第32話 外れた観測窓
四時間の紙帯には、山場らしい揺れが一本も刻まれていなかった。
調査四日目の午後。三地域の地脈井の一つに設営された臨時観測所で、グレン・ハルバートは魔導記録器から吐き出され続ける平坦なインクの線をじっと見つめていた。
今回彼らが設定した四時間という観測枠は、当てずっぽうなものではない。
親友ユリウスが残した『十五年から四十年後』という全体時期予測は、幅が広すぎて今日の検証対象にはならない。そのためセラは、ユリウスの膨大な計算式の中から、月齢と地脈圧の相関を示した下位式の一部だけを抽出し、それを現在日に当てはめて『この四時間帯に低整合波が起こり得る』という短期の観測窓を仮置きしたのだ。
「これは『当たる予言』を探すためのものではありません」
観測前、セラはグレンにはっきりと宣告していた。
「この下位式で波を捕捉できなければ、この計算式そのものを検証モデルから捨てる。そのための試験です」
時計の秒針が、無情にもその四時間の終わりへと近づいていた。
同じばね時計と紙帯を用い、王都の給水局試験口、そして離れた深度井の三地点で同時測定が行われている。
遠話器の回線を開いたまま、グレンは別の現場の状況に耳を傾けていた。
『こちら給水局西系統。試験口での事後校正に入ります』
回線の向こうから、フィオナ・セイルの声が聞こえた。
彼女の役割は、自身の肌で魔力の低下を感じ取ることではない。低魔力である彼女の感覚など、観測機器の精度から見ればただのノイズに過ぎないからだ。
彼女が担っているのは『前後校正』だった。観測の開始前と終了後の二回、給水局の計器に対して、彼女の閉鎖回路の小術――熱を持たない光の球を三秒間だけ維持する――という『魔力消費量を規定誤差内で再現できる既知の入力』を行う。
その入力に対し、計器の針が規定範囲の目盛り分だけ跳ねれば、この四時間の観測結果を棄却すべき計器ドリフトがなかった、という有力な根拠になる。
『小術入力、三、二、一……終了。計器の反応幅、事前入力時と許容誤差内で一致。観測結果を棄却すべき計器異常は認められません』
フィオナの報告に、給水局の老技師ガルムの渋い声が被さった。
『機器の正常は証明されたな。いいか環境局の連中、この何の異常も起きなかった観測のために、俺たちは給水管の試験口を二十六分間も閉鎖したんだ。本来なら今頃、二つ先の街区の圧力点検が終わっていたはずの時間をな』
ガルムの言葉は、この実験がただの机上の遊戯ではないことを示していた。
異常が起きるのを待つ。その間、都市のインフラを一部止め、環境局からも人員が割かれている。平時のサービスを削り、確実な人件費と社会コストを支払いながら、彼らは『何も起きない』という痛みを伴う結果に直面していた。
グレンは手元の携帯時計を見た。
セラの指定した四時間の観測窓まで、残り三十秒。
記録器の針は、微かな環境ノイズを拾って僅かに震えるだけで、低整合波の到来を示す鋭い谷底を描く気配は全くない。
(……ユリウス。お前の計算は、間違っていたのか)
グレンの奥歯が鳴った。
この四時間が終われば、友が血の滲むような思いで組み上げた理論の柱が、また一本切り捨てられることになる。十五秒。十秒。
もしかしたら、数分後に波が来るかもしれない。地下の圧力が地表に伝わるまでの時間差があるだけではないのか。
「……セラ研究官。まだ待てば」
「事前終了時刻です」
グレンが未練の言葉を言いかけるより早く、セラ・オルテの感情を挟まない声が観測所に通った。
「各班、記録器を停止。ばね時計の時刻を記録し、速やかに撤収作業に入ってください」
「……だが、もう少し延長すれば」
「ダメです、ハルバート教官」
セラは記録紙を巻き取りながら、グレンを真っ直ぐに見据えた。
「『当たるまで待つ』のは、観測ではありません。事前に決めた枠の中で起きなかったのなら、それは明確な失敗です。ここで時間を延ばせば、給水局の負担はさらに増し、我々の検証手順そのものの信用が失われます」
撤収の指示が出された直後に、都合よく巨大な魔力空白が発生して計器を狂わせるような、劇的な展開は起こらなかった。
現実はただ淡々と、決まった時刻に試験を終え、機材を片付ける作業音が響くだけだった。
セラは綴じ板に挟んだ『失敗票』に、澱みない筆致で文章を書き込んだ。
そして、自らの署名欄にサインを記入した後、グレンの方へそれを差し出した。
『結論:ユリウス・レインの月齢・地脈圧式から仮置きした短期観測窓は、今回の三地点測定において支持されない。同計算式を本調査の予測モデルから除外する』
魔潮下降仮説そのものを全否定する文章ではない。だが、友の残した緻密な予測式の一部が、明確に「役に立たない」と切り捨てられた証明書だった。
グレンは渡されたペンを握りしめた。
自分がこれに署名すれば、ユリウスの予言を絶対のものとして振りかざすことは二度とできなくなる。
グレンは深く息を吸い込み、そして、ゆっくりと吐き出した。
「……分かっている。俺たちは、予言を証明しに来たわけじゃない」
グレンはペンの先を紙に落とし、セラの署名の横に『カルド分校・実地基礎教官 グレン・ハルバート』と、共同の確認署名を記した。
友の正しさを信じたいという感情を殺し、事実の前で自ら失敗を受け入れる。それが、偏った記録だけを集めていた己への、最低限の落とし前だった。
撤収作業が進む中、遠隔班からは遠話器で速報値だけが届いた。最深部の地脈井では波らしい変動はないが、基線が低い。セラはその場で結論を出さず、封緘した原本紙帯の到着を待った。
同日夕刻。都市の設備網から外れた最深部の地脈井から、受渡票を添えた記録紙帯が臨時照合室へ運び込まれた。
セラは封と番号を確認してから紙帯を開き、眉をひそめた。
「……ハルバート教官。この最深部の井戸の記録ですが、四時間を通して波らしい変動はありません。しかし、記録されている魔力密度の『基線そのもの』が、ほかの二地点の平時レベルよりも明らかに低い位置で真っ直ぐに引かれています」
グレンもその紙を覗き込んだ。
確かに、異常な波こそ起きていないものの、インクの線は通常想定される位置よりも一段低い場所を這うように続いている。
「これは、二十三年前の記録よりも下がっているということか?」
「まだ結論には使えません」
セラは即座に釘を刺した。
「この最新の計器と、二十三年前のユリウス研究員の時代に使われていた計器では、測定の単位も規格も全く異なります。見た目の線の高さが違うからといって、そのまま昔の紙と重ね合わせて『魔力が減っている』と主張するのは、科学的ではありません」
セラはその低い基線の紙帯を、失敗票と同じ束に綴じた。
当たらなかった予測。浪費された都市のコスト。
切り取られた四時間の紙の端には、原因不明の低い線だけが不気味に真っ直ぐ残されていた。
だが、単位の違う古い過去の記録を引っ張り出し、それに都合よく重ね合わせて「予言は当たっている」と騒ぎ立てる者は、この観測所にはもう一人もいなかった。




