第34話 入る前に決めた線
『今日、帰路を確かめられなければ、九日目の事故区画許可は出ません』
坑道保安官から渡された厳しい文面の下へ、リーゼ・ヴァルトはペンを押し当てた。
一拍の躊躇いもなく、彼女はその余白に自分の意志を書き足した。
『それでも戻る』
東区画での事故から数日が経過した、調査七日目。
統一試験でリーゼたち十八名が死に物狂いで生還を果たした東区画の谷底に、王都から派遣された本格的な環境調査隊が拠点を構えていた。
目指すのは、谷の最深部に口を開ける旧地脈観測坑道。二十三年前、グレンの親友であるユリウス・レインが落盤事故で命を落とした場所だ。
「これより、旧観測坑道の内部調査に向けた予備確認を開始する」
環境局から派遣された屈強な坑道保安官が、入り口に集まった調査隊員たちを見回して厳しい声で告げた。
「事前通達の通り、この坑道は内部の老朽化と先日の地盤変位により、崩落の危険性が極めて高い。よって、調査九日目に予定されている『事故区画の最終調査』を終えた時点で、この入り口は物理的に爆破し、永久封鎖する」
隊員たちの間に緊張が走る。
タイムリミットは明確に切られた。九日目の最終調査までに必要な限定区画の調査許可は、本日の『外周および北支道までの安全確認』と、最終日の『ユリウスの事故区画調査』にしか下りない。それ以外の無許可の再入坑や、別ルートへの探索は一切禁止だ。
保安官はさらに、今回の調査における権限の分割を宣言した。
「坑道内の構造的な安全判断と退避命令は、我々保安局が持つ。収集した証拠の採否および研究判断は、環境局のセラ・オルテ研究官。そして、坑道外周での人員点呼、帰還索の管理、および通信による退避条件の復唱は、仮任用出向のリーゼ・ヴァルト。君に任せる」
「了解しました」
リーゼは背筋を伸ばし、はっきりと答えた。
彼女は調査隊全体の指揮官に抜擢されたわけではない。ただ、あの暗闇の中で誰よりも正確に人数を数え、退避の手順を回した実績を買われ、『絶対に中へは入らず、外で命綱を握る役』として配置されたのだ。
「カルド分校のハルバート教官」
「ああ」
保安官の視線が、壁際に立つグレンへ向いた。
「教官には、過去の坑道構造に詳しい安全助言者として同行を許可する。だが、あなたは死因判断者でも指揮官でもない。越権行為があれば即座に退去していただく」
「分かっている」
現場の責任は、厳密に切り分けられていた。英雄的な一人の超人が全てを解決する余地など、この過酷な現場には存在しない。
「では、ヴァルト。停止票の読み上げを」
「はい」
セラからの指示を受け、リーゼは手元の綴じ板を開いた。
坑道へ入る調査隊全員に対し、彼女のよく通る声が響き渡る。
「本調査における、即時撤退条件を固定します。条件一、空間の整合度(C値)三十未満が、五秒間継続した場合」
行政上の《局地空白》の定義は『C値二十未満・十秒以上』だ。だが、崩落の危険がある坑道内では、その行政基準よりも遥かに保守的で厳しい独自の撤退ラインが敷かれていた。
「条件二、坑壁に設置した手動亀裂計が、二ミリ以上の変動を示した場合。条件三、物理的な帰還索(命綱)のテンションに異常を感じた場合。条件四、遠話通信において、二十秒間無応答が続いた場合」
リーゼは顔を上げ、全員の目を見た。
「この四つのうち、『いずれか二条件』が同時に満たされた場合、いかなる理由があろうと調査を打ち切り、全員即時退避とします。例外は認めません」
「以上が、我々の合意した停止票です。ハルバート教官」
セラが、署名欄の空いた書類をグレンへ差し出した。
「今日だけでなく、九日目の最終調査でもこの条件は適用されます。もし途中で二条件が揃えば、私たちは二十三年前の落盤地点――ユリウス研究員の机が残る区画まで辿り着けずに、撤退を余儀なくされます。そして坑道は永久封鎖される。それでも、あなたはこの条件で署名できますか」
それは、友の死の真相を解明する最後の機会を、あっさりと手放すことになるかもしれないという宣告だった。
グレンは、かつて自分が東区画の森で「退路」を優先しろと教えた生徒、リーゼの真っ直ぐな瞳を見た。
教える者が、自らの教えを破るわけにはいかない。
「……証拠より、生きて戻る線が先だ。それが俺の授業だからな」
グレンはペンを取り、躊躇なく『三日間共通の停止票』の最上段へ自らの署名を書き込んだ。証拠への未練を断ち切り、友への感情よりも現場のルールを優先する代償を支払ったのだ。
「これより、予備確認を開始する」
保安官の合図で、調査隊の先発班が古い坑口へと足を踏み入れていく。グレンもその後に続いた。
リーゼは入り口の外に立ち、隊員たちの腰に繋がれた物理的な帰還索の張りを両手で確かめながら、遠話器の受話器を耳に当てた。
『第一区画、進入。C値正常。壁面の音波探査、異常なし。これより旧式亀裂計を設置する』
通信越しに、隊員たちの作業の様子が伝わってくる。
坑道内では、最新の魔導地盤探査機が壁の内部の反響を拾い、それと並行して、岩の隙間に金属の板を噛ませるだけの極めてアナログな手動亀裂計が設置されていた。
新しい魔導具が旧技術を駆逐したわけではない。逆に、古い技術が魔法に勝ったわけでもない。探査機は広い範囲の隠れた空洞を見つけ、アナログな亀裂計は魔力が乱れた時でも確実に目視できる物理的なズレを警告する。それぞれが別の不具合を補う冗長系として、同時に運用されていた。
リーゼは時計の秒針を見つめながら、十秒ごとに通信の応答を『復唱』し、外周の安全を保ち続けた。
その時だった。
「おい、ちょっと来てくれ! 入り口の排水溝に、変なものが引っかかってるぞ」
坑道の外周、入り口の北側斜面を点検していた作業員の一人が、声を上げた。
リーゼは帰還索から手を離さずに、視線だけをそちらへ向けた。セラが歩み寄り、作業員が泥の中から引き上げた『それ』をピンセットで慎重に拾い上げる。
「これは……」
それは、白濁した半透明の、硬い甲殻の破片だった。
統一試験でリーゼたちを襲った《鉱殻喰い》の、分厚い外殻の一部。
セラはすぐさま、手元に広げていた二十三年前の『ユリウスの坑道地図』と、その破片の落ちていた位置を見比べた。
「二十三年前の落盤時のものではない可能性があります。淡色で、まだ湿気が残っている。新しい抜け殻かどうかは、専門官の判定を待ちます」
セラの言葉に、周囲の空気がピンと張り詰めた。
ユリウスの残した地図には、喰魔種が地脈の枯渇から逃れるために移動すると予測した、太い赤い矢印が書き込まれている。その矢印は、坑道から『南東』へ向かって真っ直ぐに引かれていた。
しかし、作業員が今、真新しい抜け殻の破片を見つけた排水溝は、南東の矢印とは全く反対の『北側』だったのだ。
坑道の奥深くで、魔力環境を蝕む化け物たちが蠢いている。
だが、彼らは友の予言した経路にはいなかった。
暗い谷底の泥の中で、ユリウスの矢印に背を向けるようにして落ちていた、まだ湿気を帯びた新しい殻の破片だけが、白く不気味な光を放っていた。




