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初めての対面

その日の夕方――太陽が赤赤と都心の高層ビル群の影へと沈みゆく刻限。


首相官邸・地下危機管理センターの室内は、昼前からの連続した緊張状態によって重苦しい疲労感と静寂に包まれていた。


「……公安調査庁および警視庁外事課による、配送会社の緊急追跡調査プログラムからの回答が届きました」


公安調査庁の職員が、微かに震える手で一枚の最重要機密指定された紙資料を、大型会議卓の長官たちの前へとそっと置く。


その瞬間、室内のピンと張り詰めた空気の密度がさらに一段跳ね上がった。


「ポーションが入った小包の発送元……差出人である『匿名希望』の正確な居住地が判明いたしました」


オペレーターの操作により、前面に鎮座する超高精細な大型モニターへと、都内の最新デジタル詳細地図が拡大表示される。


画面の中央、緑豊かな住宅街のグリッド線の上に、一箇所だけ鮮血のような赤く点滅するターゲットマークが打たれた。


そこは、都心から少し離れた静かな住宅街の一角にひっそりと佇む、どこにでもある築年数の経過した賃貸マンションだった。


「……ここか」


東条総理大臣が、低く絞り出すような声でポツリと呟いた。


この場に集まった閣僚や情報幹部たちの誰もが、世界の医学史を塗り替える奇跡の薬品の出所として、巨大メガファーマの極秘研究施設や、深い山奥の地下深くに建つ最新鋭の防音研究所のような場所を想像していた。


しかし、モニターに映し出されたのは、あまりにも拍子抜けするほどにありふれた、鉄骨造り四階建ての古びた集合住宅だった。


「現在、現場の公安警察および私服捜査官による、周辺領域の目視・電波調査を実施しております」


画面の表示が切り替わり、昼間に街頭カメラや偵察車両から撮影されたマンションの周辺映像が映し出された。


一階に入った二十四時間営業のコンビニエンスストア。


近隣住民が利用する小さなクリーニング店。


子供たちが遊具で戯れる緑の少ない小さな公園。


怪しい人影や厳重なセキュリティなど影も形もない、平凡を絵に描いたようなごく普通の住宅街の風景だった。


「対象者の生活実態についてのデータは?」


東条総理が尋ねる。


「現在判明している範囲内では……この部屋に単身で暮らしている、二十代前半の若い女性です」


「本人の過去の職歴や研究歴は?」


「該当データは一切確認できません」


「大手製薬会社や、国外のバイオベンチャー企業との接点または取引履歴は?」


「口座情報、通信ログともに一切存在しません」


「出身大学および専門機関での履修履歴は?」


「理系学部や医学系専門学校への在籍記録すら、過去に遡っても一切確認できませんでした」


次々と読み上げられる完全に「白」な報告内容に、会議室の空気は次第に困惑と妙な不気味さを孕んだものへと変化していく。


「……おい、待て」


防衛大臣の黒川が、手元の分厚い資料を穴があくほど見つめながら眉をひそめた。


「つまり……まとめるとこういうことか?」


黒川の声には戸惑いが隠せない。


「あの現代科学の粋を集めても再現不可能な『神薬』を、何事もなかったかのように某所に送り付けてきた張本人は……どこからどう見ても、ただの一般人の若い女性だというのか?」


「現時点でのあらゆるデータベースとの照合結果を見る限りでは……そのようにしか見えません」


重い沈黙が流れる。


この場にいる誰一人として、その報告をすんなりと納得することなどできるはずもなかった。


人類の叡智を遥かに超越した試薬を生み出し、保有するほどの圧倒的な知性やバックボーンを持つ人間が、そんな家賃数万円の賃貸マンションでごく普通に暮らしているなど、あまりにも常識を逸脱していたからだ。


「……玄関口の防犯・監視映像は残っているか?」


「はい、こちらになります」


モニターに、そのマンションの廊下に設置された防犯カメラの粗い映像が再生された。


タイムスタンプは、昨日の午前十一時十五分。


映像の中の少女――件の主人公は、部屋着の上にダボッとした薄手のパーカーを羽織っただけの無防備な姿で、玄関ドアをガラガラと開けた。


そして、足元に小さめの段ボール箱をポイと雑に置く。


その数分後。


巡回してきた集荷担当の配達員がやってきて、その段ボール箱を何気なく台車に積み込み、回収していった。

ただそれだけの、ありふれた数分間の映像だった。


「……これで終わりか?」


「はい、これで以上になります」


「貴重な薬品の小包を、衝撃緩衝材で保護したり、慎重に扱うような様子は一切見られないのか?」


「見受けられませんでした」


公安職員は少し言葉を選び、困惑を隠せない様子で報告を付け加えた。


「……映像の動作を客観的に観察する限りでは、部屋にある不要になったゴミや古本を業者に引き取らせるかのような、極めて無造作で慣れた様子です」


「……」


「……」


地下危機管理センターの会議室に、もはや言葉すら出てこないほどの、何とも言えない奇妙な沈黙が流れた。


神薬。


世界各国の国家予算すら動かしかねない、未曾有の超技術の結晶。


それを日本政府の研究所へ送った当の本人は、まるで読み終えた雑誌や段ボールを処分するかのような軽い感覚で、玄関先に荷物を置いていたのだ。


「……信じられないな」


厚生労働大臣の新島恵理子が、こめかみを押さえながら深く息を吐き出した。


「彼女は……自分が手元に持っていたあの試薬が、どれほど凄まじい価値と危険性を秘めているのか、全く理解していないというのですか?」


「あるいは――」


それまで静観していた国家安全保障局長の佐久間が、腕を組んだまま低く不穏な声で口を開いた。


「事態の価値を完全に理解しているからこそ、あれほどまでに平然としていられるのかもしれません」


「どういう意味だ、佐久間局長?」


「つまり……彼女にとって、あの万能薬は『慎重に扱うべき奇跡の品』などではなく、日常的に手に入る、珍しくもない当たり前の品に過ぎないということです」


その言葉が落とされた瞬間、出席していた全員がハッと目を見開き、息を呑んだ。


もし佐久間の推測が真実であるならば――。


研究所へ匿名で送られてきたあの一本など、彼女が保有するストックのほんの爪垢ほどの量に過ぎず、彼女の自室や秘密の保管場所には、さらに大量の『神薬』が何気なく転がっている可能性がある。


会議室の空気が、さらに計り知れない重圧とともに締め付けられていく。


東条総理大臣は、静かに椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。


「……私が直接、現地へ向かう」


「総理自らですか!?」


内閣官房長官の西條が目を丸くして驚きの声を上げる。


「いや」


東条総理は静かに首を振った。


「現職の総理大臣やSPの車列がそんな住宅街に乗り込めば、それだけで目立ってしまい、海外の情報機関に彼女の居場所を教えるようなものだ。それに、警察や公安の厳密な制服組を行かせるのも良くない」


東条総理の視線が、部屋の隅に控えていた研究所長へと向けられる。


「まずは……研究者であるあなたが会うべきだ、神崎所長」


神崎所長は背筋を伸ばし、己の顔を上げた。


「私、ですか」


「そうだ。あなた以上に、あの薬が秘める真の価値と可能性を正確に理解し、語れる者はこの国にはいない。もし彼女が我が国の要請に耳を傾け、協力してくれるならば……日本だけでなく、地球上の無数の人々の命が救われることになる」


神崎は覚悟を決めた面持ちで、力強く頷いた。


「……承知いたしました。私の全責任において接触してまいります」


「ただし――」


東条総理は最後にもう一度、全員の顔を見回しながら固い口調で念を押した。


「いかなる理由があろうとも、彼女を恐怖させたり、威圧したりしてはならない。彼女は取り調べを受ける容疑者などでは断じてない。我が国に、そして人類に、計り知れない善意と価値をもたらしてくれた最大の恩人なのだ。最高級の誠意と敬意をもって接しなさい」


「はい!」


こうして、国家の命運を分ける極秘会議は終了した。


翌朝。


神崎所長は、信頼できる最小限の側近研究員だけを伴い、黒塗りの公用車に乗り込んで、少女が暮らす件のマンションへと静かに出発することになるのだった。



翌朝――午前九時十五分。


雲一つない青空が広がる住宅街に、一台の黒い国産セダンがひっそりと停車した。


過剰な護衛車両もサイレンもなく、ごく自然に街の風景へと溶け込むような配慮がなされている。


助手席のドアが開き、神崎所長が降り立った。


その顔には徹夜の疲れと、これから人類の歴史を左右する人物に会うという極度の緊張が刻まれている。背後には、緊張で生唾を飲み込む佐藤研究員の姿もあった。


「……ここだな」


神崎は仰ぎ見る。どこにでもある、築年数の経った四階建てマンション。


二人は静かにエントランスへ入り、オートロックのインターホン前で立ち止まった。

神崎の指が震える。


(相手は世界を揺るがす試薬をあっさりと送ってくる存在……どのような人物なのか。どのような言葉をかけるべきか……)


息を整え、意を決して「302号室」の呼出ボタンを押した。


ピンポーン――。

静かな廊下に、いたってありふれたチャイムの音が響く。


十秒。


二十秒。


応答はない。


「……留守でしょうか?」


佐藤が小声で尋ねる。


「いや、公安の事前モニターでは室内で微弱な生活反応が確認されているはずだ。もう一度だけ試そう」


再度、チャイムを押す。


ピンポーン――。


すると、数秒の静寂の後、インターホンのスピーカーからガチャリとノイズが混じった音声が流れてきた。


『……んえ? はぁい……どちらさまですかぁ……?』


スピーカー越しに聞こえてきたのは、あくび混じりの、拍子抜けするほど間抜けた少女の声だった。寝起きの頭を

抱えている様子が手に取るように伝わってくる。


神崎は背筋を伸ばし、マイクへ向かって誠心誠意の声を吹き込んだ。


「突然の訪問、大変失礼いたします。私、国立先端医療科学研究所で所長を務めております、神崎と申します」


『こくりつ……? え、NHKの集金ですか……? 今、寝てたんで後にしてほしいんですけど……』


「ち、違います! 集金ではありません! 昨日、あなたが当研究所へお送りくださった『お荷物』の件でお伺いいたしました!」


『あー……あのお荷物?』


画面の向こうで、少女が思い出したように呟く。


『あ、あの赤い瓶のやつ? 届いたんだ。……え、わざわざお礼に来てくれたんですか? 別に気を使わなくてもよかったのに』


(お礼……!?)


神崎と佐藤は顔を見合わせ、愕然とした。


国家の全機関が蜂の巣をつついたような大騒ぎになっている原因を、彼女は「わざわざお礼に来た」程度の認識で捉えていたのだ。


「……ええ、そうです。言葉では言い尽くせないほどの……感謝と、そしてどうしても直接お聞きしたい重要なことがございまして。もしよろしければ、少しだけお時間をいただけないでしょうか?」


スピーカーの向こうで、しばらく「うーん」と悩むような気配が漂う。


『ま、いっか。今ちょうど起きたところだし。あ、部屋散らかってるんで、ちょっと待ってくださいねー』


カチャリと通信が切れ、オートロックの自動ドアが静かに解錠された。


神崎は深く息を吐き出し、ハンカチで額の汗を拭った。


「佐藤くん」


「は、はい!」


「総理のお言葉を忘れるなよ。相手は人類の至宝だ。決して驚かせたり、不快感を抱かせてはならない」


「わかっています……!」


二人は固い決意を胸に、静かにエレベーターへと乗り込み、302号室がある三階へと向かうのだった。

世界を再び激震させることになる「世紀の対面」まで、あと数分――。

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