第10話 鳥のいない森
しとしとと降り続いていた雨が上がり、ハイゼル実地試験林には濃密な湿気が立ち込めていた。
明日はいよいよ、統一資格試験の最終関門『最終実地(配点三十)』が行われる。
試験林はいくつかの区画に分かれている。最終実地の前日には、安全確認の見落としを減らすため、各校から斥候志望者一名を公式立会人として出す規定があった。割り当て区画は抽選で、観測票はその夜のうちに全受験生へ開示される。
東区画には設備担当官を先頭に、カルド分校の教官代表グレンとノエル、中央校と北部校の立会人が一名ずつ入っていた。まだ誰が明日どの区画を受けるかは知らされていない。
「……暗いですね、ここは」
ぬかるんだ腐葉土を踏みしめながら、ノエルが小声で漏らした。
時刻は昼下がりだというのに、東区画はまるで夕暮れのように薄暗かった。両側を切り立った崖に挟まれた深い谷底の地形であり、頭上は巨大な樹冠によって完全に覆い尽くされている。雨上がり特有の湿度が逃げ場を失い、肌にまとわりつくようだった。
「日照が極端に少なく、湿気が抜けない。遭難者の捜索訓練にはうってつけの悪条件だ。だからこそ、試験委員会は毎年ここを最終課題のコースに選ぶ」
グレンは淡々と答えながら、谷の奥へと歩を進める。
少し開けた場所に出ると、そこには試験用の高出力魔導中継核が設置されていた。普段は稼働していないが、明日の試験のためだけに短期間だけ立ち上げられる都市規格の巨大な魔力源だ。青白い光が脈動し、周囲の空気が微かに震えている。
ノエルはその中継核から視線を外し、さらに谷の奥、切り立った崖の下へと目を向けた。
「教官。あそこにある穴は、何ですか?」
「古い地脈観測坑道だ。それと、都市への排水を流していた暗渠の跡だな」
グレンが指差した先には、黒々と口を開けた古い坑口があった。今では鉄格子の扉で封鎖されているが、長年の風雨で錆びつき、一部はひしゃげている。
三校の立会人は同じ観測票を持っていた。中央校の立会人が中継核の出力値を読み上げ、北部校の立会人が通信試験の応答時刻を書き取る。その横で、ノエルは坑口、地面、灯り、音、匂いの順に確認欄を埋めた。
「……教官。地脈灯の光が、数秒おきに微かに揺れています。それに、先ほどから通信器に砂を噛むような雑音が混じっている」
「ほう。他には?」
「坑道跡の入り口付近……あそこだけ、土の色が違います。雨で流された泥ではなく、内側から押し出されたような『新しい土』です。それと、微かですが……地下から、石を削るような音が聞こえます」
ノエルは事実だけを冷静に報告し、紙挟みにペンを走らせた。
先を歩いていた設備担当官が戻ってきた。グレンはノエルに、三校の立会人全員へ聞こえるよう報告を繰り返させた。
「ああ、それですか」
担当者は手元の魔導記録板を確認し、大して気にした様子もなく答えた。
「長雨の影響で、旧坑道内の地盤が緩んでいるんでしょう。新しい土も、内部の小規模な崩落で押し出されたものです。地脈灯の揺れや通信の雑音に関しては、明日稼働させる中継核の高出力に周囲の外在魔力が引っ張られているせいです。高魔力期特有の、よくある通常変動の範囲内ですよ」
担当者の返答は、決して職務怠慢から来るものではない。蓄積された過去の観測値と、現在の魔力観測基準に照らし合わせた、極めて「合理的」な判断だった。
グレンも彼を責めることはしなかった。グレン自身、これが何らかの大災害に繋がると確信しているわけではない。未来を言い当てる予知能力など持ち合わせていないのだ。
「分かった。だが、その雨による地盤の緩みと雑音の件は、正式な観測記録として上に上げておいてくれ」
「ええ。三校の観測票にも同じ判断を書き、今夜の開示記録へ載せます」
「それから」
グレンは担当者に一枚の申請用紙を突きつけた。
「東区画の備品リストを確認した。魔導橋のロックを物理的に解除する『手動鍵』、それから油圧式押上器などの『機械式工具』、外部同期網から切り離されても単独で動く『密閉魔晶電池』の数が足りない。明日の試験までに、規定の最大数まで追加配備を申請する」
担当者は怪訝な顔をした。魔導具がこれだけ充実しているのに、なぜそんな古臭く重い物理装備を追加するのかと。しかし、書式自体に不備はないため、彼は渋々それを受け取って去っていった。
彼らの背中を見送った後、グレンは再び黒々とした旧坑道へと視線を向けた。
湿気を帯びた冷たい風が、坑道の奥から吹き出してくる。
(『潮の引き際』、か)
二十三年前、ユリウスは暗い坑道の前で同じ言葉を使った。
『潮が引けば、底にいたものが動く』
グレンはその言い方が嫌いだった。観測点は少なく、周期も振幅も定まらない。研究者の比喩が、いつの間にか予言へ変わるのを何度も見てきたからだ。
それでも、地脈灯の揺れと、新しい土と、岩を削る音が同じ場所にある。何も起きなければ、手動鍵と工具が余るだけだ。
「……教官?」
「いや。戻るぞ。三人とも、控えに署名しておけ」
グレンはそれ以上は口にせず、足早に谷を後にした。
試験中止を求めるには根拠が足りない。だが、規程内の予備品を増やすには足りる。グレンはそれ以上を言わず、申請書の控えを折り畳んだ。
その夜。
東区画の観測票は、他区画の記録と同じ掲示棚へ複写された。紙の端には三校の立会人の署名が並び、新しい土と異音の欄も消されていない。ただし安全判定欄は『長雨による小規模崩落・試験続行可』だった。
グレンが提出した予備品の追加配備申請は、分校長であるヘレナの口添えもあり、無事に受理された。
だが、支給された手動鍵や密閉電池は、東区画で試験を受ける受験生全員の手に渡るわけではない。
『規定により、申請品は東区画外周の保守小屋、および本部テントへの分散保管とする』
返ってきた通達書には、事務的な文字でそう記されていた。
手動鍵は保守小屋。密閉電池は本部。工具は外周の二か所。
ただし、ここで分散保管されたのはグレンの追加申請分であり、各合同群の標準装備に含まれる小灯用の交換電池とは別だった。
グレンは配置図に丸をつけた。東区画の受験生から見れば、どれも谷の外だった。




