第14話 魔法を食うもの
深い谷底に、岩盤をすり潰すような不気味な咀嚼音が響き渡った。
崩落した魔導橋から逃れた十八名の受験生たちは、旧坑道の入り口付近で息を殺していた。
彼らの視線の先、完全な暗闇と化した坑道の奥から、巨大な異形が這い出してくる。
全長四メートル。無数の節足が岩を削り、厚い鉱石のような外殻に覆われた頭部には、目や耳といった感覚器官が見当たらない。だが、その背中に隆起した巨大な『蓄魔嚢』だけが、まるで呼吸するように青白い魔力光を脈動させていた。
怪物の後ろには横穴がある。入口の上には、古い落石防止網が石屑と腐った足場材を抱えて膨らみ、錆びた留め具一本で辛うじて吊られていた。
「ひっ……!」
中央校の生徒の一人が、恐怖に顔を引き攣らせて後ずさった。
試験の想定にはない、未知の化け物。そして頼みの綱である魔法の外部同期網は死んでいる。
怪物が負傷者の列へ向きを変えた。後衛術師のイリナともう一人が前へ出る。
「負傷者の前を空けて! 私たちが一度止める!」
二人は、体内に僅かに残った魔力を防御へ回した。普段なら正しい判断だった。半透明の障壁が負傷者と怪物の間へ立つ。本来の外部魔力を使えず、形は歪み、薄い。
だが、その魔力光が灯った瞬間だった。
ギチ、ギチギチギチッ!!
目を持たないはずの異形が、明確に「それ」を捉えた。
怪物は、手前で身構えていたバルトやリーゼのように魔法を出していない者たちを無視し、多脚を恐ろしい速度で回転させて、障壁を展開した魔術師たちへ一直線に突進してきた。
「うわああああっ!?」
「逃げろ! 障壁ごと食われるぞ!!」
セドリックが叫ぶが遅い。異形が障壁に激突した瞬間、その背部の蓄魔嚢が強烈な光を放った。怪物は物理的な打撃で盾を砕いたのではない。防御障壁を構成していた魔力そのものを、巨大な顎で文字通り「貪り食った」のだ。
魔力を奪われた術者たちが、激しい虚脱感に襲われてその場に崩れ落ちる。
「ノエル! 何を見てる!」
岩陰のノエルは、怪物と倒れた術者を交互に見た。
「人を見てません。手前の僕たちを無視して、魔導具へ行った」
「次は?」
「さっき防御術へ向かった。次は中継核へ行くと思います」
「理由は」
「分かりません。魔力の強い方へ寄っているように見えます。確信、六割」
理由はなくても、進路の予測は使える。その報告を最も重く受け止めたのは、魔術師志望のフィオナだった。
彼女の手には、杖が握りしめられていた。彼女の内在魔力はまだ残っている。
杖先に火球の輪郭が生まれた。
誰かが息を呑む。怪物の触角が、ほんの僅かにフィオナへ傾いた。
フィオナは奥歯を噛み、杖を逆手に握り直した。大火球の線がほどけて消える。
「……っ、ふざけんな!」
フィオナは火球の線を散らし、息を荒らげながら片手で杖の先を覆った。
「マリエル、足元! 三秒だけ照らす!」
フィオナが指の隙間から漏らした光は、極小だった。手で覆い、わずか三秒間、負傷者の足元だけをピンポイントで照らす閉鎖回路の小術。
光はフィオナの指の間と、負傷者の靴だけを照らして消えた。怪物の触角は、中継核の方を向いたままだった。
「……ノエルの推測通りなら、やりようはあるな」
冷静さを取り戻したセドリックが、腰の特殊なポーチから、黒い金属製の円筒を取り出した。
「セドリック、それは!?」
「中央校支給の携帯中継子機だ。同期する相手がいないから通信には使えない。だが内蔵核を空吐きさせて、強い魔力だけなら放てる」
「中央校からの個人貸与品だ。壊せば僕の責任になる」
「いくらするの、それ」
「王都に小さな家が一軒」
セドリックは最大出力のつまみを回した。
途端に、子機から強烈な魔力波長が放たれる。
ピタリ、と。怪物の動きが止まり、その巨体がゆっくりとセドリックの方を向いた。
「これより、僕の携行子機を囮にして怪物の進路を逸らす! フィオナ、君の極小術で協力しろ!」
「分かったわ!」
セドリックが腕を振りかぶり、高価な中継子機を、彼らの退路とは別方向――旧坑道の枝分かれした深い横穴の奥へと力いっぱい放り投げた。
子機が岩肌を跳ねながら奥へ転がっていく。
怪物は狂乱し、十八名の受験生たちには目もくれず、極上の餌を求めて横穴へと猛烈な勢いで突進していった。
怪物の巨体が横穴に入り込んだ瞬間。
「今よ!」
フィオナが杖を構え、最小限の魔力で『切断』の小術を放った。
狙いは怪物の首でも、坑道の天井でもない。横穴の上で落石防止網を吊っている、錆びた留め具の細い吊り索だ。網の内側には、既に石屑が溜まっている。
ビュンッ!
針のような魔法の刃が、腐った結び目だけを焼き切った。膨らんでいた網が横穴側へほどけ、抱えていた岩石と木材を入口へ落とす。受験生側の天井は動かない。横穴だけが、土煙の向こうへ塞がれた。
ズズンッ……!!
分厚い瓦礫の向こう側から、怪物が子機に群がり、魔力を貪り食う鈍い音が聞こえてくる。
「やった……! 怪物を隔離したぞ!」
「高価な代償だったが、命には代えられない。さあ、今のうちに外周へ抜ける保守路の扉へ急ごう!」
セドリックが退路の手信号を出す。トマが同じ形を後列へ返し、歩ける者と担架を二列に分けた。
魔力を奪われて膝をついていたイリナは、自分の前腕装甲を外してマリエルへ渡した。
「ヤンの添え木、これで継いで。まだ歩ける人は、私が数える」
十八名は負傷者を担ぎ直し、岩場の奥へ動き出した。
瓦礫の奥で、子機の鳴音が一度だけ潰れた。十八名はその音を背に、岩場の奥へ急いだ。
だが、彼らがようやく辿り着いた『旧保守路の手動扉』の前で、リーゼの顔から血の気が引いた。
そこにあるはずの退路。
しかし、先ほどの魔導橋の崩落による地盤変位は、この岩場にも致命的な影響を及ぼしていた。頑丈な鉄扉を支える金属枠そのものが、岩壁の圧力によって鉤形にひしゃげ、ねじ曲がっていたのだ。
「……嘘でしょ」
この保守扉は、外周門とは別系統の内側解放式だった。坑道側から逃げる者は鍵を必要とせず、把手を回せば錠ピンだけは抜ける。
リーゼが機械錠の把手に体重をかけて回す。
カチャリと錠ピンは外れた。だが、歪みきった鉄扉は、岩と完全に噛み合ってしまい、五人がかりで押しても一ミリたりとも動かなかった。
魔力は戻らない。怪物は背後にいる。
そして、発生から数十分が経過した今も、物理的に変形してしまった扉は、彼らの前に冷えた鉄のまま立ち塞がっていた。




