第15話 東区画十八名で帰る
深い暗闇の中で、微かに空気が変わるのを感じた。
発生からおよそ二十七分。谷を沈めていた魔力の底が、わずかに浅くなり始めていた。《鉱殻喰い》が中継核から逸れたことで、近くの魔力が削られ続ける状態は止まった。だが、空間の整合はまだ戻らない。
「魔力が……戻ってきてる!」
中央校の生徒の一人が歓声を上げ、手元の魔導具を起動しようとした。
だが、魔導具は赤い警告光を二、三度瞬かせただけで、再び沈黙した。
「駄目です。密度は戻りつつありますが、魔力の波長がバラバラに乱れきっている。大術式も通信も、まだ安全には使えません」
別の生徒が絶望的な声で報告する。
魔力は戻っても、世界は元通りにはならない。そして何より、彼らの目の前に立ち塞がる『歪んだ鉄扉』という物理的な現実は、魔力が戻ろうが戻るまいが、一ミリも変わりはしなかった。
「退路が……これじゃ、ここから出られないじゃないか」
重傷者を背負った生徒が、崩れ落ちるように膝をついた。
雨に濡れた衣服と、極度の緊張による疲労。重傷者たちの体温は刻一刻と奪われており、保温の限界が近づいている。このままここで救助を待てば、確実に死者が出る。
リーゼは胸ポケットの『三項目カード』を強く握りしめた。
生存、人数、退路。
退路がないなら、作るしかない。彼女は大きく息を吸い込み、振り返った。
「バルト! この扉、こじ開けられる!?」
以前のリーゼなら、大柄な彼を単なる『力仕事要員』として扱い、「力任せに押して」と指示していただろう。だが今の彼女は、彼を現場作業の『専門家』として頼っていた。
バルトは太い指で歪んだ鉄扉の隙間をなぞり、岩壁との噛み合わせを確認した。
「……蝶番は生きているが、岩の圧力で枠全体が鉤形に曲がっている。力任せじゃビクともしねえ」
「どうすればいい?」
「梃子を使う。扉の隙間に太い丸太をねじ込んで支点を作り、さらに手持ちの滑車とロープを組み合わせて、全員で一方向に引く。だが……」
バルトは言葉を切り、少しだけ躊躇した。
滑車とロープの複雑な配置を、ここにいる十八人全員に正確に指示しなければならない。以前の彼なら、自分の文字処理の遅さを恥じて、すべてを自分一人で抱え込もうとしただろう。
だが、バルトは自分の泥だらけの手を見つめ、短く鼻を鳴らした。
「俺は文字を書くのが絶望的に遅い。だから、記号で行くぞ!」
バルトは持っていた手拭いを引き裂き、さらに足元の泥を使って、ロープの各所に『丸』や『バツ』『一本線』といった極めて原始的な記号を書き込んだ。
「丸の記号がついたロープは牽引用だ、中央校の五人で引け! トマ、並びと足場を決めろ! バツは滑車の支点、リーゼと俺で押さえる! 一本線は……」
「丸は牽引で五人! バツは支点固定!」
バルトの言葉を、班長のリーゼが即座に大声で『復唱』する。
文字の速さに依存しない、実演と記号と声による引継ぎ。あの日の橋渡し訓練で失敗し、泥まみれになりながら学んだ連携が、極限状態の暗闇の中で完璧に機能し始めた。
「ノエル! 怪物の戻りや崩落の兆候は!」
「壁に耳を当てて確認しています。今のところ、別振動はありません! ……確信度、九割!」
ノエルは壁の振動を十秒おきに紙へ刻み、その観測結果を報告した。
バルトの指示通りにロープが張られ、扉の隙間に丸太がねじ込まれた。
「よし、引けェッ!!」
バルトの号令と共に、十人以上の体重がロープに乗る。
ギィィィン……ッ!
鉄が悲鳴を上げる音が響く。だが、扉は数センチ開いたところで、硬い岩壁の出っ張りに太い留め金がガッチリと噛み合ってしまい、止まってしまった。
「止めろ! 留め金を固定してる割りピンが岩へ噛んでる。これ以上引けばロープが切れる!」
バルトが手を上げる。小柄なフィオナが隙間へ腹這いになり、小灯を差し込んだ。
「留め金は無理。あの細い割りピンだけ焼く」
彼女は自分へ言い聞かせるように言い、杖を構えた。大きな炎は要らない。錆びて細くなった一点へ、針ほどの熱を置き続ける。
「マリエル、負傷者は!」
「体温が落ちています。ここに置けるのは、あと三分!」
一分。フィオナの指が震える。二分。赤熱した割りピンが膨らみ、噛み合わせが僅かに浮いた。
「今、引いて!」
バルトたちがロープを張る。膨張したピンが、乾いた音を立てて折れた。
同時に、バルトたちが渾身の力でロープを引く。
ゴオォォォォンッ! という凄まじい轟音を立てて、ひしゃげた鉄扉が岩壁を削りながら無理やりこじ開けられた。
開かれた扉の向こう側から、雨上がりの冷たい、しかし新鮮な夜気が流れ込んでくる。
「開いたぞ! 外への保守路だ!」
「マリエルの指示に従え! 重傷者から順番に運び出せ!」
リーゼの指揮の下、十八名の集団が一斉に旧保守路へと雪崩れ込む。
採点票も課題品も岩場に置いてきた。担架とロープと、互いの名前だけを持って、列は保守路を進んだ。
狭く長い保守路を抜け、彼らがようやく試験林の境界――東区画の外周へと辿り着いたのは、魔法停止の発生からおよそ九十五分が経過した頃だった。
完全に日が落ちた森の出口。
そこには、油灯の明かりで照らされた手動の救護テントと、腕を組んで立ち尽くす一人の男の姿があった。
「……教官」
泥とススに塗れ、肩で息をするリーゼが、掠れた声で呼んだ。
グレンは彼らのボロボロの姿を見ても、駆け寄ることはしなかった。大袈裟に褒め称えることもしなかった。彼は泥の列を端から見て、口を開いた。
「一、二、三……」
グレンは指を折りながら、境界線を越えてくる生徒たちの数を数え始めた。
負傷者を背負う中央校生、足を引きずる他校生、そしてカルド分校の五人。
グレンの指は、泥にまみれた顔を一人ずつ追った。数を飛ばさないよう、声に合わせて折れていく。
「……十六、十七」
最後に、バルトとセドリックに支えられ、イリナの装甲板を脚へ添えたヤンが境界線を越える。
グレンはゆっくりと腕を下ろした。
「十八。救護、骨折疑い二。濡れた上着を替えろ。保温を切らすな」
救護員が動き出す。グレンはそこでようやくリーゼへ近づき、泥で冷えた肩へ片手を置いた。
十八という数だけは、夜の闇へ消えずに残った。




