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国を挙げたニート保護生活!

目の前には「302」の数字が刻まれたドア。ドアの横には小さなポストがあり、ピザのチラシや水道工事の広告が少しだけ覗いている。どこからどう見ても、ごく普通の学生や単身者が暮らす、築年数の経ったアパートの玄関だった。


(……本当にあの人が、現代医学の常識を覆した人物か……?)


神崎所長はゴクリと生唾を飲み込み、緊張で張りつめたスーツの襟元を正した。隣の佐藤研究員に至っては、心臓の激しい鼓動が服の上からでもわかりそうなほどガタガタと全身を震わせている。


カチャリ、と内側から鍵の開く金属音が響いた。


「はーい、どうぞー。少し散らかっていますが先ほどよりはマシだと思います」


ドア越しに聞こえてきたのは、緊張感の欠片もない、拍子抜けするほど呑気な少女の声だった。神崎は意を決して、ゆっくりとドアノブを回した。


ギィ……と湿った音を立ててドアが開く。


「失礼いたします……」


二人が恭しく頭を下げながら、慎重に足を踏み入れた。

玄関に充満していたのは、危険な試薬の異臭でも、最新鋭の実験器具が放つ無機質な金属臭でもなかった。


立ち込めていたのは——香ばしいスパイスと、出前カレーの匂いだった。


「あ、靴はそのへんに適当に脱いじゃってください。今、お湯沸かしてるんで」


奥の部屋からひょっこりと顔を出したのは、オーバーサイズのダボついたジャージを着て、寝癖のついた髪を雑にゴムでまとめた若い少女——春奈だった。


「……あ。」


神崎と佐藤は、玄関に足を踏み入れた瞬間、その場の空気に気おされて完全にフリーズした。


室内は、エアコンの室外機が動いていないにもかかわらず、まるで初夏の高原にいるかのように清涼でひんやりとしており、空気そのものが深く澄み切っている。そして何より、部屋の隅——ゴミ箱のすぐ隣に、青く不気味な光を放つ謎の鉱石(風精霊の魔石)と、周囲の空気を凍らせるほどの冷気を放つ透明な結晶(氷の最上位魔石)が、まるで「転がっているインテリアの置物」のように無造作に置かれていた。


二人の科学者としての直感が警鐘を鳴らす。あの物質は、地球上の如何なる元素表にも存在しない異常な高エネルギー体だ。それを、この少女はルンルン気分で「ただの便利グッズ」として部屋に転がしているのだ。


「えっと……神崎様、とお連れの方ですよね? 座る場所、そこらへんの座布団使ってください」


「は、はい……失礼いたします……」


神崎と佐藤は、まるで国家の要人に謁見するかのような異様な緊張感で、膝を揃えて正座した。春奈はどこか申し訳なさそうにマグカップにお茶を注ぎ、二人へ差し出す。


「で……わざわざ来てもらったのに申し訳ないんですけど、あのポーション、何か問題ありました? 飲むとお腹壊すとか……?」


神崎所長は、差し出された熱いマグカップを両手でしっかりと握りしめた。その手は微かに震えており、春奈の目をまっすぐに見つめ返した。その瞳には、科学者としての驚愕と、国家の命運を背負う者としての凄絶な覚悟が宿っていた。


「……春奈様。包み隠さずに申し上げます。あなたが当研究所へお送りくださったあの『液体』……あれは癌細胞の100%完全消滅、さらには不可逆なDNAの完全修復を可能にする、文字通りの【神薬】でした。人類が数千年間克服できなかった『病』という絶望を終わらせる奇跡の薬品をご寄贈いただいたこと、まずは一人の人間として、心より感謝申し上げます」


神崎は畳に深く額を擦り付けた。隣の佐藤も、感極まった様子で勢いよく頭を下げた。


春奈は、ぽかんと口を開けた。


「……え? がん細胞? DNAの修復……? あのポーションって、そんな大層な薬だったんですか?」


(確かにそんなこと書かれてたかもだけど、せいぜい強めの栄養ドリンクくらいかと思ってたのに……)


あまりにもスケールが大きすぎる現実に、春奈の頭の処理が追いつかない。


「ええ! 間違いありません! 人類の歴史がひっくり返るレベルの偉業です! ……そこで、春奈様。極めて重要で、我々のみならず我が国の命運を左右する質問をさせてください」


神崎所長は膝をじりじりと乗り出し、切実な眼光で尋ねた。


「この恐るべき神薬を……あなたは一体、どのようにして手に入れられたのでしょうか? 背後に海外の未確認研究機関や、巨大な秘密組織などが存在するのでしょうか……?」


「あー……入手経路ですか。」


春奈はあくびをひとつ噛み殺し、面倒くさそうに首をひねった。


怪しい秘密組織だの、海外の研究所だの、大げさな単語が飛び交っているが、事実は拍子抜けするほどシンプルだ。隠すのもバカバカしくなった春奈は、ローテーブルの上に置いてあった自分のスマートフォンをポイと差し出した。


「これです。」


「……スマートフォン……ですか?」


神崎と佐藤が顔を寄せ、画面を覗き込む。


そこに映っていたのは、どこにでもあるごく普通のホーム画面と、その端にひっそりと配置された、怪しげなドット絵のアイコンだった。タイトルには【異世界ザッピング】と書かれている。


「このアプリを開くとですね、異世界の王宮厨房に繋がるんですよ。で、あっちのバルド料理長っていうおじさんに料理のコツを教えてあげたら、お礼にってこのポーションやら魔石やらを画面越しに投げて寄こしてくれるんです」


「……は?」


神崎所長は、人生で初めて「は?」という間抜けた声を漏らした。


理解が追いつかない。スマートフォン? アプリ? 異世界? 画面越しに物体を投げる? 狂人の寝言を聞かされているのだろうか。しかし、現に目の前にはポーションと謎の鉱石が存在している。


「あ、ほら。言葉で言うより見てもらった方が早いですよね。今もあっちで準備万端で待ってるんじゃないんですか。画面見ます?」


春奈がアイコンをタップすると、画面が一瞬暗転し、半透明のシステムウィンドウとともに【CH.04 グランベル王国・王宮調理場】の映像が映し出された。


画面の向こうには、山盛りの卵と油の樽を前に正座した十数人もの異世界料理人たちが待機していた。その身なり、背景の石造りの建築、流れる独特の空気感……とてもではないが、現代のVFXや作られた映像などではない。


『あ、みんなー。準備できてる?』


春奈がスマホのマイクに話しかけた、その瞬間。

画面のスピーカーから、厨房が激しく揺れ動くほどの爆音歓声が響き渡った。


「「「ハルナ様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 本日も神託を賜りたく、万全の準備でお待ち申し上げておりました!!」」」


画面の中の男たちが、一斉に石畳へドガァン! と頭を叩きつける。

画面越しにダイレクトに伝わってくる、あまりにもリアルで、狂信的とも言える異世界の熱量と空気感。


「あ……あ……あ……」


神崎所長と佐藤研究員は、あまりの衝撃に息を忘れ、顔面を蒼白にしてその場に膝から崩れ落ちた。


(異世界……!? 異世界との時空間接続……!!)


(この少女は……単なる天才科学者や協力者などではない。異世界と現代地球を唯一繋ぐ『世界の特異点(神の窓口)』そのものだったのか……!!)


神崎所長は、全身を駆け巡る恐ろしいほどの戦慄に震えた。


もしこの事実が、あるいはこのスマートフォンの存在が他国に漏れればどうなるか。ポーション一瓶ですら国家間で奪い合いが起きるレベルなのだ。異世界の超技術や魔法、未知の物質をいくらでも引き出せる「窓口」である春奈の価値は、国家予算どころか地球の富すべてを合わせたものすら上回る。


「そ、そして春奈様……!」


神崎所長はガタガタと声を震わせながら、恐る恐る、決死の覚悟で尋ねた。


「大変ぶしつけですが……あのポーションは、まだ手元にございますか……!?」


「あ、これですか?」


春奈はベッドの横に置かれた大きな木箱のフタをパカッと開けた。

そこには、エメラルドグリーンに輝くポーションの小瓶が、あと10本ほど無造作にゴロゴロと転がっていた。


「「……っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」」


神崎と佐藤は、肺の中の空気をすべて吐き出したかのように絶句し、そのまま突伏しそうになった。

国家の全財産を投げ打っても釣り合わない奇跡の薬品が、もらい物のキャンディみたいなノリで木箱に詰め込まれている。


「も、貰ってもよろしいのですか……!?」


「全然いいですよ。部屋狭くなるし。あ、でも目立つのだけは嫌なんで、ニュースとかには出さないでくださいね」


神崎所長は震える両手で木箱を受け取ると、ボロボロと涙を溢れさせながら深々と頭を下げた。


「誓います……! あなた様の平穏は、日本政府が全力を挙げてお守りいたします……!」


それから小一時間。


木箱を受け取った神崎所長は一度席を外し、玄関の廊下で政府高官と緊急の極密暗号通信をおこなった。部屋に戻ってきた神崎所長の顔には、先ほど以上の重苦しい緊張感が漂っていた。神崎は汗を拭いながら、春奈に向けて慎重に、言葉を一つひとつ確かめるように切り出した。


「……春奈様。非常に言いづらいことなのですが、一つ、真剣にご検討いただきたいご提案がございます」


「ん? なんですか?」


「……お引越しをしていただきたいのです。我々が用意する『極密保護施設』へ」


「えっ、引越し……?」


春奈は嫌そうな顔で即座に眉をひそめた。


「いやです。私、部屋から出るの面倒くさいですし。ここ居心地いいんで」


「お気持ちは痛いほど理解できます! 慣れ親しんだお部屋を離れたくないというお考えも当然です!」


神崎所長は膝を乗り出し、自分の人生のすべてを懸けるような面持ちで説得を始めた。


「ですが、このアパートの防犯設備はあまりにも脆弱です。もし……万が一にも他国の情報機関や裏社会の組織にあなたの存在が察知された場合、衛星からの監視、電波傍受、あるいは特殊部隊による強襲すら想定されます。ここはお世辞にも、あなた様のお命を守れる場所ではございません!」


「強襲……? なんか大げさじゃないですか……?」


「大げさではございません! あなた様は今や、地球上のどの国家にとっても喉から手が出るほど欲しい『世界の宝』なのです! あなた様の平穏と、何よりその尊いお命を守るためにも、完璧なセキュリティが施された場所へお移りいただきたいのです」


春奈はうーんと腕を組んで考え込んだ。

言っていることは分からなくもないが、環境が変わるのは面倒だし、見知らぬ怪しい施設に閉じ込められるのも嫌だ。


それを見抜いた神崎所長は、額の汗を拭いながら、用意してきた最後の切札を提示した。


「……もちろん、環境は今以上に快適にいたします!」


「……快適?」


「はい! 都心の極密エリアに建てられた、表向きは存在しない超豪華なセキュリティマンションのワンフロアをご用意いたします。防弾・防爆ガラス完備、防音対策も完璧。最高級のふかふかベッドと巨大テレビをご用意し、あなた様が外出する必要すら一切ございません!」


春奈の眉がピクリと動いた。


「さらに……!」


神崎所長は手応えを感じ、一気に畳みかけた。


「家賃、光熱費、通信費はすべて国が負担。毎日の食事や出前代、さらにはスマホゲームの課金代に至るまで、すべて国家予算の必要経費として処理いたします! あなた様にしていただくことはただ一つ……『その快適な部屋で、安全にダラダラと過ごしていただくこと』だけです!」


「……出前代も課金代も全部タダで、広い部屋で引きこもってていいの?」


春奈の目が、ポーションを見た時以上にキラリと輝いた。


「はい! それこそが我が国の最重要国家プロジェクトです!!」


「……採用。引越し準備します。」


春奈のあまりの即決ぶりに、神崎所長と佐藤研究員は胸を撫で下ろし、深々と安堵の溜め息を漏らしたのだった。


翌日。


政府の手によって極密裏に手配された大型輸送車両と、私服の治安維持部隊によって、春奈の最小限の荷物(と、大切な魔石ふたつ)が慎重に運び出された。


移動した先は、都内某所の地下暗号ルートを通った先にある、政府直轄の最高等級セキュリティ施設——表向きは存在しない、超豪華タワーマンションの最上階ワンフロアであった。


「うわ……なにこれ、めちゃくちゃ広くてベッドふかふかじゃん……」


春奈は新しい部屋に入るなり、キングサイズのベッドへダイブした。

広々とした部屋の隅には、しっかり異世界から持ち込んだ『風精霊の魔石』と『氷の最上位魔石』がインテリアのように転がされている。


フロアの外側では私服の特殊部隊(SAT)と公安警察が24時間体制で厳重な警護につき、あらゆる電波攻撃や物理的侵入を完全にシャットアウトする「絶対防衛領域」が完成していた。


「ふぅ……家賃タダ、出前タダ、セキュリティ完璧……最高すぎる。」


当の春奈は、世界一安全になった豪華な部屋のベッドの上で、至福の溜め息をついていた。


「よし、じゃあお引越しでちょっと待たせちゃったし、マヨネーズの作り方でも教えてあげるかー。」


春奈はルンルン気分でスマホを取り出し、『異世界ザッピング』の画面を開いた。


画面の向こうでは、今日も王宮厨房の料理人たちが準備満たんで正座し、神の降臨を今か今かと待ちわびていた。


現代世界で「国家最重要人物」として政府から完璧に甘やかされながら守られることになった当の本人は、今日も部屋から一歩も出ず、呑気に異世界のおじさんたちへマヨネーズの作り方を授け始めるのだった。

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