第35話 ユリウスはここを間違えた
親友が南東へ向けて引いた太い矢印とは逆向きに、岩壁に残された痕跡は新しくなっていた。
旧地脈観測坑道・外周拠点。
北側の排水溝付近で採取された半透明の甲殻片は、ただちに環境局から同行していた坑道生物の専門官のもとへ持ち込まれた。
現場では「最近のものに見える」と報告されたが、研究の場では、その見立てだけを根拠にはしない。専門官は拡大鏡と試薬を用い、殻の乾燥具合、表面に付着した鉱粉の酸化度、そして岩壁に残された爪の削り痕(掘進痕)の重なりを緻密に分析していった。
「間違いない」
専門官が顔を上げ、周囲を囲むセラやグレンたちに告げた。
「この殻の水分量と付着鉱物は、長年風化していたものではない。ここ数年以内に脱皮した、若い《鉱殻喰い》のものだ。岩壁の掘進痕も、古い傷の上に新しい爪痕が重なっている。新たな個体群が、確実にこの北支道を使って地上近くまで上がってきている」
「……南東側はどうだ」
グレンが低く掠れた声で問う。専門官は首を横に振った。
「南東支道にも、確かに這い回った古い痕跡は残っている。だが、どれも数十年単位で風化しており、近年の新鮮な連続痕は一つも見当たらない。今の彼らは、南東へは向かっていない」
静寂が下りた。
セラ・オルテは無言で机の上に地図を広げた。二十三年前、ユリウス・レインが残した『喰魔種の移動経路図』だ。
そこには、坑道から南東へ向かう太い赤い矢印が書き込まれている。ユリウスの固定経路図は、今彼らの目の前にある現実の痕跡を、何一つ説明できていなかった。
「なぜ、進路が変わったのでしょうか」
リーゼが疑問を口にする。セラは前日に作成した二枚の重ね地図を、今度は掘進痕の位置図の上へ置いた。
説明はもう要らなかった。十一年前の都市魔導核増設後、高い魔力密度(M値)の勾配は北へ曲がっている。新しい殻の年代幅も、その後に重なる。赤い南東の矢印だけが、現実の爪痕から取り残されていた。
「生物が現在の高いM勾配を追うという原理は残ります。反証されたのは、固定された南東経路です」
「……」
グレンは目を伏せた。
ユリウスの『深層の魔力不足から逃れ、高魔力側へ移る』という原理は正しかった。彼は狂人ではなかった。
だが、『南東へ移る』という彼が残した決定的な結論は、たった十数年後の都市の形によって、無残にも反証されてしまったのだ。
「ハルバート教官」
環境局の記録官が、羽ペンを構えてグレンへ向き直った。
「公式な所見を伺います。ユリウス・レイン研究員の予測経路は、誤りであったと記録してよろしいですね?」
グレンの奥歯がギリッと鳴った。
原理は合っていたのだ。「予測は概ね正しかった」と、ほんの少し言葉を濁せば、友の残した業績を傷つけずに済む。二十三年間、世間から嘲笑され続けた友の名誉を、ようやく回復してやれるかもしれないのだ。
強烈な感情の摩擦が、グレンの喉を焼き焦がそうとする。
(だが、ここで誤りを薄めれば)
グレンは、傍らに立つリーゼやノエルたちの顔を見た。
南東へ向かうという誤った地図をそのまま残せば、彼ら若い世代が、間違った場所で防衛線を敷き、背後から喰魔種に襲われて命を落とすことになる。
教育者として、それだけは絶対に許されなかった。
「……ユリウスは」
グレンは、絞り出すように言葉を口にした。
「ユリウスの移動原理は正しかった。だが、経路予測は、間違えた」
正しさと誤りを、一つの文で曖昧に混ぜることはしなかった。
グレンは記録官からペンをひったくるように受け取ると、二十三年間、自分が大切に守り続けてきたユリウスの地図へ手を伸ばした。
彼は自らの手で、友が南東へ向けて引いた太い赤い矢印の上に、無情な斜線を二本引いた。
そして、その余白に『南東経路図:反証済み』と書きつける。
友の全面的な名誉回復を手放す。それが、彼が古い予測を現代の確かな測定記録へと昇華させるために支払った、重く苦しい代償だった。
セラはその地図を一瞥し、静かに頷いた。
「では、現在の魔力勾配に従えば、彼らは北支道を抜け、今どこへ向かっているのか」
セラが北側の地図を広げ直す。
北支道のさらに北。そこには、王都の郊外に位置する『北試験採石場』の記号があった。
「ここには、設備局が近日中に起動予定の、高出力魔導標識が設置されているはずです」
セラの言葉に、場が凍りついた。
高出力の魔導機器。それは暗闇の中で飢えている《鉱殻喰い》たちにとって、これ以上ない極上の餌の匂いを放つ光の柱となる。
「……急ぐぞ。すでに標識の真下まで来ている可能性がある」
グレンが踵を返し、調査隊はすぐさま北の採石場へと移動の準備を始めた。
*
同じ頃、北試験採石場。
無人の荒涼とした岩場に、金属で組まれた巨大な魔導標識の塔がそびえ立っていた。
まだ本稼働前であり、魔力は微弱な待機状態に保たれている。
周囲に人の気配はない。静寂の中、秋の風が乾いた土埃を巻き上げていく。
だが、その標識の足元の地面で。
ボコッ。
硬く踏み固められていたはずの土が、まるで内側から沸騰したかのように、ゴクリと不気味に押し上げられた。
南東の矢印とは反対側。友の予測図の外側で、まだ湿気を帯びた白っぽい殻の一部が、陽の光を浴びて鈍く光った。




