第19話 十一時四十四分・給水局
狂ったように左右へ振れる圧力計の針が、都市の悲鳴を代弁していた。
都市給水局・西系統の地下制御室。上層区へ水を押し上げる太い鋳鉄管がギリギリと軋むような音を立て、逆に下層区へ続く配管からは、蛇口が空気を噛んでむせるような咳き込み音だけが響いている。
管路の圧力は崩れていた。複数の弁を一度に動かせば、水槌が管を内側から叩き、継ぎ手の破裂を早める。
「……こんなの、どうすればいいの」
給水局へ仮任用されたフィオナ・セイルは、明滅する魔導灯の下で、目の前の複雑な制御盤と無数の手動弁を見比べ、完全に立ちすくんでいた。
朝、フィオナは西系統の設備責任者ガルム・ヘイズから、管路の基礎を叩き込まれていた。
ガルムは魔術師ではない。管を拳で叩き、返る音だけで、その先が浴場か病院かを言い当てた。
「いいか、新人。平時の水圧は中央の『大術式環』が自動で計算して各所の魔導弁を開閉しているが、それと並列して物理的な手動弁も存在している。自動制御が予測を超えた動きをした時、どの手動弁を絞ればどの区画の圧が下がるか、常に頭へ入れておけ」
ガルムは盤面を見なくても、床下の管がどの街路へ分かれるかまで答えた。フィオナには、魔力量では埋められない差だった。
チカッ、と魔導灯が脈打った。
十三秒ほど、同期盤の三本の針が互いに矛盾する方向へ跳ねた。表示が戻った後も、西二号管には圧を上げる『開』、下層幹線には水を止める『閉』の命令が残っている。
「過圧警報! 西二号管の圧力が急上昇しています!」
「自動弁の制御が死んでるな」
警告音が鳴り響く中、ガルムは盤面を一瞥し、即座にフィオナへ振り返った。
「新人! 朝渡された携帯時計を出せ!」
「えっ? は、はい!」
「今の圧の上昇率なら、発生から九十秒で継ぎ手が限界を迎えて破裂する。秒針を見ろ。時間を計るんだ!」
フィオナは慌てて懐からばね時計を取り出した。
カチ、カチ、カチ。秒針の音が、東区画の暗闇を思い出させた。何も点けられずに立ち尽くした時間だ。あの時に役立てなかった自分を、ここで取り返したかった。
(九十秒……。私が何とかしなきゃ。私なら、大術式環に直接魔力を流し込んで、全域の制御を強制的に上書きできるかもしれない!)
手は、三つの手動弁ではなく中央の大術式環へ伸びた。大きな術で一度に取り戻したい。その癖は消えていなかった。
彼女は時計を持ったまま、もう片方の手で中央の大術式環の制御盤へ触れた。己の内在魔力を練り上げ、狂った位相の海へ無理やり同期の楔を打ち込もうとする。
だが、乱れた外部魔力へ彼女の少ない内在魔力を注いでも、巨大な制御環は沈黙したままだ。圧力計の針だけが上がっていく。
「っ……動いて、お願いだから……!」
無為な時間が流れる。十秒。二十秒。三十秒。
その間、ガルムは盤面から離れ、床下の逃がし弁の音と振動を確かめて、どの枝管を殺すか絞っていた。振り返った時、フィオナの手はまだ中央環にあり、圧力針が二段目の赤線へ触れかけていた。
「退けェッ!!」
ガルムの怒声と共に、ドンッと肩を突き飛ばされた。
フィオナが尻餅をついた時には、発生から『三十四秒』という致命的な時間が浪費されていた。
「今は復旧する時じゃない! 破裂を止めるのが先だ!」
「でも、そうしたら都市の水が……!」
「全部は救えん! 俺が切る場所を決める!」
ガルムは薄暗い室内で目を細めた。魔導灯の光も不安定に明滅し、計器の正確な数値や壁の配管図が見えなくなっている。
「新人、明かりを出せ! ただし全部を照らすな。俺が言う場所だけを照らせ!」
「……はい!」
フィオナは弾かれたように立ち上がり、杖を構えた。
全域を救う大魔法ではない。彼女が訓練を重ねた、一用途の小術。体内の魔力だけを燃やして、小さな光の球を生み出す。
低魔力の彼女にとって、空白下での小術の連続使用は体に大きな負担をかける。
「まずは第二主配管の圧力計!」
「灯します!」
フィオナの光が、小刻みに震える圧力計の針を照らした。安全限界の赤い線まで、あと僅か。
それを見たガルムは、苦渋の決断を下した。
「……病院幹線と飲用水のラインは残す。だが、浴場、染色工房、そして清掃用の枝管は二時間止める。手動閉鎖だ」
それは、都市の便益の一部を明確に切り捨てる、設備責任者としての重い決断だった。
「四番、七番、十二番の弁を閉めろ! 急げ!」
フィオナは杖の光を弁の番号札へと移す。一つ、二つ。
三つ目の光を灯した時、限界を超えた魔力消費によってフィオナの手に激しい震えが走った。
「四番、七番、十二番を閉鎖します!」
フィオナは復唱しながら、一番近くにあった四番のバルブへ飛びつき、渾身の力でハンドルを『左』へ回そうとした。
焦りと手の震えによる、致命的な左右の誤認。
「馬鹿野郎、そっちは『開』だ!! 右へ回せ!!」
ガルムの鋭い確認の声が飛び、フィオナの動きが間一髪で止まった。
ハッとしてハンドルを右へ回し直す。重い金属の摩擦音が響き、管を流れる水の勢いが物理的に遮断される。七番、十二番と連続して閉め終えた。
「圧力、低下します!」
フィオナの小灯が、再び圧力計の針を照らす。
赤い危険線に触れる寸前だった針が、ゆっくりと安全圏へ向かって下がり始めた。
フィオナが左手に握りしめたままの携帯時計の秒針は、発生から『七十三秒』を指していた。安全限界の九十秒まで、残りわずか十七秒。
実害の前に修正できた。破裂は防いだ。だが、フィオナが最初に大術式環へしがみついて浪費した三十四秒がなければ、ガルムはもっと余裕を持って、別の枝管を救う選択ができたかもしれない。
シューゥゥ……という、管内の圧が抜ける低い音が地下室に満ちていく。
だが、安堵の時間は一瞬だった。
『おい、給水局か! 第三浴場だが、いきなり水が止まりやがったぞ!』
『こっちは西区の染色組合だ! 染料を洗い流す途中で水が切れて、今日仕込んだ布が全部斑だ! どう責任を取ってくれる!』
壁に設置された連絡用の遠話器から、次々と激しい苦情と怒号が飛び込んできた。
全市復旧はできなかった。浴場では客を帰し、染色工房では洗い切れなかった布が斑に染まる。破裂を防いだ代金は、別の帳簿へ残った。
「……すみません」
フィオナは、煤と油で汚れた手を震わせながら俯いた。
ガルムは遠話器の受話器を取り上げ、苦情に対して淡々と「設備異常による緊急の限定給水だ。二時間後に復旧する」とだけ事務的に答えて切った。
「謝る暇があるなら、記録を残せ」
ガルムはそれ以上フィオナを責めず、計器盤の下から吐き出された圧力・流量の複合記録紙を顎でしゃくった。
公式時計の『十一時四十四分』付近で、上段の圧力線は危険域へ鋭い山を作っている。三本の手動弁を閉じた後、下段の流量線が落ち、低い位置で平らになった。
フィオナは震える手でペンを握り、その複合記録紙の余白に、自分自身の失敗を刻み込んだ。
『同期盤異常初認:携帯十一時四十三分〇秒。大術式環断念・手動対応開始:十一時四十三分三十四秒。危険圧解除:十一時四十四分十三秒。判断遅延三十四秒』
記録紙に感謝の欄はない。フィオナは悔しさに唇を噛み、顔を上げた。
薄暗い盤面で、守った病院幹線の圧力計だけが、安全帯の中央を指していた。




