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魔法が止まっても授業は終わらない ~五十二歳の辺境教官、落ちこぼれ五人に「全員で帰る手順」を教える~  作者: 他力本願寺


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第42話 古いものだけでは暮らせない

『傲慢な魔導具を捨て、かつての井戸と松明へ戻れ!』


 王都設備組合の大講堂に掲げられた、墨で大書された横断幕。


 九十日試行の第一週、限定的な現場訓練の導入を控えて開かれた公開説明会は、異様な熱気に包まれていた。


 都市魔導庁から費用照会の事実が一部の新聞に漏れ、世論は真っ二つに割れていた。不確かな魔力危機へ莫大な予算と労力を割くことに反対する「最新技術擁護派」と、度重なる事故の報道を受けて魔法そのものを危険視し、昔の生活への回帰を叫ぶ「旧式復活派」だ。


「ハルバート教官!」


 最前列に陣取った新聞記者が、演壇に立つグレンへ向かって声を張り上げた。


「都市魔導庁は予算を盾に、あなたの提唱する安全訓練を縮小させました! 魔法文明に依存しきった王都の脆弱性に、旧時代の確かな実地技能で警鐘を鳴らす教官として、一言お願いします!」


 それは甘美な誘惑だった。


 ここで旧技能の優位を誇張し、魔法に頼る連中は愚かだと一喝すれば、世論を味方につけ、オスカーの決定を覆して自分の教育案を全面実施に持ち込めるかもしれない。


 だが、グレンは横断幕を掲げる反対派と、煽り立てる記者たちを静かに見据え、演壇の拡声魔導具へ口を寄せた。


「昔へ戻れば、先に死ぬ者が大勢いる」


 グレンの低く通る声に、講堂が水を打ったように静まり返った。


「俺は、魔法を否定するためにここへ来たわけじゃない」


 グレンは演壇の端を強く握った。


「現代の魔導による高度な給水浄化の仕組みが、王都の乳幼児の感染症死亡率をどれほど劇的に引き下げたか。治癒院の魔導診断枠が、手遅れになる前の見落としをどれだけ減らしてきたか。遠話網による即時通信が、物流の過酷な労働環境をどれほど改善したか。……魔法が給水、診断、通信を支える仕組みとして優秀であり、多くの命を救っている事実は、誰にも否定できない」


 グレンの言葉に、最前列の記者が戸惑ったようにメモのペンを止めた。


「俺が教えようとしている手作業の技能は、決して最新の魔法より優れているわけじゃない。平時の効率や正確さにおいて、人は魔導具には勝てない」


 グレンは、横に立っていた設備局の主任魔術師、トビアス・クレインへ視線を向けた。


 トビアスは無言で頷き、持ち込んでいた最新の魔導圧力弁の模型を起動させた。


「見てもらおう。これが、現在王都の地下で稼働している最新の安全装置だ」


 トビアスがわざと不規則な魔力を流し込み、模型の配管に過剰な負荷をかける。


 ピピッ、と短い警告音が鳴った瞬間。人間の反射神経では到底追いつかないほどの速度で、魔導弁が三段階に分かれて自動的に作動した。急激な遮断による水槌現象を防ぐため、圧力を緻密に逃がしながら、装置はわずか数秒で規定通りの安全停止を終えた。


 人間の手でバルブを回していれば、決して間に合わない速度と正確さだった。


「どうだ」とグレンが会場へ問う。


「この最新技術の段階停止を、無能だと笑えるか? 俺には無理だ。現代の技術者たちは、あらゆる異常を想定して何重もの安全機構を組み込んでいる」


 グレンは若者や技術者たちを貶め、昔は良かったと昔日を懐かしむような老害にはならなかった。彼は、目の前にある最新技術の有能さを、平時の主系統として迷いなく認めた。


「だからこそだ」


 グレンは横断幕の文字を真っ直ぐに指差した。


「すべてを捨てて松明と井戸に戻る必要はない。だが、王都全域の魔導具が依存している『共通の同期網』が、外部からの未知の波によって一斉に崩れた時。最新の安全装置が正しく保護停止し、しかしその後の給水、照明、搬送までは代行しない。その『限定された状況下』においてのみ、都市の同期網に依存しない、もう一本の紙の手順が要る。完全に手だけで動かす札と、個人の微弱な魔力だけで使う札を、別々の限界つきで置くためだ。主系統を補う、最後の命綱としてな」


 昔へ戻るためではない。現代の技術が止まった短い間を支える、別の道が必要なのだ。


 そのグレンの宣言は、過激な対立論を沈静化させ、この九十日試行が何を目的としているのかを社会に正しく位置づけた。



 その日の夜。


 カルド分校王都連絡所の教官室は、冷たい夜気に沈んでいた。


 グレンの机の上には、彼が二十年以上かけて書き溜め、先日の暫定審査で『全面撤回』の赤線を引いた、八十六ページに及ぶ教育手順書の束が置かれている。


 オスカー・ルイスとの約束の期限は、明日の朝。


 この分厚い束を、現場の作業員が一目で理解できる『たった一枚の紙』にまで削ぎ落とさなければ、六現場での限定試行すら白紙になる。


「分校から今回の試行現場へ指導に出せる教員は、あなたを含めても限界があるわ」


 コーヒーを運んできたヘレナが、静かに釘を刺した。


「私が出せる授業時間は、一現場あたり週に二時間までよ。それ以上は、分校の学生たちの通常授業に支障が出る。……教えられる時間は、無限ではないわ」


 ヘレナの言葉が、教員と授業時間の限界としてグレンに立ちはだかった。


 グレンは手順書の一ページ目をめくった。


『広域通信途絶時の、星と風向きによる方位の割り出し方』。


 生存のためには間違いなく有用な技術だ。しかし、都市の給水調整所や治癒院で、今すぐ命に直結するかと言われれば否だ。


 グレンはペンを取り、そのページに横線を引いた。


(……削るしかない。全部は、教えられない)


『負傷者の緊急搬送における、即席の担架の組み方』『非常食の配分比率』『複数人での徒手止血法』。


 彼が辺境で生き抜くために必要だと信じ、五人の生徒たちに叩き込んできた尊い技術の数々。だが、一週間でたった二時間という限られた訓練枠の中で、王都の給水や診断設備を管理する専門の技術者たちに教え込めるものではない。


 グレンの胸が痛んだ。自分が信じた教育の価値を、自分自身の手で切り捨てていく作業。それは、身を切られるような苦痛だった。


 だが、彼は手を止めなかった。オスカーが突きつけた『給水管の洗浄を遅らせれば人が死ぬ』という平時の正しさを、彼は決して忘れてはいなかった。


 夜が白み始めた頃。


 グレンの机の上には、赤線で埋まった八十六ページの束と、新しく用意した『一枚の白紙』があった。


 その白紙には、細かい手順や技術の解説は一切書かれていない。ただ、横に引かれた三つの太い枠線と、短い見出しがあるだけだった。


『止める線』


『数える線』


『切り替える線』


 それは、教官が正解を与える手順書ではなかった。


「……できたわね」


 背後で見ていたヘレナが呟く。


 グレンは頷いた。


「『危険なら止めろ』や『責任者の判断による』といった曖昧な言葉は許さない。各現場が、自分たちの設備の『どの数値(C値や圧力)』で止めるのか。止める権限を『誰』が持ち、再開を『誰』が承認するのか。何を数え、どの物理操作へ切り替えるのか」


「現場の人間自身が、自分の職場の値と名前を書き込んで、初めて完成する枠組み……。これなら、教える時間が少なくても、現場の専門家たちが自ら運用できるわね」


 この一枚の紙こそが、これから王都の現場を渡っていく『三線票』の原型だった。


 グレンは、赤線で埋まった八十六ページの束を、ゴミ箱へは捨てなかった。


 彼はそれを丁寧に揃えると、一番上に『未採択・版履歴』と書き記し、留め金で綴じた。


 旧坑道調査で、外れた予測や破損した証拠を隠さず記録したのと同じだ。自分が何を教えられず、何を社会から切り捨てたのか。その失敗の事実を隠蔽せず、履歴として残すこと。


 窓の外から、王都の朝を告げる機械鐘の音が響いてきた。


 グレンは立ち上がり、分厚い八十六ページの未採択の束の上に、たった一枚の三線票をそっと置いた。


 朝の光に照らされたその一枚の紙切れだけが、これから始まる未知の危機に対する、彼らが社会へ渡せる唯一の武器だった。

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