異世界のゴミは現代の神薬です
同日午後一時四十七分――
東京都千代田区永田町、首相官邸・地下危機管理センター。
地上からの爆撃や電磁パルス攻撃にも耐え得る頑丈な特殊鋼鉄の扉で隔離されたその会議室は、普段であれば巨大地震などの大規模自然災害や、隣国からの弾道ミミサイル飛来といった、国家の存亡に関わる重大な有事の際にしか使用されることはない。
重苦しい空気の満ちるその部屋へ、警護官に導かれ、一人、また一人と日本政府の中枢を担う重要人物たちが集められていた。
内閣総理大臣・東条 栄一。
内閣官房長官・西條 達也。
国家安全保障局長・佐久間 剛。
厚生労働大臣・新島 恵理子。
防衛大臣・黒川 重信。
警察庁長官・桐生 勝也。
公安調査庁長官・藤堂 明。
さらには、内閣情報調査室のトップである内閣情報官に至るまで。
日本という国家の意思決定を一身に背負う最高幹部たちが揃い踏みしていたが、突如として発せられた「最高警戒レベルでの緊急召集」に対し、誰もが戸惑いと緊張を隠せないでいた。
「官房長官、一体何があったというのだ?」
防衛大臣の黒川が、低く太い声で問う。
「海外からの新種の感染症か? それともテロの脅威か?」
厚生労働大臣の新島も、眉をひそめながら手元のメモを見つめた。
「もし未知の新型ウイルスのような公衆衛生上の危機であれば、我が厚労省の管轄内で対処を進められるはずですが……」
ざわめく室内の緊迫感がピークに達しようとしたその時、重厚な防音扉が重々しい音を立てて開き、数人の人物が入室してきた。
先頭に立つのは、国立先端医療科学研究所の所長――神崎 隆一。
その背後には、顔色を失った数人の主任研究員たちが吸い寄せられるように続いていた。彼ら研究者の表情には、異様なまでの硬さと、未知の事態に対する畏怖が張り付いている。
「……お待たせいたしました、閣僚の皆様」
東条総理が静かに口を開く。その眼光は鋭い。
「神崎所長。君の研究所から『我が国の国家安全保障に直結する極めて重大な緊急案件が発生した』との直接通報を受けた。単刀直入に説明をお願いしたい」
神崎所長は深く一礼すると、震える手でポケットから黒い金属製のUSBメモリを取り出し、会議卓の中央へ静かに置いた。
「まずはこちらの映像をご覧ください。言葉で説明するよりも、皆様の目で直接確認していただくのが最良かと存
じます」
室内の照明が徐々に落とされ、前面に設置された巨大な多目的スクリーンに映像が映し出された。
それは、第三解析室のハイスピードカメラが克明に捉えた実験映像だった。
高倍率の顕微鏡画像の中で、凶暴に増殖していた悪性ガン細胞が、投与された透明な試薬に触れた瞬間、まるで魔法のように一瞬で消滅していく。
続いて映し出されたのはDNAの二重らせん構造の解析データ。放射線や薬剤によってズタズタに破壊されていた塩基配列が、超高速で寸分の狂いもなく再結合し、完璧に修復されていく。
さらには、老化し機能を停止しかけていた細胞が、見る見るうちにフレッシュで活力に満ちた正常細胞へと若返っていくプロセス――。
一連の映像が終わり、画面が暗転しても、会議室は凍りついたような静寂に包まれていた。
最初に沈黙を破ったのは、厚生労働大臣の新島恵理子だった。高名な元・医学者でもある彼女の視線は、泳ぐようにスクリーンを彷徨っている。
「……これは、最新のディープフェイクや高度なCG映像技術による捏造……ではありませんの?」
「違います、新島大臣。一切の合成はありません」
「では、映像の編集ミスや過剰な演出効果……」
「リアルタイムで取得された生データおよびハイスピード生映像です」
「ならば実験機器のエラーだ! 試薬の不純物による一時的な化学反応の勘違いではないのか!」
防衛大臣の黒川が机を叩いて声を荒らげるが、神崎所長は静かに首を横に振った。
「同一条件下での基礎実験を、七十二回」
神崎の声には、研究者としての確信と恐れが混ざり合っていた。
「担当する研究チームを完全に変更して十五回。分析装置を別メーカーの最高精度品に変更して二十八回。さらに、外部の第三者信頼機関へ秘匿で持ち込んでの確認実験を五回。……そのすべてにおいて、小数点以下まで全く同じ再現性を示しました」
会議室を流れる空気が、明確に「疑念」から「戦慄」へと変わる。
「……さらに」
神崎の合図で、研究員が新しい分子構造の解析資料をスクリーンに映し出した。
「この液体を構成している基本物質およびエネルギー結晶体は……現在、人類が発見し周期表に記載している地球上の118種類の元素のどれとも一致いたしません」
「……未知の元素、ということか?」
国家安全保障局長の佐久間が、腕を組みながら険しい表情で眉をひそめる。
「現段階の科学的知見においては、そう判断せざるを得ません」
「つまり――」
内閣官房長官の西條が、腹の底から響くような低い声で尋ねた。
「これは、我が国の先進企業や製薬会社が極秘裏に開発した新薬などではない、ということだな?」
「絶対に不可能です」
神崎所長は迷いなく即答した。
「断言いたします。少なくとも現在のアース上の科学技術水準、および人類の保有する工業プラントでは、これを1分子たりとも精製することは不可能です」
その一言が落ちた瞬間、会議室の温度が数度下がったかのような錯覚を全員が覚えた。
国家安全保障局長の佐久間が重々しく呟く。
「他国の……超大国による極秘の軍事研究の成果が流出したと考えるのが妥当か?」
「我々も最初にそれを疑いました」
神崎はリモコンを操作し、一枚の写真を拡大して映し出した。そこには、ポーションが入っていたごく普通の小瓶が高精細な画像で表示されている。
「ですが、この試薬が入っていたガラス瓶の素材そのものが異常なのです」
「瓶が?」
「ええ。これは見た目こそガラスに見えますが、二酸化ケイ素ではありません。金属でもなく、未知の高分子材料でもない。現在、人類が知るいかなる物質の分子構造とも一致しない超高密度の結晶体です。さらに内部には一切の微粒子や不純物が存在しない。理論上、絶対真空下であってもあり得ないほどの純度を誇っています」
「……。」
科学の専門知識を持たない閣僚たちですら、神崎の言葉が意味する現象の「異常さ」と「人知を超えた何か」の存在を理解し始めていた。
東条総理が、組んでいた手を解き、静かに尋ねる。
「……送り主は判明しているのか?」
神崎は配送伝票の読み取り画像をスクリーンに映した。
そこには、手書きの癖のある字で大きく、
『差出人:匿名希望』とだけ書かれていた。
「発送された地域は東京都内であることまで特定できています。配送業者の荷物追跡システムと防犯カメラの解析を現在進めておりますが……」
公安調査庁長官の藤堂明が、手元の資料を鋭い目で見つめながら口を開いた。
「もし……もしこの『匿名希望』と名乗る人物の身元が割れる前に、諸外国の情報機関に察知され、国外へ連れ去られたりすれば……」
藤堂はあえてその先を言わなかった。言うまでもなかったからだ。
この「万能の霊薬」を独占的に手にした国家は、医療や福祉の負担から完全に解放されるだけではない。
圧倒的な兵士の生存率を誇る「軍事力」。
若返りと長寿による労働力の維持と「経済力」。
世界中の富裕層や権力者を掌握できる「外交力」。
そのすべてにおいて地球上のトップに立ち、世界の勢力図を一瞬で塗り替えることになる。
東条総理は静かに立ち上がった。
その動作一つで、会議室の全員が背筋を伸ばす。
「本件は――」
静まり返る地下会議室。東条総理の声が厳かに響く。
「本日この瞬間より、我が国の最高ランクにおける『国家最高機密案件』として指定し、処理する」
全員が深々と頷く。
「公安、警察、防衛省、ならびに情報機関は全能力を結集し、この送り主の身元を直ちに特定せよ」
総理はそこで一度言葉を切り、閣僚一人ひとりの目を強く見つめた。
「ただし――絶対に、粗暴な真似や強制力を伴う拘束を行ってはならない」
「総理?」
警察庁長官の桐生が問いかける。
「相手の意思を最優先とするのだ。我々は彼女……あるいは彼を、脅威としてではなく、我が国および全人類に計り知れない恩恵をもたらしてくれた『最重要保護対象』としてお迎えする。捜査官の軽率な行動によって相手の感情を損ねるようなことがあれば、それは我が国にとって取り返しのつかない損失となる。決して失礼があってはならない」
「承知いたしました」
桐生長官と藤堂長官が重々しく頭を下げる。
すると、公安調査庁長官の藤堂が懸念を口にした。
「総理。既に海外の噂好きのネットワークや、異例のアラートを察知した他国の情報機関が動き出している可能性があります。研究所の外部通信遮断は徹底させましたが、配送ルートの末端や現場の噂から情報が漏洩するリスクはゼロではありません」
その瞬間、会議室の空気が一段と重く引き締まった。
もしアメリカ、中国、ロシアといった超大国の諜報員たちが東京の街に解き放たれれば――この「匿名希望」を巡り、日本の首都が暗闘の戦場と化す。
東条総理は固い決意を込めて言った。
「時間との勝負だ。警察、公安、防衛省の全組織を動員し、何としても他国に先駆けて彼女を保護せよ。……繰り返すが、決して敵対するな。日本という国家がこの人物からの信頼を失えば……」
誰かが小さく、絶望を孕んだ声で呟いた。
「二度と、あの『神薬』は手に入らなくなるかもしれませんからね……」
その言葉に反論できる者は、誰一人としていなかった。
◇
一方、その頃。
国家の最高権力者たちが血眼になって自分を探し始めていることなど、露ほども知る由もない当の本人――。
「ん~……ふぁあ……」
東京都内の古びたアパートの一室。
クーラー(冷魔石)の冷気が心地よく循環する部屋で、少女はベッドの上でゴロゴロと転がりながら、お気に入りのスマートフォンを眺めていた。
「今日はどこの異世界に行こうかなぁ……」
手元の画面には、彼女特製のアプリによって検出された「次元の歪み」のリストが並んでいる。
「昨日のダンジョンの宝箱に入ってたあの赤いビン、一応『なんでも治る薬』って書いてあったから日本のすごい研究所に送ってみたけど……ちゃんと届いたかな? ま、ただの気休めみたいなものだろうし、どうでもいっか」
彼女の頭の中は、今から食べに行く今日のおやつと、次に足を踏み入れる異世界の冒険のことでいっぱいだった。
そして、自分の気まぐれな一口の思いつきが、日本という国、さらには世界全体の運命を激震させていることに、彼女が気づくのは……もう少し先の話である。
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