第33話 深さの違う三本
地上の魔力は満ちているのに、深い井戸ほど古い基準へ届かない。
調査五日目。都市設備局の一角に設けられた校正台で、フィオナ・セイルは肩で息をしながら杖を下ろした。
「第五十回、入力終了」
「よし。旧式と現行計器、双方の応答値を取得した。ご苦労だったな」
設備局の専門魔術師が、二つの魔導計器から吐き出された記録紙を素早く比較し、手元のグラフに点を打っていく。
二十三年前のユリウスの記録と、現在の記録。使われている計器の規格が違う以上、見かけの線の高さを直接比べることはできない。二つの計器の目盛りの差を埋める「応答曲線の変換表」を作る必要があった。
そのために呼ばれたのがフィオナだった。
彼女の低魔力ゆえの「閉鎖回路の小術」は、外部の環境魔力の影響を受けにくく、規定誤差内で安定した極小の出力を保つことができる。彼女自身が肌で魔力低下を感知するわけではない。彼女の役目は、二つの計器へ同じ規定範囲の『既知の入力』を与え続け、比較の基準を作ることだった。
「お前さんの安定した小術のおかげで、正確な換算表が作れそうだ」
「……地味な作業には慣れてますから」
フィオナは額の汗を拭いながら、力なく笑った。
統一試験で大魔法への未練を断ち切ったとはいえ、一日中暗い部屋で同じ光を五十回も出し続ける作業は、体力的にも精神的にも堪えるものだった。だが、彼女がこの単調な作業を完遂したことで、二十三年の時を隔てた二つの記録を、初めて同じ土俵で比較する準備が整った。
そこへ、南物流組合の制服を着たバルトが、重そうな木箱を台車に乗せて運んできた。
箱の中には、西郊の地脈測量隊などが三箇所の観測井から引き上げてきた、浅層、中層、深層の環境魔力(M値)の試料が収められている。
「ご苦労。……だが、これ本当に深さごとに混ざってないだろうな? 少しでも他の層の空気が混入すれば、測定値がパーになるぞ」
専門魔術師の疑り深い視線に対し、バルトは胸を張って分厚い運搬台帳を開いた。
「俺は字を読むのは遅いが、間違えちゃいけねえ印のルールは作ってある。箱の封と、この台帳の番号を見てくれ」
バルトが示した箱の留め金には、赤い蝋印と共に、太い縄で『一本線』『二重結び』『三つの結び目』という物理的な印が厳重に施されていた。
「浅い層は一本線。中層は二重結び。深層は三つ結びだ。封をした担当者の名前と、俺が受け取ってからここへ下ろすまでの時刻も、全部この台帳の番号と紐づけてある。誰の目から見ても、途中で蓋が開いてないことは証明できるぜ」
字が苦手なバルトが、物流倉庫で培った厳密な荷役管理の手法。取り違えが起きても見つけられるその手順が、最先端の学説を検証する試料の「信用」を支えていた。
専門魔術師は封と台帳を細かく見比べ、小さく感嘆の息を漏らすと、すぐに試料の測定に入った。
数時間後。調査六日目にかけて行われた解析の結果が、カルド分校の臨時照合室へ持ち込まれた。
セラ・オルテは、設備局から上がってきた補正済みの魔力密度(M値)のグラフを黒板に貼り出した。
グレンとヘレナ、そして調査非番のフィオナが見守る中、セラは淡々と結果を口にする。
「換算表を用いて三深度の試料を測定した結果です。まず浅層ですが、これは二十三年前のユリウス研究員の旧資料よりも、現在のM値の方が『高く』出ています」
その言葉に、グレンが眉をひそめた。魔潮が低下しているなら、なぜ高くなるのか。
「しかし」とセラは別のグラフを並べた。
「中層、そして深層へ行くほど、補正後のM値の線は右肩下がりになり、旧資料の推定帯よりも明らかに『下側』へと落ち込んでいます」
「どういうことだ。上は満ちているのに、下が枯れているのか?」
「そうです。現在、地上には巨大な王都の都市魔導核が存在します。そこから漏れ出る豊富な魔力が表層を高く保ち、地下深くで進行している低下の兆候を覆い隠してしまっていたのです」
高魔力都市という分厚い蓋が、深層の枯渇を隠していた。それは都市核が邪悪な意図を持って隠蔽したわけではなく、人々の豊かな生活を支え続けた合理的な結果に過ぎない。
「よし、これで決まりだ!」
同席していた環境局の若い書記が、興奮した様子で声を上げた。
「深層での明確な魔力低下が確認された。これこそ魔潮下降の決定的な証拠です! すぐに上に報告を――」
「早まらないでください」
セラの冷ややかな声が、書記の熱をピシャリと撥ね退けた。設備局の専門魔術師も、腕を組んでセラの言葉に同意するように頷いている。
「現在の断面で、深部が昔より低いという事実が確認できただけです。たった二点の時代比較だけで、それが数百年に及ぶ長期的な『下降傾向』であると断定することは、科学的に不誠実です。都市開発による局地的な地脈の変化という別の要因もまだ排除できていない」
「ですが、このままでは対策が遅れます!」
「だからといって、不確実な飛躍を証拠に混ぜれば、後で全ての信用を失います」
セラは書記の焦りを退け、調査書に自らのペンで公式な所見を書き込んだ。
『結論:現在の深度勾配が、旧推定の帯とは明らかに異なることを確認』
それ以上でも、それ以下でもない。派手な「魔潮低下の発見」という結論を捨て、現時点の資料で裏づけられる一歩だけを記録する。それが、専門家として引き受けるべき制限だった。
セラはペンを置き、黒板の前に歩み寄った。
「問題は、ここからです。ハルバート教官」
彼女は、二十三年前にユリウスが遺した『喰魔種の移動予測図』を写した透明紙を取り出し、黒板のグラフの横に重ねて貼り付けた。
透明紙には、旧観測坑道から南東へ向かって太い矢印が引かれている。ユリウスは、深層の魔力不足から逃れた喰魔種が、当時の高魔力帯であった南東へ向かうと予測していた。
「生物が餌となる高い魔力勾配を追う、というユリウス研究員の原理に従いましょう。ですが、先ほど申し上げた通り、地上の魔力環境は二十三年前とは変わっています」
セラはもう一枚、別の透明紙を取り出した。
そこには、王都の都市魔導核が増設された年――ユリウスの死から十一年後――以降の、現在の魔力勾配の分布図が描かれていた。
セラがその二枚目の透明紙を、ユリウスの予測図の上にぴたりと重ね合わせる。
「あっ……!」
見ていたフィオナが、思わず声を漏らした。
重ね合わされた図面の上で、魔力勾配の『高い方向』が、十一年前の都市拡張工事を境にして、南東から急激に「北」へと曲がっていたのだ。
「喰魔種が固定された地脈ではなく、現在の高いM勾配(餌)を追って移動する生物だとすれば。彼らはユリウス研究員が予測した南東ではなく、北へと進路を変えたはずです」
セラの指先が、地図上の北側をトンと叩いた。
そこにあるのは、かつて彼らが足を踏み入れた東区画の奥。旧坑道の北支道だった。
ユリウスが引いた南東への真っ直ぐな矢印。
その上に重ねられた十一年前の都市核の等高線が、友の予測を無残にも北へとへし折っていた。




