第30話 箱の中にない日
カルド分校の資料室には、カビと古い紙の匂いが充満していた。
机の上に広げられたのは、グレンが二十年以上にわたって収集してきた百四十七点に及ぶ魔導停止記録の束だ。
王立魔力環境局の研究官セラ・オルテは、その中で最も分厚く纏められている「王都東部・第三観測所」の記録の束をパラパラと捲り、静かに机へ置いた。
「ハルバート教官。あなたの集めた資料は、箱の中の一番厚い束ほど、同じ場所の平穏な一年が丸ごと抜け落ちています」
セラの指摘は、前日の会話の繰り返しであり、同時に決定的な事実の確認だった。事故が起きた日の記録だけがピンポイントで抜き出され、一次目録の外には、まだ百を超える照会不能な空白期間が横たわっている。
グレンは腕を組んだまま、何も言い返さなかった。
「作業を続けましょう」
セラは環境局の書記を促し、グレンを交えた三人で、百四十七点の記録を物理的な三つの山へ分け始めた。
分類の基準は明確だ。『原本追跡可』『規格不一致』、そして『伝聞』である。出所が曖昧な手記や新聞の切り抜きは、機械的に「伝聞」の山へ分けられていく。
「……二十一年前、王都東部の山間部で起きた魔導具の一斉停止記録。これは当時の定期輸送便の御者が書き残した日誌の写しだ。一次資料とは言えないか」
グレンが一枚の紙を「伝聞」の山へ置こうとした時、セラがそれを手で制した。
「待ってください。その日誌に、輸送便の所属と当時の運搬番号は記載されていますか?」
「ああ。南物流組合の第四便、荷札の追跡番号は〇四の七七番とある」
「なら、裏が取れます。物流組合の台帳保管期限は五十年です」
グレンは即座に壁の遠話器へ向かい、南物流組合の第三倉庫で仮任用中のバルト・エッガーを呼び出した。
『……ああ、教官か。少し待ってくれ、今台帳を繰る』
数分後、遠話器の向こうからバルトの太い声が返ってきた。
『あった。二十一年前の〇四の七七番。確かに実在した公的輸送便だ。台帳の特記事項に「山間部にて原因不明の荷役補助停止。半日の遅延」と残ってる。こっちの記録と、そっちの日誌の時刻も一致したぜ』
「分かった。助かる」
グレンは通信を切った。バルトが行ったのは、ただ現場の台帳と番号を突き合わせただけだ。彼は研究的な判断には一切加わっていない。だが、その純粋な実務者としての裏付け作業が、ただの「伝聞」を「追跡可能な原本」へと引き上げた。
二日目の夕刻まで続いた仮分類の末、机の上には残酷な結果が残された。
「日付、地点、そして出所まで原本の追跡経路を設定できたのは、百四十七点中、八十三点です」
書記が読み上げる。半分近くが弾かれた。
「さらに」とセラが事務的に引き継ぐ。
「その八十三点の中で、当時の測定規格が判明しており、我々が原本の追加照会に耐えうると判断したものは、わずか二十四点です」
二十四点。それが、グレンの二十年間の集大成だった。
グレンの眉間が深く刻まれる。だが、セラはその二十四点を「魔潮の下降」を証明する決定的証拠だとは言わなかった。
「勘違いしないでください。私は学界の保身のためにあなたの記録を捨てたのではありません。この二十四点も、古い規格と現在の規格の差があり、欠測も含まれています。これをいきなり魔力密度(M値)の数量比較の結論に使うことはできません」
「では、何に使う」
「傾向の把握と、我々が次に再観測を行うべき地点を選ぶための『候補』です」
使える範囲を狭く定義し、飛躍を許さない。それが専門家としてのセラの誠実さだった。
「もう一つ、整理しておくべき事実があります。ユリウス研究員の残した『十五年から四十年後』という発生時期の予測についてです」
セラは環境局の照会台の横にある黒板へ向き直り、白墨を取った。
「十五年から四十年という広い留保はありますが、彼の式が最も高い確率を置いた中心年は、事故からおよそ十八年後でした。現在は二十三年後です。しかも中心年の前後で、式が必要条件とした低下幅は観測されていない。幅の内側に現在が入っていても、中心時期と変化量の双方を外したという精度不足の評価は覆りません」
友の残した計算式は、完璧ではなかった。
「その上で、現在我々の前には三つの対立仮説が存在します」
セラの白墨が、黒板に三つの行を書き出した。
『A:設備・系統故障』
『B:喰魔種の局地摂食』
『C:魔潮下降と低整合波』
「これらはどれか一つが絶対の正解というわけではありません。相互排他的ではなく、『どの範囲の異常までを説明できるか』を競わせるべき作業仮説です」
セラは黒板を叩いた。
「先日の十七秒窓で起きた五現場の事故。仮説Aの『設備故障』では、共通の同期網に接続されていない独立した時計や、遠隔地の深度井戸の同時傾向までは説明できません。そこで仮説Cの『魔潮下降』や仮説Bの『局地摂食』の可能性が浮上してくるわけです」
ユリウスの『魔潮の下降』仮説は、絶対の真理から、反証され得る三仮説の一つへと降格した。
グレンは腕を組んだまま、黒板を睨みつけた。「友も誤った」という事実を受け入れきれず、彼の感情が抵抗を見せる。
「……だが、ユリウスが残した『喰魔種は深層の魔力不足から逃れ、高魔力側へ移る。すなわち南東へ移動する』という生態と経路の移動図。あれだけは、俺が辺境で見てきた怪物たちの動きの感覚と合致している。あれは正しいはずだ」
グレンの強い言葉に対し、セラは首を横に振った。
「それについても、現時点では保留とします」
「なぜだ」
「生物が餌の勾配を追うという原理自体は支持できます。しかし、それが『南東へ向かう』という固定された地図上の結論については、現在の王都における都市魔導核の拡張配置図を重ね合わせるまで、いかなる評価も下せません。二十三年前の南東の魔力勾配が、現在も維持されているという保証はどこにもないのです」
グレンの現場での経験則と、教育教材としての成功。それが、研究上の「偏り」と「思い込み」として次々と反転し、撥ね除けられていく。
「異常が起きた日の記録だけでは、仮説を証明することはできません。我々が次にすべきは、異常日の隣に、同季節、同時刻、同負荷の条件下で『何も起きなかった非発生日』の記録を置くことです。対照日を置くことで初めて、本当に魔力密度の基線が低下しているのか、ただの通常変動の揺れなのかを切り分ける再調査計画が立ち上がります」
グレンは深く息を吐き出し、目を閉じた。
焦って友の名誉を回復したいという誘惑。それを断ち切り、彼は「偏りのある資料しか集められなかった自分」を認め、厳しい科学のルールに従う決断を下した。
「……分かった。計画を進めよう」
グレンの言葉を聞き届け、セラは一次目録の隣に、これからの調査スケジュールを書き込むための真っ白な暦表を引き寄せた。
彼女はペンにインクを浸すと、その最も上の余白に、一切の感情を交えない整った筆跡で最初の見出しを書き込んだ。
『無事だった日』
それは、偏った過去と決別し、確かな事実だけを積み上げ直すための、残酷で誠実な第一歩だった。




