第20話 十一時四十二分・治癒院
王都治癒院の外来処置室は、朝から野戦病院のような忙しさだった。
「次。胸の痛みね。診断枠を通って」
救護主任のロザ・ヘルムが、的確で無駄のない声を張り上げる。
患者がアーチ状の『魔導診断枠』を潜るより早く、ロザは顔色と歩幅で二人の順番を入れ替えた。表示板に脈拍、呼吸、血圧、炎症部位が浮かぶと、治癒補助具と自身の治癒術を使い分け、次の患者へ手を振る。
平時なら、紙札を手で並べ替える前に診断と処置が進んでいく。
「ノース。三番ベッドの包帯を替えて、家族に術後の説明を」
「は、はい!」
マリエルはロザの指示に追いつくのが精一杯だった。東区画で使った圧迫や保温は、最新の魔導医療が動く処置室では古い鞄の底へ戻ったように見えた。
その直後、ロザは容体の崩れた患者に呼ばれ、奥の重処置室へ入った。外来列の前にはマリエルだけが残る。
午前中の喧騒を、短い明滅が断ち切った。
チカッ。
診断枠の縁を走る光が十一秒ほど乱れた。精密な位相制御を使う診断枠と治癒補助具は異常を検知し、一斉に安全停止へ落ちた。
「……え?」
「診断枠が落ちたぞ! なんだ、いきなり!」
表示板の光が消え、処置室に不安な声が広がる。
マリエルは患者から手を離し、懐からグレンに渡された携帯時計を取り出した。
秒針が動いている。魔力供給の瞬断なら、すぐに予備回路が作動して再点灯するはずだ。マリエルは時計を見つめたまま、ただ「魔法の復旧」を待った。
だが、安全確認術式が一巡するまで、診断枠は最低でも六分間再起動しない。
マリエルが時計の秒針を追いかけ、二十三秒間、ただ突っ立っていたその時だった。
「すみません! 正門前の階段で転倒した通院者がいます、頭を打って意識が混濁しています!」
「院内の薬品倉庫で荷崩れです! 下敷きになった助手が二名、打撲と出血!」
外から、新たな負傷者が次々と運び込まれてきた。
診断枠が消えた瞬間、患者の列は「到着順」から、重症度に応じた「呼吸・出血・体温の列」へ直ちに並び替えられなければならない。
なのにマリエルの手は、時計を握りしめたまま完全に止まっていた。
「あんた、白衣を着てるんだろう」
唐突に、しゃがれた厳しい声がマリエルの鼓膜を打った。
声の主は、通院の待機列に座っていた腰の曲がった老婆だった。エダ・モーン。第一線は退いているが、かつては王都で長く助産師を務めていた女性だ。
エダは、マリエルの横の机に積まれた白紙の搬送票を指差し、ただ一言だけ言った。
「魔法を待つ間、あの怪我人たちに毛布は誰が配るんだい?」
エダは自分で毛布を取りには行かず、マリエルを見た。
マリエルは時計から目を離した。診断枠を待った二十三秒の間にも、患者の体温は奪われ、出血は続いている。
「……っ!」
マリエルは白紙の札を掴み、新たに運び込まれてきた患者たちの元へ走った。
魔法の光は出ない。彼女は患者の首筋に指を当て、脈を診て、皮膚の温度を直接その手で感じ取った。
意識、呼吸、出血、体温低下。
この四つの項目だけで、患者を色分けした紙札を胸元に貼っていく。治癒術の代替ではない。限られた人員で誰から処置するかを決める、再起動までの『順番決め』だ。
「この患者は気道が詰まりかけています! 赤札!」
マリエルの声に、別室から駆けつけたロザがすぐにその患者を引き受けた。
だが、ロザはマリエルが貼った別の紙札を一瞥すると、鋭く言った。
「ノース、こっちの薬品を被った助手の『低体温判定』のほうが優先よ! 順番を一つ上げなさい。皮膚表面の温度だけでなく、震えの兆候を見落としているわ」
「あっ……申し訳ありません!」
マリエルはすぐに札を貼り替えた。
自分の紙選別がすべて正しかったわけではない。経験豊富な主任の医学判断のほうが遥かに正確だ。マリエルは自分の未熟さを噛み締めながら、修正された優先順位に従って処置の準備を進めた。
「おい、あんた! 俺は一時間も前から肩が外れて痛いんだぞ! なんで後から来た奴ばかり先に診るんだ! 早く魔法で治してくれよ!」
順番を後回しにされた、肩を脱臼している患者が怒鳴り声を上げた。
マリエルは胸が締め付けられる思いだった。彼の痛みは本物で、仕事を休んで来ている以上、一刻も早く治してほしいのは当然の権利だ。
「申し訳ありません。現在、魔法の補助装置が一時的に停止しています。生命に関わる呼吸と出血の患者様を優先し、肩の整復は装置が復旧次第、あるいは順番が来次第、物理的な処置で――」
「理屈はいいから、この痛みをどうにかしてくれって言ってんだよ!」
選別が正しくても、肩の痛みは消えない。マリエルは患者の怒声から目を逸らさず、順番と今できる固定を説明し続けた。
ふと視線を横に向けると、エダがマリエルの選別した搬送票の余白に、備え付けの炭で何かを描き足していた。
それは、四角い布のマークや、水滴のマーク、そして座って待つ人の簡単な『絵印』だった。
「エダさん、それは……?」
「文字が読めない家族でも、何をすればいいか一目で分かるようにさ。毛布が必要か、水を飲ませていいか、ただ待つべきか」
エダは気難しそうな顔のまま、手を動かし続けた。
マリエルはその絵印の横に、自分の携帯時計を見て『三分おきに再確認』と書き込んだ。一度選別して終わりではない。待たせている患者の容体が急変しないか、誰が戻って確認するかを明確にするためだ。
数分後。
エダの書き足した絵印を見た幼児の母親が、迷うことなく処置室の隅から毛布を取り出し、震える子供の体を包み込んだ。
母親はすれ違いざま、マリエルに向かって短く頭を下げた。
「あの、毛布の印、助かりました。ありがとうございます」
「……いいえ。私は、治したわけではありませんから」
マリエルは静かに首を振った。
少し離れた椅子では、肩を脱臼した患者がまだ恨めしそうにこちらを睨んでいる。
礼を言う母親と、睨む患者。どちらも搬送票から消せない。最初の二十三秒も同じだった。
診断枠の時刻表示は『十一時四十二分』で凍っている。その上の機械時計だけは、魔導具の停止と関係なく針を進めていた。
エダが、マリエルの手の中にある携帯時計をひょいと覗き込んだ。
「そっちは四十三分一秒。次は四十六分一秒だね」
「……はい。三分おきですから」
マリエルは搬送票の余白を三つの欄に分けた。
『診断枠停止初認:携帯十一時四十三分一秒。紙選別開始:十一時四十三分二十四秒。魔法待ち二十三秒』
『患者再確認:十一時四十六分一秒。診断枠の再起動予定最短:十一時四十九分一秒』
再起動予定は安全確認術式が滞りなく一巡した場合の最短であり、復旧確認そのものではない。
彼女はもう、診断枠の止まった表示を見て、魔法の光が戻るのを待つことはしなかった。




