第38話 七秒の空欄
落盤の線より先に、補強の針だけが七秒消えている。
同日午後。王都東区画の谷底に口を開ける旧地脈観測坑道は、その日、予定されていた最後の入坑者を迎え入れていた。午前の誘導作業を終えた班とは坑内要員を入れ替え、朝から休養と装備点検に回っていた最終入坑班だけが坑口に集められている。
坑道の最深部、二十三年前の崩落事故区画。
薄暗い魔導灯の光に照らされた岩壁の前で、環境局の研究官セラ・オルテは、持参した古記録の写しと、持ち込まれた照明板を重ね合わせていた。
彼女が照合しているのは、二十三年前の今日、この場所で稼働していた二つの計器の記録だ。
「……当時の魔導補強の記録針が途切れた地点。そして、電源を持たない物理的な『ばね式衝撃計』に、主落盤の巨大な揺れが刻まれた地点」
セラは二つの異なる記録紙を、同じ時刻軸の目盛りに合わせてスライドさせた。
「魔導補強が消えてから、主落盤が発生するまでの間には、推定で七秒の欠測期間があります。ただし、当時の計器の精度を考慮し、前後三秒の誤差帯を残します」
七秒間。ユリウス・レインが生き埋めになる直前、坑道を支えていた魔導術式だけが、物理的な崩壊より先に機能を停止していた。
「当時の作業員二名が残した、事故当日の口述調書とも一致します」
セラは別の書類を読み上げた。彼女は二十三年の時を経て変容したであろう関係者の現在の記憶には頼らず、事故直後に記された調書のみを証拠として扱っていた。
『壁の補強術式の唸りが、ふっと先に消えた。真っ暗になった後で、天井が落ちてきた』
同席していたグレン・ハルバートが、岩壁を睨みつけながら唸るように言った。
「やはり、魔力空白が先に起きて術式を殺し、それが原因で落盤が誘発されたんだ。ユリウスは単なる自然の落盤で死んだんじゃない、魔力低下という現象に巻き込まれたんだ」
「それは有力な可能性の一つです」
セラはグレンの言葉を全否定はしなかった。だが、その推測をただ一つの真実として確定させることも拒んだ。
「しかし、別の可能性も残ります。我々には観測不能な『微小崩落』が最初に発生し、それが魔導補強の回路網を物理的に切断した。その七秒後に、連鎖的な主落盤が起きた……という『逆因果』の代替説明も、この記録からは排除できません」
「……」
「十七秒窓の共通波が実在した今、空白の関与の蓋然性は確かに上がりました。ですが、この七秒の欠測記録だけをもって、ユリウス研究員の死因を『魔潮の低下によるものだ』と確定することはできないのです」
厳しいが、足元を崩されにくい誠実な線引きだった。グレンは反論せず、ただ静かに頷いた。
検証と並行し、事故区画の奥では作業員たちが最新の『深度試料カプセル』の回収を行っていた。
カプセルの留め金には、バルトによって厳格に定められた手順通り、太い縄の二重結びと赤い蝋印が施されている。作業員がそれをホルダーに収めた、まさにその直後だった。
『警告。C値、三十未満へ低下。継続一秒……二秒』
坑道外周に留まり、遠隔で計器の数値を監視していたリーゼ・ヴァルトの声が、遠話器を通じて響き渡った。
同時に、セラたちが立つ区画の岩壁に噛ませてあったアナログな手動亀裂計から、パキンッ、と鋭い金属音が弾けた。目盛りの針が、危険を示す赤い領域へ跳ね上がる。
『五秒継続。さらに、坑内手動亀裂計の二ミリ以上の変動を受信』
リーゼの声には一切の動揺がなかった。彼女は指揮官として現場に命令を下しているのではなく、事前に固定されたルールを淡々と執行する役を担っていた。
『撤退条件の二つが同時に成立しました。停止票に基づき、全調査員へ通達。直ちに作業を打ち切り、全員即時退避してください』
坑道保安官が「退避!」と叫び、作業員たちが一斉に出口へと走り出す。
グレンは、足元が不気味に鳴動を始めるのを感じながら、区画の奥へ視線を向けた。
崩れた岩の隙間。そこには、二十三年間手つかずのまま残されているユリウスの机と、彼が最後まで使っていた一部の観測器具が半分埋もれているのが見えた。
手を伸ばせば、友が最後に残した走り書きや、決定的な何かを掴み取れるかもしれない。あと数歩、ほんの十秒あれば届く距離だ。
(……だが、入る前に決めた線だ)
グレンは血が滲むほど拳を握り込み、友の机に背を向けた。
事前の撤退手順を破り、友の証拠のために誰かの命を危険に晒すような真似をすれば、彼らがこれまで積み上げてきた調査の信用そのものが根底から崩れ去る。
「急げ! 岩盤が鳴ってるぞ!」
狭く暗い坑道を、ヘッドライトの光だけを頼りに駆け抜ける。
その退避の最中、後方を走っていた作業員一人の頭上に、パラパラと小さな土砂が降り注いだ。
バランスを崩した作業員が坑壁に肩を打ちつけ、彼が抱えていた深度試料の入ったカプセルが、鋭い岩角にガツンと激しく激突した。
「痛っ……! す、すみません!」
「立ち止まるな、走れ!」
グレンが作業員の背中を押し、走り続ける。
ぶつけたカプセルは、深度環境に晒した感応紙帯の残留反応を、側面の透明窓から地上で読み取る構造になっていた。窓を開ける必要はない。だが、封緘が破れれば、感応紙帯は採取後の外気や坑壁粉に残る魔力まで吸着し、値が変わり得る。線は見えても、それが採取時の深度を示す保証は消える。もちろん、崩落の恐怖が迫る暗い坑道の中で、封の状態を詳しく調べる余裕はなかった。
彼らは衝突したという事実だけを受渡票に走り書きし、ただひたすらに光の射す出口を目指した。
*
全員が地上へ生還すると、坑道保安官は点呼の完了を確認し、永久封鎖の準備を命じた。
地上の退避拠点。
バルト・エッガーは作業員から渡された深度試料カプセルを受け取り、その表面を点検していた。
彼は留め金を見て、ピタリと動きを止めた。その太い指先が、微かに震える。
バルトは重い足取りでセラとグレンのいる机へ向かい、カプセルをコトリと置いた。
「どうした、バルト。外からの非破壊読取にかけるんだろう」
「……教官。オルテ研究官」
バルトの顔は青ざめ、声は強張っていた。
「この封、俺が採った時と違います」
グレンとセラが、カプセルの留め金に目を落とす。
坑壁へ激突した衝撃によるものか。バルトが確認して結んだはずの『二重結び』の片方が解け、隙間を塞いでいた赤い『蝋印』も半分欠けていた。
坑壁へ衝突した時刻は受渡票に残っている。だが、封緘がいつ、どの程度開いたかは特定できない。内部の感応紙帯が、採取後の外気や坑壁粉に残る魔力をいつから吸着したのかは保証できない。窓越しに線が読めても、それが深度で刻まれた値なのか、退避中に変わった値なのかは区別できなくなった。
その確認を終えた後、坑道保安官の権限で、予定されていた永久封鎖が執行された。
轟音と共に坑口が崩れ、土煙が谷底を覆う。二十三年前の事故区画は厚い岩の向こうへ閉ざされ、試料を取り直す道も失われた。




