第41話 何を後回しにするのか
都市魔導庁・費用査定室の硬いオーク材の机に、分厚い労務表の束が叩きつけられた。
「ハルバート教官。貴殿が提出した『週二時間の全国一律二重化訓練案』。これが王都の設備関係者一千二百六十人に適用された場合、我々は毎週二千五百二十時間という労働力を失う」
都市魔導庁長官、オスカー・ルイスの抑えた声が響いた。
彼は抽象的な予算の話をしているのではなかった。オスカーは叩きつけた労務表の隣に、もう一枚の書類――今夏の『王都給水管路・洗浄保守予定表』を広げ、赤いペンで線を引いた。
「週二千五百二十時間。これは、八時間勤務の専従作業員三百十五人分の労働力に相当する。もしこの不確実な危機への備えにそれだけの人員を回せば、下層区の給水管洗浄の日程は崩れ、数日遅れる」
オスカーの赤い線が、予定表の『下層第三区画』の文字を横断した。
「夏場に洗浄が数日遅れれば、配水管の末端で水質が悪化する。衛生被害と感染症流行の危険が跳ね上がるという試算だ」
「……」
「お尋ねしたい、ハルバート教官。いつ来るか分からない魔力の枯渇に備えるために、あなたは王都のどの管を洗わず、どこの区画に衛生上の危険を負わせるおつもりか」
グレン・ハルバートは、喉の奥からせり上がってくる反論を必死に飲み込んだ。
『魔法を使わない基礎技能を教えておいて、損になることはない』。そう答えかけた自分の考えが、巨大な社会全体の運営においては、ひどく傲慢で浅はかな理想論に過ぎないと気づかされたからだ。
旧坑道での調査で学んだはずだ。安全のための備えは、決して『費用ゼロ』ではない。教えるための時間と人員は、平時の給水や衛生を守る手から回さなければならない。
「オスカー長官の懸念は当然です」
同席していた王立魔力環境局のセラ・オルテが、静かにオスカーに同調した。
「現在のところ、魔潮の下降はあくまで『長期基線低下の作業仮説』に過ぎません。発生時期も、その規模も未確定の段階で、全国一律に給水、診断、通信の人手を減らすような強権の発動を、環境局として支持することはできません」
「カルド分校としても同じ見解よ」
分校長のヘレナ・ヴェイスも続く。
「週二時間の訓練を全国で行うなら、うちの教員を指導に回さなければならない。彼らを外へ出せば、その分だけ分校の通常授業のコマが削られるわ。限られた人材の中で、全方位を守ることなんて不可能なのよ」
グレンは深く息を吐き出した。
誰も彼を陥れようとしているわけではない。皆、それぞれの立場で『今日の人々の生活』を守るという、簡単には譲れない正しさを代弁しているだけだった。
「ルイス長官。あなたは、このまま何の備えもしないつもりか」
「私がいつ、そんなことを言った」
オスカーは書類の束の下から、革張りの重厚な筒を取り出した。
彼がその筒から引き出して机に広げたのは、幾重にも赤い封印印が押された、王都地下の巨大な魔導系統図だった。
「これは……」
「所管印付きの『主中継核切離し図』だ。極秘扱いのな」
オスカーが指差した図面の中央には、王都の魔力を統括する巨大な心臓部が描かれていた。
「もし、あなたの言う低整合波や喰魔種の大群が王都の機能の大半を麻痺させる事態に陥った場合。私はこの都市の心臓部を、市街網から物理的に切り離す。そうすれば、市街網側の高魔力勾配を下げ、誘引の中心を人口密集地から外せるかもしれない。魔力低下そのものが止まるわけではないが、被害の連鎖は切れる」
グレンは目を見張った。オスカーは危機を否定しているわけではない。行政のトップとして、いざという時の最悪のカードをすでに用意していた。
「ただし」とオスカーは表情を動かさずに続けた。
「三本の結合環を物理的に破断して切り離す以上、二度と再使用はできない。王都の照明、給水、交通、通信が元の水準へ戻るまでに数年を要する。文字通りの最終手段だ。教官、あなたには現場の避難手順を提案する権利はあるが、この決裁を下す最終承認者は、私だ」
グレンは己の限界を悟った。自分は都市の全てを救う決定権者ではない。
机の上には、グレンが提出した八十六ページに及ぶ『全国一律訓練案』、長官が示した『平時業務維持・緊急切離し案』、そして、妥協点として急遽作成された『六現場限定試行案』の三つが並べられていた。
「……分かった。全国一律の全面案は、俺の方から撤回する」
グレンが苦渋の決断を口にすると、オスカーの目元がわずかに緩んだ。
「賢明な判断だ。では、対象を王都の六つの試行現場、指定人員八十四名のみに絞り、初期三週間で計七十時間の限定試行とする。これならば、平時業務の低下を許容範囲内に収められる。この案を暫定承認しよう」
オスカーは一枚の『暫定許可票』にサインをし、グレンの方へ滑らせた。
そこには、今回試行が許可された六つの現場が列記されている。
『中央給水圧調整所』
『街道治癒院』
『北門〜中継詰所』
『都市設備局・術式校正室』
『北外縁・喰魔種誘導候補区(住民協議後に方式確定)』
『東河岸非常配水・消火用水中継所』
(観測網が置かれている『西生活区』は、この運用訓練の対象一覧には入っていなかった)。
「ただし、ハルバート教官。条件が一つある」
オスカーは、グレンの分厚い八十六ページの教育手順書を指で叩いた。
「こんな百科事典のような分厚い手順書を、現場の実務者が読んでいる暇はない。明日の朝までに、本当に必要な要素だけを削り出し、現場の人間が一目で理解できる『たった一枚の紙』にまとめ直したまえ。それができなければ、六現場の試行すら白紙だ」
「……たった一枚、だと」
「そうだ。あれもこれもと全部を詰め込もうとするから、破綻する。教える人間も、学ぶ時間も足りない現実を知りたまえ」
グレンは、自分が二十年かけて蓄積してきた教材の集大成である手順書の束を見つめた。
全部を教えたい。あらゆる危機に対応できる知識を与えたい。しかし、社会はその重さに耐えられない。
「……了解した。明朝までに、一枚に絞る」
グレンは自らのペンを取り、分厚い手順書の表紙の余白に、太く真っ直ぐな線を引いた。
『全面実施・撤回』
自分が信じた理想を、自分の手で切り捨てる。それこそが、社会の中で「備える」ために彼が支払わなければならない最初の値段だった。
グレンが分厚い束を抱えて退室しようとした時、オスカーが机の上の図面を静かに見つめながら呟いた。
「主中継核切離し図の中央にある主中継核。……これは、都市の心臓を差し出す手順だ。どうか、私がこのカードを切らずに済むような、使える一枚を作ってきてくれ」
その言葉は、冷たい数字から逃げない行政長官の、王都の民の命を預かる祈りだった。




