第28話 十一時四十三分の波
翌朝。夜行の実務院連絡便で北西辺境へ戻ったグレンとヘレナは、カルド分校の臨時照合室に五通の内封と『要補正』の照合用搬送封筒を並べた。再発調査権限を持つアデルも同じ便で来ている。
アデルは一通ずつ内封の所管印を切り、搬送封筒から出した速報副本と原本保管番号を照合してから、認証写し正本を広げた。北門の門番日誌。給水局の圧力・流量記録紙。治癒院の搬送票。測量隊の井戸水位紙。物流倉庫の荷札。
各正本には原本保管番号、転写担当者名、現場責任者の副署がある。グレンとヘレナが前夜に見たのは外封の副本だけで、五枚の正本へ触れるのはこれが初めてだった。
「報告書に記された異常発生の公式時刻は、十一時四十一分、四十四分、四十二分、四十五分、四十三分……見事なまでにバラバラだな」
腕を組んでそれを見下ろしていたのは、統一試験主任であり、現在は東区画事故の再発調査権限を持つアデル・クロフォードだった。
「公式欄だけなら散発的な個別故障だ。カルド側は同時性を疑っているそうだが、英雄記事も生徒の印象も証拠にはしない」
「同意します。見るのは認証写しと差分だけです」
グレンはアデルの前に、数枚の薄い紙片を差し出した。
それは配属日の朝に六人が書いた『差分控え』と、グレンが配布前日に測って時計の蓋裏へ挟んだ簡易歩度票だった。
「平時の正式時刻は魔導同期表示に出ます。ですが五件とも、その表示自体が停止または欠測したため、速報欄には規程どおり独立した壁の機械時計が転記されました。機械時計は日常的に一、二分ずれます。認証写しの余白にあるのは、携帯ばね時計の生時刻です。朝の鐘との差は、リーゼがプラス十秒、フィオナがプラス二秒、マリエルがマイナス三秒、ノエルがマイナス五秒、バルトが差なし。符号を逆にして戻します」
「……なるほど。鐘そのものの絶対誤差ではなく、六人が同じ朝の王都中央広場の機械鐘との差を控えたことを共通基準にするわけか」
アデルは五枚の余白を先に確かめた。どの現場も、『停止初認』『対応開始』『復旧または安全確認』を別の欄にしている。十七秒窓の照合に使うのは、最初の欄だけだった。判断が遅れた時刻や復旧時刻を混ぜれば、同時性は作ることも壊すこともできる。
アデルは用紙に計算を書いた。
『リーゼ、生時刻四十三分二秒-十秒=四十二分五十二秒』。
『ノエル、生時刻四十二分五十六秒-(マイナス五秒)=四十三分一秒』。
前日の歩度を当日の三時間余りへ当てはめても、追加誤差は全て一秒未満だった。秒表示は動かさず、残る三人も同じ式で戻した。
グレンはさらに、王都連絡所で作った『未送信遠話記録』を六枚目の照合軸として机に置いた。彼自身の携帯時計は鐘より六秒進み、連絡所の壁時計は一分二十四秒遅れていた。
「……計算が終わった」
アデルがペンを置き、補正後の時刻一覧を指で叩いた。
「北門、十一時四十二分五十二秒。給水局、四十二分五十八秒。測量地、四十三分〇一秒。治癒院、四十三分〇四秒。物流倉庫、四十三分〇九秒。そして王都連絡所の遠話不通が、四十二分五十八秒」
アデルの低い声が、静まり返った照合室に響いた。
「五つの現場と王都連絡所で、機器の停止開始または初認の補正時刻が、『十一時四十二分五十二秒から四十三分〇九秒』の十七秒に収まる」
十七秒は波の継続時間ではない。北門では九秒、測量地では十八秒と、影響時間は地点ごとに違う。揃ったのは、機器停止の開始または初認の時間帯だった。
各認証写しには、所管が整合紙帯から読んだ最低値、継続秒数、停止設備の範囲を記した復帰票も付いていた。北門はC二十未満でも九秒で継続不足。給水局はC二十未満が十三秒続き、西系統一帯へ及んだ。治癒院は十一秒だが外来棟内に限られる。測量地は十八秒続いてもC二十の線を下回らない。南物流組合はC二十未満が十四秒、第一から第五棟まで、最遠棟間約百八十メートルに及んでいた。
添付された報告書によれば、各現場で発生した魔導灯の脈動や、同期器の唸り、観測針の不規則な振れ方も、東区画での事故と酷似している。
「偶然の個別故障とは言えないわね」と、分校長のヘレナが書類を見つめた。
「ああ。実は昨日、同時刻帯に他の区画からも、魔導灯が一瞬揺れたといった軽微な報告は口頭でいくつか上がっている」
アデルの言葉に、グレンは小さく頷いた。
五人の配属先だけが選ばれたわけではない。ただ、朝の時計差分、原本保管番号、残った物理結果、責任者の副署まで追えるのが、この五件だった。
「ただし」とアデルは釘を刺すように言った。
「行政基準である『最低整合度C二十未満、継続十秒以上、影響径百メートル以上』を全て満たし、正式に《局地空白》と判定されるのは、給水局と南物流組合の二地点だけだ。倉庫は第三棟の吊り荷事故だけでなく、第一から第五棟の復帰票が同時停止を示したため範囲条件を満たす。北門は継続時間不足、治癒院は影響範囲不足、測量地は低下量不足で、行政上はただの瞬断として扱われる」
「各現場が、別々の設備故障として所管へ上げたこと自体は?」
「規程どおりだ。生徒の判断遅延や誤指示とは、別の問題になる」
アデルは五枚の認証写しを揃え、自分の調査書の上へ置いた。
「私の暫定結論はこうだ。『同じ低整合波が、少なくとも五地点を通過した蓋然性が高い』。波が発生した原因、再発の周期、そして喰魔種との因果関係については、現時点では証明不能につき保留とする」
アデルは『保留』の二文字へ二重線を引き、欄外にも同じ語を書いた。
「感謝するわ、アデル主任」
ヘレナが口を開いた。
「ただし、彼らが波の証拠を集めたからといって、私は五人の仮任用評価に自動で加点したりはしないわ。環境調査の貢献と、彼らが現場で起こした誤指示や遅延という実務上の評価は、厳密に分離して扱うべきよ」
「当然だ。私も、これで彼らを英雄扱いするつもりはない」
グレンは二人の区分に頷いた。五人の失敗は、証拠を残した功績では消えない。
グレンは黙って照合室を出ると、教官室の奥の棚から、ホコリを被った古い木箱を抱えて戻ってきた。
ドン、と机の上に置かれたその箱の中には、彼がこれまで実地基礎の授業教材として個人的に収集してきた、辺境を含む地域別の古い『魔導停止記録』の束がぎっしりと詰まっていた。
「……ハルバート教官。それは?」
「俺の私的記録だ。二十三年前の欠測事例も含まれている」
グレンは、親友ユリウスが死んだ落盤事故の記録票を取り出した。ほかの紙より角が柔らかい。二十三年の間に、何度も開いては箱へ戻した跡だ。日付の横には、グレン自身が押した赤い『未照会』の印が残っている。
ユリウスの『魔潮の下降』は、標本地域に偏りがあり、時期予測も外れた未証明の仮説だった。予言として広めず、停止に備える基礎だけを教える方が損は少ない。その判断は今も変わらない。だが、各地の停止記録を私的教材のまま横断照合へ出さなかったのも、グレン自身だった。
彼は『未照会』の印へ親指を置き、記録の束をアデルへ押し出した。
「これを、王立魔力環境局への正式な外部照会に回してくれ」
「……いいのか? これを出せば、君の個人的な収集記録だけでなく、このカルド分校の教育方針そのものが、王都の研究者たちから厳しい監査と批判の目に晒されることになるぞ」
「疑う根拠が六つに増えた。今までと同じ扱いにはできん」
グレンの決断を受け、ヘレナが素早く環境局への正式な照会状を作成し、遠話器の伝信用魔導管へ通した。
数十分後。
環境局から、短い返書が送られてきた。
差出人は研究官セラ・オルテ。彼女は前日、北門と給水局の抄録から原本保全と認証写しの提出を求めていた。
『カルド分校からの照会記録および認証写しを受領。ただし、現時点で仮説の同一性は未確認。翌日、当職がカルド分校へ赴き、原本保管先を含め照合する』
文面は事務的で、冷え冷えとしていた。
セラは記録を信じるためではなく、疑うために来る。その方が、グレンにはありがたかった。
「……来るか」
グレンはセラの返書を机の上に置き、その横にある古い木箱の蓋をパタンと閉めた。
「もう、俺の授業だけで扱う量じゃないな」
グレンは古い箱へ手を置いたまま、セラの返書をもう一度読んだ。




