彼らの胸の中には、昨日まで存在しなかった「確かな連携の形」が、小さな熱を伴って残っていた。




