第29話 疑うために来た
カルド分校の臨時照合室。
王都から到着したばかりの王立魔力環境局研究官、セラ・オルテは、机に置かれた古い木箱の横へ、何も書かれていない真っ白な紙を十二枚、等間隔に並べた。
「ハルバート教官。あなたの私的記録の確認に入る前に、直近の事象について結論を揃えましょう」
三十代半ばのセラは、仕立ての良い実務服に身を包み、感情の揺れを見せない眼差しでグレンを見た。
低整合波の発生から、二日後の朝。
セラの右手元には、先日の五地点事故についてアデルがまとめた『事故速報副本』と、各所管の印が押された『認証写し』が置かれている。セラは王都を出る前に各現場の原本保管番号と、書類が封緘されてからここへ届くまでの経路を厳密に追跡していた。
「北門、給水局、治癒院、測量地、南物流倉庫。この五地点において、空間の整合度(C値)を乱す低整合波が、補正後十一時四十二分五十二秒から四十三分〇九秒の十七秒窓に通過したという蓋然性。当職も、これを環境局の正式な調査対象として認めます」
「……そうか」
グレンは短く息を吐いた。セラは五人の生徒たちが見つけ出した証拠の連鎖を、頭ごなしに否定しに来た敵ではなかった。彼女はまず、確かな物証によって裏付けられた成果を、盤石な事実として肯定したのだ。
「では、本題に入りましょう。あなたが二十年以上にわたって収集してきたという、その箱の中身についてです」
セラが視線を移したのは、グレンが提出した『魔導停止記録』の詰まった古い木箱だった。
グレンは無言で箱の蓋を開け、一番厚い記録の束を取り出した。それは、ユリウス・レインの『魔潮の下降』という仮説を裏付けるように見える、王都周辺や辺境で起きた散発的な魔力停止の記録群だ。
だが、グレンはその紙の束をパラパラと捲りながら、自分自身の指先が微かに震えるのを感じた。
(……おかしい)
見慣れたはずの事故票。しかし、それを第三者の評価へ晒そうとした瞬間、グレンは自らある致命的な欠陥に気づいてしまったのだ。
「……事故が起きた日の紙しかない。その前後にあるはずの、平穏だった日の記録が、一枚も残っていない」
グレンの呟きに、セラは小さく頷いた。
「ええ。私もざっと目を通しましたが、見事なまでに『異常が起きた日』の記録だけが抜き出されています。ハルバート教官、あなたはこの箱を何のために集めたのですか?」
「俺の実地基礎の、授業教材としてだ」
グレンは苦渋の表情で答えた。
「現場で役立つのは、何も起きなかった平穏な記録ではなく、機械がどう壊れ、人がどう死にかけたかという『失敗例』だ。生徒に安全教育を叩き込むため、俺はあちこちの観測所から、異常事態の記録だけを選んで書き写していた」
安全教育の教材を作るという目的においては、その選択は極めて合理的だった。
だが、セラが指摘しようとしているのは、まさにその点だった。
「教材としては立派でしょう。しかし、学説を検証するための研究資料としては、致命的な『選択の偏り』が生じています」
セラは手元の紙から目を上げずに続けた。
「異常が起きた日の紙だけを集めれば、世界中が常に異常に満ちているように見えます。しかし、同じ季節、同じ時刻、同じ設備負荷の条件で『何も起きなかった日』の対照記録がなければ、それが本当に『魔潮の下降』という数百年の周期変動に繋がる有意な異常なのか、単なる確率的な機械の個別故障なのか、誰にも証明できないのです」
グレンは反論できなかった。
彼は親友ユリウスの『未証明仮説』を信じたかった。だからこそ、無意識のうちに、友の正しさを補強してくれるような都合のよい事故記録ばかりを集め、平穏な日を箱から弾き出していたのだ。
「この箱の資料は没収しません。ただし、現時点では証拠等級IIIの私記として一時凍結します」
セラは箱の蓋をパタンと閉めた。
「まず四十八時間は、百四十七点の一次目録を暫定分類します。追跡可能と判定できた記録に紐づく地点だけ、三日目以降に再観測を順次開始する。十二日目までに作るのは結論ではありません。九十日観測へ進むための暫定要領です」
「最初の四十八時間は、現場を止めるのか?」
グレンが身を乗り出した。
「東区画の旧観測坑道には、喰魔種の痕跡や、二十三年前の欠測の手がかりが残っているかもしれない。次の低整合波がいつ来るか分からない以上、急ぐ必要がある」
「初動の現地踏査は四十八時間、止めます。旧坑道への入坑は別です。保安審査を経た七日目以降に限ります」
「急いで偏った証拠で結論を出せば、どうなりますか?」
セラの声は冷え冷えとしていた。
「不確かな推測で『魔潮が下がるから巨大な備えが必要だ』と国に報告すれば、無駄な予算が投じられ、平時の都市インフラや衛生管理が削られます。研究者が焦って出す誤った全国対策は、現場の事故よりも多くの人を殺すんですよ、ハルバート教官」
グレンは唇を噛み締めた。
危機を急ぐ現場の人間の焦りと、誤った対策を防ぐために証拠を吟味する研究者の責任。どちらも人を救うための『正しさ』であり、だからこそ真っ向から衝突する。
「調査期間中の、生徒たちの処遇についてですが」
同席していたヘレナが、静かに口を開いた。
「補完実務班の五人の仮任用は継続します。彼らが先日の波の証拠を揃えたからといって、職場を離れさせて研究手伝い専従に引き抜くような真似はしません」
「当然です。彼らの現場での評価と、環境調査は別物ですから」とセラも同意する。
「五人への聞き取りや調査協力は、勤務時間外の限定的な範囲で行ってもらいます。彼らには彼らの仕事がある」
ヘレナの宣言により、五人を都合よくスーパー調査員として使い潰す道は閉ざされた。
グレンは深く息を吐き出し、机の上の木箱から手を離した。
彼は、この箱を自分一人で『友の正しさを示す証拠』として自由に語る権利を手放す決断を下した。第三者による暫定分類と原本照会を受け入れ、初動の現地踏査を四十八時間遅らせる。旧坑道への入坑はさらに、保安審査を通した七日目以降まで待つ。その代わり、室内の照会作業は今すぐ始める。それが、彼の選んだ線だった。
「……分かった。目録作りを始めよう」
グレンは机に向かい、真新しい目録帳を開いた。
そして自らの手で、箱の底から取り出した親友ユリウス・レインの『未照会』印が押された事故記録票の束を、一番最初の項目として書き写していった。
その作業の傍らで、セラが冒頭に並べた十二枚の白紙が、不気味なほどの存在感を放っている。
「ハルバート教官」
セラが、その何も書かれていない真っ白な紙を指し示し、静かに問いかけた。
「異常があった日の記録は、あなたの箱にあります。では、同じ条件で『正常だった日』の記録は、どこですか?」
それは、都合のよい悲劇だけを繋ぎ合わせようとしていた彼らに対する、科学という容赦ない刃だった。
この白い空白を確かな観測事実で埋めない限り、彼らは永遠にユリウスの死の真相にも、来るべき大低潮の正体にも辿り着けないのだ。




