第21話 十一時四十五分・西郊測量地
「第一層、石灰岩の反応クリア。第二層への魔力浸透よし。波形は安定している。一号杭の打ち込み準備」
王都西郊の地脈測量地で、隊長イヴァン・セリの的確な指示が飛んだ。
この一帯は、新たな巨大商業施設が建設される予定の更地だった。地中に魔力を流し込み、その反射を読み取ることで地下の空洞や水脈、断層の有無を調べるのが、王立魔力環境局から委託を受けた彼ら測量隊の仕事だ。
イヴァンは測量器の波形が一度折れるたび、石灰岩、水脈、古い盛り土と地層名を答えた。隊員が試掘記録を開くと、その判断は一つずつ一致している。ノエルは古井戸の計測を任され、隊列の端へ回った。
「ノエル。お前は引き続き、東端にある古井戸の水位計測と、環境音の記録を頼む」
「……はい」
魔力感知が完全に欠落しているノエルは、高価な魔導器に触れさせてもらえなかった。彼に与えられたのは、一時間おきに井戸へ重り付きの紐を垂らして手作業で水位を測ることと、周囲の風や虫の音を紙の点検表に書き留めるという、誰も見ないような裏方作業だけだった。
チカッ。
ノエルが井戸の縁に屈み込み、紐を引き上げようとした時だった。
周囲の空気が僅かに揺らぎ、秋虫の声が一斉に止まった。魔導測量器の針は十八秒ほど不規則に跳ねたが、やがて安全域へ戻る。
ノエルはその最初の跳ねを見た時刻を、携帯時計で『十一時四十二分五十六秒』と控えた。
「警告判定なし! 測量器は安全域に復帰。第一地点、判定上は継続可能。一号杭、打て!」
イヴァンの号令を受け、隊員たちが巨大な木槌を振り上げ、地盤の安全を示す一号杭を打ち込む準備に入る。
だが、ノエルは水面へ触れさせたままの重りが、指先でふっと重くなるのを感じた。浮力が抜けたのだ。目盛り紐の水面位置が、見ている前で目盛り二つ分沈んだ。
引き上げると、一時間前の濡れ線との差は合わせて一寸弱ある。井戸底から湿った土の匂いが上がり、朝にはなかった細い湿り筋が、井戸の縁から二号杭の予定地へ伸びていた。虫も鳴き戻らない。
(……おかしい。井戸の水が急に減ってる。虫も黙ったままだ)
報告しなければ。ノエルの口が半開きになる。
だが、声は出なかった。
『警告判定なし。判定上は継続可能!』
先ほどのイヴァンの声が、ノエルの喉を塞いでいた。
魔導器の公式判定は、作業継続が可能な安全域を示している。たった一寸の水位低下など、近隣の工場が地下水を汲み上げただけかもしれない。虫が鳴き止んだのも、偶然強い風が吹いたからかもしれない。
もし、自分のこの不確かな勘で「止めてください」と言って、高価な測量作業を中断させたら。それがただの勘違いだったら、自分は隊長にも、見学に来ている依頼主の商人にも激しく怒鳴られ、軽蔑されるだろう。
間違えたくない。無能だと思われたくない。
ノエルは懐から携帯時計を取り出し、秒針を見つめながら、ただ黙り込んでしまった。
一分経過。虫は鳴かない。
二分経過。隊員たちが杭を支え、木槌が振り下ろされる。
ドスゥン! という重い音と共に、一号杭が地面に深く打ち込まれた。沈黙の間に、取り返しのつかない既成事実が一つ作られてしまった。
「次、二号杭! 魔導器は判定上クリア、三メートル先へ移動しろ!」
隊員たちが二本目の杭を持ち上げ、ノエルが「水が減った」と睨んでいた地点のすぐ真上へと移動していく。
携帯時計の秒針は、ノエルが口を噤んでから『二分十四秒』の経過を示していた。
ノエルは、時計を握りしめる自分の手が微かに震えているのを見た。
統一試験の林で、鳥の声が減ったと気づきながら黙り、一号罠を踏ませた時の恐怖。
『確信がない推測を黙るか、逆に事実のように断定して言うか。必ず観察事実、推測、確信度を分けて報告しろ』
グレンの声が、二分十四秒の呪縛を叩き割った。
「待ってください!!」
ノエルの声が、西郊の野原に響いた。
木槌を振り上げていた隊員の手が止まり、イヴァンが眉をひそめて振り返る。依頼主の商人も怪訝な顔をした。
「どうした、アッシュ。警告判定は出ていないぞ」
「魔導器はクリアでも、環境が異常です!」
ノエルは井戸から引き上げた紐を握りしめ、イヴァンに向かって走った。
「事実。重りの浮力が目の前で抜け、水面が目盛り二つ分下がりました。一時間前からの低下は一寸弱。井戸から二号杭予定地へ新しい湿り筋が伸び、虫も二分以上鳴き戻りません」
ノエルは自分の手元の書類板を開いた。そこには、事実、推測、確信度の欄が明確に分けられた報告紙があった。
「推測。二号杭の真下、地下の地脈へ急激に水が抜けている空洞があるかもしれません」
「空洞だと? だが測量器には何の反射も……お前のその予測、確信はどのくらいだ」
「五割です」
ノエルは断定しなかった。嘘をついて百パーセントだと言い切ることもせず、逃げることもせず、五割という中途半端な、しかし偽りない数値を隊長へ叩きつけた。
依頼主の商人が鼻で笑った。
「待ってくれ、隊長。今日中に基礎杭の位置を決める契約だ。五割の推測で止めるなら、延期費用と安全根拠をこちらへ説明してもらう」
だが、イヴァンは商人の言葉を無視し、ノエルの報告紙と、手元の魔導測量器を数秒間だけ交互に見比べた。
そして、短く息を吐いた。
「二号杭、待機。全員下がれ。手動の打診ハンマーを持て」
イヴァンは五割で中止を決めた。
「延期の損は金で払える。空洞を踏み抜いた損は、人の数で払うことになる」
依頼主へそう告げ、自ら打診槌を取った。
イヴァンが自ら重い鉄のハンマーを持ち、二号杭を打とうとしていた地面を直接叩く。
カン、カン、ゴンッ……。
三度目の打撃音は、明らかに硬い岩盤のそれとは違う、下へ抜けるような嫌な反響音を返した。
「……浅い層に、何かあるな」
イヴァンの顔が険しくなった。それが自然の空洞か、古い排水路か、手動の打診だけでは原因も広さも確定しない。ノエルの推測は、危険の可能性までしか裏づかなかった。
だが、安全が担保できない以上、これ以上の作業は不可能だった。
「本日の測量は中止だ! 魔導器の観測値には乱れが混じった可能性がある。今日の記録は採用しない!」
「ふざけるな! 一日分の費用をどうしてくれるんだ!」
商人が顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
イヴァンはその怒声を正面から受け止め、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。ですが、崩落の危険がある以上、これ以上の作業は私には許可できません。本日の違約金等の責任は、すべて隊長である私が負います」
ノエルは唇を噛み締めた。
自分の二分十四秒の遅れが、あるいは五割の報告が、隊長に多大な責任を背負わせてしまった。
「隊長、すみません。僕がもっと早く……」
「お前が謝るな」
依頼主が帰った後、機材の片付けをしながらイヴァンが低い声で言った。
彼はノエルの書類板から報告紙を引き抜いた。
「五割で現場を止めた責任は、隊長の俺にある。お前は五割の根拠を出した。それがお前の仕事だ」
イヴァンはそう言うと、ノエルが書いた報告紙の最下段、『中止責任者』の欄に、自らの名前を力強い筆跡で書き込んだ。
イヴァンは礼を言わなかった。ただ、中止責任者の欄を空けなかった。
西郊測量地には、採用されなかった観測紙と、水位の下がった井戸、一本だけ打たれた杭が残った。
現場の公式時計は、『十一時四十五分』を指していた。
ノエルは書類板の報告紙へ、ペンを走らせる。
『測量器異常初認:携帯十一時四十二分五十六秒。安全域復帰:十一時四十三分十四秒。中止進言:十一時四十五分十秒。沈黙二分十四秒。確信五割』
ノエルは消し砂を使わず、その下へイヴァンの署名を残した。




