第40話 予言ではなく測定
暫定採択されたのは『魔潮が下がる』という世界規模の予言ではなく、『九十日、同じ測り方を試す』という地味な実務だった。
調査十二日目。王立魔力環境局の大会議室で開かれた暫定審査会は、カルド分校から提出された報告書に対し、極めて保守的かつ限定的な裁定を下した。
審査会は、ユリウス・レインの『魔潮下降』を確定学説とは認めなかった。彼らが認定したのは、あくまで「現在の深部M基線が低下しているという事実に基づく、長期基線低下の『作業仮説』」に過ぎない。
「本作業仮説の検証のため、王都および周辺の既存十八地点において、九十日間の再観測試行を暫定採択する」
審査委員長が読み上げる決定事項に、グレン・ハルバートは無言で聞き入っていた。
新たに大がかりな観測塔を建てるわけでも、恒久的な特別予算が組まれるわけでもない。対象となったのは、環境局が管轄する既存の十二観測井と、都市設備局が持つ都市内六観測点、計十八地点だけだ。十二観測井では長期的な深部M基線を、都市内六観測点では局地的なC値の乱れを測り、二種類の値は別表で扱う。
その十八地点の平常業務の中に、「ばね時計による独立時刻の記録」「生記録紙帯の切断なしの保全」「既知入力による前後校正」、そして「異常が非発生だった日の記録提出」という、今回セラとグレンたちが確立した『暫定観測要領』が追加される。
加えて、予備公開検証会で反証参加を申し出た三つの独立観測所が、公式の十八地点には含まれない外部検証先として、同じ九十日間の深部M基線の原記録を提出することになった。
王国が認めたのは、魔法の危機ではなく、この『揃えられた測定法』の方だった。
「また、低整合波(C波)に対する警報についても、次回発生日時や地点を予測する一点予報は行わない。複数地点でのC低下、独立時計での時刻照合、および局地での物理的結果の三点が揃った場合にのみ、事後的に事象を認定する限定運用とする」
「……異議はありません」
環境局を代表して出席していたセラ・オルテが、静かに頭を下げた。
グレンは手元の鞄から、分厚いファイルを取り出した。彼がカルド分校で培ってきた『魔法停止時の公開教育規格案』だ。非常停止のルールや代替手段の運用を、全国の現場へ一律で導入するためのマニュアルである。
「こちらの教育規格案については、いかがか」
「審査継続とする」
委員長はグレンのファイルを一瞥し、冷淡に告げた。
「現段階では作業仮説に過ぎず、全国的な危機が確定したわけではない。不確かな段階で全国の現場実務者に一律の訓練を強要し、本来の業務時間を奪うことは承認できない」
グレンの顎に力が入った。ここで「いつか大勢死ぬぞ」と脅して無理押しすれば、学界の反発を買うだけでなく、彼らが積み上げた観測の信用すら「予算獲得のための煽り」として地に落ちる。
彼は全国一律の即時教育を諦めた。自分の理想を引っ込め、既存十八地点の観測試行と限定警報だけを公的に先行させるという、妥協の代償を受け入れた。
*
審査会の翌日。カルド分校王都連絡所の控室。
調査協力を終えた五人の生徒たちが、それぞれの仮任用先へ戻る準備をしていた。
彼らはこの十二日間、各配属先の勤務を続けながら、許可された時間だけ調査に協力した。その記録は九十日試行の開始に寄与したが、働きは各配属先での実務評価とは別に扱われた。
配属先の事故でリーゼが受けた「始末書」も、バルトが受けた「減点と伝票の二人確認」というペナルティも、一つも帳消しにはなっていない。環境局からの特別な賞も、職場での免責も一切なかった。彼らはまた、昨日と同じ一介の失敗した新人として、泥臭い仕事の続きに戻らなければならない。
「教官。俺たち、役に立ちましたかね」
荷物を背負ったバルトが、照れ隠しのように首の後ろを掻きながら尋ねた。
グレンは五人の前に立ち、一人ずつの手へ、二つに折りたたんだ小さな紙片を握らせた。
「……お前たちが残した独立した時刻と、現場での失敗の記録がなければ、研究の扉すら開かなかった」
グレンの言葉に、五人の顔が少しだけ明るくなる。
しかし、彼らが手渡された紙片を開くと、そこには短い一文だけが書かれていた。
『まだ授業にはできない』
リーゼが息を呑み、グレンの顔を見上げた。
「これは、魔潮の下降は確定した真実ではないという意味ですか?」
「そうだ」
グレンははっきりと頷いた。
「あれはまだ、反証され得る作業仮説に過ぎない。俺の口から、お前たちや後の後輩たちに『これが世界の真実だ』と絶対の正解のように教えることはできない。だから、これはまだ授業じゃない。お前たちは、何も確定していない世界で、自分の頭で考え、泥臭い自分の現場のルールに従って生き残れ」
それは、英雄として祭り上げられることを許さない、教育者としての何よりも重い戒めだった。
五人は紙片を握りしめ、深く頭を下げた後、それぞれの配属先へと帰っていった。
*
連絡所の教官室。
残務整理をしていたグレンとセラの前に、王都の都市魔導庁から一通の親展書類が届けられた。
差出人は、都市魔導庁の長官オスカー・ルイス。
グレンが開封して中身を読み、その顔を険しくする。セラが横から覗き込んだ。
「……費用照会、ですか」
そこには、グレンが暫定審査に提出し、保留となった『教育規格案』に対する、オスカーからの具体的な試算と反論が記されていた。
『ハルバート教官。貴殿の提案する魔法停止を想定した二重化訓練を王都の全現場に導入した場合、各作業員につき週に二時間の追加労務が発生する。
現在、都市設備局の人員は逼迫している。もしこの不確実な危機の訓練へ人員と時間を回せば、今夏に予定されている下層区の給水管洗浄と保守作業に明確な遅延が生じる。結果として、王都で確実な水質悪化と衛生被害(感染症等の流行)が出るという試算だ』
グレンは書類を持つ手に力を込めた。
オスカーは、真実から目を背ける陰謀家でも、既得権益にしがみつく悪党でもなかった。彼は行政のトップとして、「平時の生活基盤を守る」というもう一つの『正しさ』を、具体的な数字をもって突きつけてきたのだ。
いつ来るか分からない不確かな危機へ備える正しさと、目の前にある平時の給水・衛生を守る正しさが、一つの予算という紙面の上で初めて激突した。
照会状の末尾には、流麗だが鋼のように冷たい筆致で、たった一文だけが添えられていた。
『備えるなら、何を後回しにするのか明記されたい』
グレンはその重い問いかけを見つめたまま、反論の言葉を返すことができなかった。
魔法が止まる未来の危機。だが、それに備えるための費用と代償を誰が払うのか。答えの出ない社会の戦いが、今まさに始まろうとしていた。




