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魔法が止まっても授業は終わらない ~五十二歳の辺境教官、落ちこぼれ五人に「全員で帰る手順」を教える~  作者: 他力本願寺


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第37話 餌は町の外へ

一番弱い光を、町側の安全境界へ置く。


 調査九日目の早朝。北試験採石場の周辺に広がる荒野で、リーゼ・ヴァルトは手元の図面に太い線を引いた。


 図面には三つの領域が記されている。南側にある物理柵の内側が人々の住む『町』。柵の外側が『採石場』。そしてさらに北へ向かった先にあるのが、使われなくなった入り組んだ『廃排水路』だ。


 設備局のトビアスが昨夜のうちに設計した誘導路の要のルールは、「餌はすべて柵の外へ置く」ことだった。


 同日午後には、旧観測坑道の事故区画で最終入坑が予定されている。グレン、セラ、坑道保安官と採取班は朝から休養と装備点検に回り、誘導作業には参加しない。二つの作業で坑内要員を重ねないことも、昨夜のうちに決めた停止条件の一つだった。


 この誘導作業に限っては、住民安全に直結する緊急措置として、五人へ半日の現場協力許可が出ていた。ただし調査班への転属ではなく、終了後は各配属先へ戻る条件である。


 坑道生物の専門官からは、若い個体ほど高いM勾配だけでなく、湿った冷気の流れる空洞へ反射的に逃げ込む場合がある、と注意が出ていた。トビアスは古い保守通路の位置も図面へ書き込み、逸れた場合の枝路閉鎖まで予備手順に加えた。


「いいか、間違えるな」


 トビアスが、高価な魔晶を抱えた運搬員たちに指示を飛ばす。


「町側の境界に最も近い起点に置く魔晶を『最弱』とし、北の廃排水路へ向かうほど魔晶の濃度を上げていく。基本的には、より魔力の濃い勾配を追って北へ進む。逸れた場合は、予備手順どおり枝路を閉じる」


 運搬員たちは無言で頷いた。彼らの手には、バルトが昨夜徹夜で用意した『絵印札』が握られている。


 図面や文字を読む余裕のない緊張した現場でも、バルトの描いた泥臭い絵印を見れば、『ここに置く』『置いたら離れる』『絶対に触らない』という指示が一動作で直感的に伝わる。それは、南倉庫で彼が生み出した手形記号の延長線上にあり、確実な安全帯を構築していた。


「フィオナ。準備はいいか」


「はい」


 リーゼの声に、物理柵の内側で待機していたフィオナが杖を構える。


 彼女の役目は、柵外の町側境界に置かれた最弱の魔晶だけを、自分の小術で短く励起することだ。彼女自身の感覚で怪物を探るわけでも、大魔法で群れを牽引するわけでもない。


「全作業員、配置完了。観測班、計器の同期よし」


 リーゼが最終確認を終え、手を挙げる。


 フィオナの杖の先から放たれた極小の光が、起点に置かれた魔晶を微かに励起させた。


 ズズッ……。


 採石場の底の土が盛り上がり、昨日確認された《鉱殻喰い》の若い個体が姿を現した。


 個体はフィオナの放った光の刺激に一瞬反応したが、すぐにその先にある、より濃い魔晶の匂いへと向きを変え、北へ向かってズルズルと移動を開始した。


「個体の移動を確認。ノエル、そっちの計器はどう?」


『事実。個体の移動に伴い、周囲数メートルの魔力密度(M値)の沈みが一緒に北へ移動しています』


 遠巻きに配置された観測網から、ノエルが冷静な声で報告する。


 誘導は順調に見えた。だが、現場は常に机上の計算通りには進まない。


「リーゼ!」


 誘導路の中腹で、観測員の健康状態をチェックしていたマリエルが、鋭い声を上げた。


「第三観測点の作業員に、軽い頭痛と手指の震えが出ています。魔力環境の急変による重圧症状の初期段階です。直ちに彼を現場から離脱させるべきです」


「待ってくれ、俺はまだやれる! 俺が抜けたら、個体が通過する前後のC値(整合度)の紙帯記録が取れなくなるぞ!」


 作業員が強がって抗議する。ここで記録を取り逃がせば、貴重な記録に穴が開く。


 だが、マリエルは一歩も引かなかった。


「まだやれるから、下がるんです。これ以上悪化すれば、あなた自身が個体の標的になりかねない。下がってください」


「……」


 マリエルの強い医学的進言を受け、リーゼは即座に決断した。


「第三観測点、離脱を許可。作業員を後方へ下げろ」


「了解した。無理はさせん」


 マリエルと待機していた救護員が作業員の肩を支え、安全圏へ引き下がる。


 マリエルの判断により、重症化は防がれた。しかし、第三観測点で取るはずだった誘導前後のM・C値測定は『欠測』となった。マリエルは欠測票の責任欄へ自分の名で署名する。


『第三観測点、欠測。医療判断による離脱』


 彼らは後から都合のよい予測値で穴を埋めない。人を下げた判断と、記録を一つ失った事実を、同じ紙に残した。


 さらに、想定外の事態が連続した。


『まずい、個体が予定の線から外れた!』


 トビアスの焦った声が響く。


 鉱殻喰いが、配置された魔晶の線ではなく、突如として横道へと逸れ始めたのだ。そこは、設備局がかつて使用していた、湿気を帯びた古い保守通路だった。魔晶の匂いよりも、湿った地下の冷気に本能が惹かれたのだ。


「あっちへ行かせるな! 俺が追って軌道へ戻す、最悪ここで制圧する!」


 護衛のセドリックが長杖を構え、逸れた個体の背中を追おうと飛び出しそうになる。


 怪物を討伐してしまえば、面倒な誘導などしなくて済む。統一試験の時のように全員で力を合わせ、ここで打ち倒す誘惑が現場を覆いかけた。


 だが、リーゼが鋭くそれを制止した。


「追うな、セドリック! 個体に近づきすぎるな!」


「しかし、このままでは誘導が失敗する!」


「取り戻さなくていい! 町側の住民の安全距離を優先しろ!」


 リーゼは全体の地図を頭に描き、坑道外周の調整役としての権限を行使した。


「トビアス主任! 逸れた保守通路と、町側の枝路の境界にある防水隔壁を物理的に閉鎖してください! 個体が町へ向かう物理的な経路を断ち、再び北の魔晶の匂いへ戻る余地を作るんです!」


 それは、怪物を華麗に倒す魔法ではなく、ただ「逃げ道を塞ぐ」という地味で泥臭い判断だった。


 トビアスは即座にリーゼの指示に従い、遠隔操作で保守通路の隔壁を重い音と共に閉鎖した。


 進路を塞がれた鉱殻喰いは、苛立ったように隔壁を何度か引っ掻いたが、やがて諦め、再びより濃い魔晶の匂いが漂う北の廃排水路へと向きを直した。


 高価な魔晶と、今後使えるはずだった保守通路を一本完全に放棄した。


 だが、それらを放棄したことで、住民側の安全距離は守られた。


 数十分後。


 鉱殻喰いは、目的地の廃排水路の深部へと入り込んだ。


 入り口には強固な物理柵が下ろされ、周囲の魔力をごく薄く保つ処置が施された。彼らは怪物を討伐したのではない。ただ、高魔力施設から遠ざけ、当面の『時間を買う』ことに成功しただけだった。


「誘導、完了。採石場周辺の魔力密度は、ゆっくりと平常の基線へ戻りつつあります」


 トビアスが手元の計器を見ながら宣言した。鉱殻喰いという局地的な魔力の捕食者がいなくなったことで、周囲の環境は安定を取り戻し始めていた。


 だが、安堵の空気の中で、遠話器を耳に当てていたノエルが、信じられないというように首を振った。


「……トビアス主任」


 ノエルの声は微かに震えていた。


「採石場の周辺は戻りました。ですが、昨日から観測を続けている『遠く離れた三つの深度井』の担当者からの報告によれば……そちらの深い井戸の基線は、全く戻っていません」


「……」


 トビアスの表情が硬くなる。


 その事実が意味することは一つしかなかった。


 鉱殻喰いは、確かに自分の周囲の魔力を食い荒らし、局地的な低下を悪化させる『増幅者』ではあった。


 しかし、彼らを遠ざけてもなお深い地脈の低下が戻らない以上、彼らは王都全域に及ぶ巨大な魔潮低下の『根本原因(根因)』ではないのだ。


 怪物を追い払っても、世界が抱える本当の病巣は消えはしない。


 廃排水路の奥へ個体が消えた後も、観測室の紙帯に引かれた、遠い三本の深い針が示すインクの線は、不気味なほど低い位置を這うように、真っ直ぐに伸びていた。

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