アメリカの方針
――アメリカ合衆国の首都、ワシントンD.C.において、午前七時十六分という早朝の時刻を迎えていた。
ホワイトハウスの地下深く、厳重なセキュリティで守られた国家安全保障会議・特別危機対策室では、重厚な防音扉の向こう側でアメリカ合衆国の国家中枢と軍事・情報機関を担う十数名の高官たちが一堂に会していた。
室内の照明は極限まで落とされており、暗闇の中で唯一の光源となっているのは壁一面を覆う巨大な高精細スクリーンである。
そのスクリーン上には、日本列島を中心とした東アジア一帯の最新の衛星画像が鮮明に映し出されていた。
そして、その画面のほぼ中央には、見る者の不安を煽るような赤い文字で二つの単語が表示されていたのである。
【POTION】
【万能傷薬】
息を詰めるような重苦しい沈黙が会議室全体を完全に支配していたが、やがて最奥の長机の席に深く腰掛けていた男が、重い口をゆっくりと開いた。
「……それでは、ただちに会議を開始しよう」
そう発言したのは、現アメリカ合衆国大統領であるリチャード・ハミルトンである。
六十代前半を迎えた彼は、長年にわたる過酷な政治経験によって培われた極めて鋭い判断力と、どのような緊急事態においても決して感情を揺らさず表に出しすぎない圧倒的な冷静さを兼ね備えた人物であった。
ハミルトン大統領は、正面のスクリーンに表示された不気味な文字から視線を一切外すことなく、隣の人物へと問いかけた。
「エドワード、昨夜から現在までに我が国の情報機関が判明させた事項について、最初の段階から順を追って詳しく説明してくれ」
「承知いたしました、大統領」
大統領のすぐ右隣の位置に座っていた男が、静かに立ち上がった。
彼は国家安全保障担当大統領補佐官を務めるエドワード・グラントであり、五十代半ばに達した長年にわたる国家安全保障分野での豊富なキャリアを持つ、ホワイトハウス内でも屈指の優秀な実務派として知られていた。
グラントは手元に置いた専用のタブレット端末を迅速に操作した。
「昨夜、我々の情報分析部門が日本国内における複数の暗号化された異常な通信パターンを偶然にも検出することに成功いたしました」
彼の操作に従って、スクリーン上の表示が次々と新しいデータへと切り替わっていく。
そこには日本政府の各省庁、国立の研究機関、主要な医療施設、そして大手製薬関連施設の位置を示す無数のデータがプロットされていった。
「判明した当初は、日本国内で通常行われている先端医療の研究活動、あるいは政府主導による全く新しい新薬開発プロジェクトの一環である可能性も十分に考慮しておりました」
「しかし、ただの通常研究ではないと判断したわけだな?」
ハミルトンが先を促すように静かに尋ねる。
「仰る通りです。複数の主要な政府機関と研究機関が、ほぼ同時期に一斉に極めて高い警戒レベルへと移行している実態が判明したためです」
グラントはさらに画面の表示を切り替えながら説明を続けた。
「しかも、その異常な警戒活動の範囲は単一の省庁や特定の一研究機関だけに限定されているわけではありません」
「具体的にはどの程度の規模にまで広がっているのだ?」
「内閣府をはじめ、厚生労働関連の諸機関、防衛省に連なる組織、国立の先端研究機関、さらには主要な医療施設に至るまで……現在確認できている範囲だけでも相当な数の重要機関に及んでおります」
その報告を聞いたハミルトンの眉が、僅かにピクリと動いた。
「それはまるで……」
大統領が口にし懸けた言葉を自然に引き取ったのは、会議室の左側に位置する席に座っていた男であった。
CIA(中央情報局)長官であるアラン・マッケンジー。
五十代後半の彼は、常に冷静沈着な態度を崩さない諜報のプロフェッショナルであった。
「まるで、日本政府全体が一つの未公表の案件を中心に一丸となって動いているように見える――まさにそういう状況でございます」
マッケンジーは、感情を挟まない淡々とした口調で説明を続けた。
「その認識で間違いございません、大統領」
「アラン」
「はい、何でしょうか」
「その日本全体を動かしている『一つの案件』とは、一体何なのだ?」
マッケンジーは回答する前に一瞬だけ沈黙を挟み、周囲の反応を確認した。
そして、静かに言葉を紡いだ。
「……極めて遺憾ながら、現時点においては明確な確証を持って断定することはできません」
「だが、何らかの決定的な手がかりは既に掴んでいるのだろう」
「はい、その通りです」
マッケンジーは手元に準備していた極秘資料のファイルを開いた。
「我々が昨夜の通信解析で捕捉した記録の中に、通常ではあり得ない極めて奇妙な単語が含まれておりました」
彼の合図とともに、スクリーン上に大きく二つの文字列が強調表示される。
【POTION】
【万能傷薬】
「ポーション……だと?」
その単語を目にした国防長官のウィリアム・カーターが、眉間に深いシワを寄せて困惑の声を漏らした。
五十代後半の元軍人である彼は、軍事および安全保障の分野に関しては会議室の誰よりも現実的かつ合理的な判断を下すことで知られている人物である。
「一体これは何を意味しているのだ?」
「現段階では正確な意味は解明できておりません」
マッケンジーがそのまま回答した。
「少なくとも、我々のデータベースに登録されている既存のいかなる医薬品名や開発コードとも一致しない概念です」
「なら、日本側が使用している何らかの隠語や極秘プロジェクトのコードネームに過ぎないのではないか?」
カーターが疑問を呈するように尋ねる。
「その可能性も十分に考えられます」
マッケンジーは同意するように深く頷いた。
「ですが、その謎の単語が通信上で検出された直後から、日本国内の政府系および医療系の通信ネットワーク全体において大規模かつ不可解な構造変化が発生しているのです」
「単なる偶然の一致として処理するには、あまりにも出来過ぎているな」
そう低い声で呟いたのは、情報収集の専門機関であるNSA(国家安全保障局)長官のロバート・ヘイズであった。
「我々情報部門も全く同じ結論に達しております」
ヘイズはスクリーン上の特定のデータを指し示した。
「こちらの通信量の推移を示す詳細なグラフをご覧ください」
画面には通信トラフィックの変動が映し出され、通常時には極めて緩やかな上下を繰り返しているのが見て取れた。
しかし、特定の時刻を境界線にして、そのグラフは垂直に近い角度で一気に跳ね上がっていたのである。
「この『POTION』という文字列が確認された直後を境界として、日本政府系の極秘ネットワークにおける暗号通信の流量が、過去に例を見ないほど異常なレベルまで急増しております」
「ということは、日本側が我々の監視網や何らかの外圧の存在に気づいたとでもいうのか?」
ハミルトンが鋭い視線を向けながら尋ねた。
「その可能性は十分に排除できません」
ヘイズが淡々と答えた。
「我が国の長年にわたる監視活動の存在を、過敏になった日本側が敏感に察知して警戒レベルを最大に引き上げた可能性も否定できない状況です」
その言葉を受けて、再び室内に重苦しい沈黙が降り積もった。
すると、それまで静観していた国務長官のジェームズ・ウィルソンが、落ち着いた口調で静かに発言を始めた。
「大統領」
「何だね、ジェームズ」
「私から一つ、外交的な観点から事前に確認しておきたい事項がございます」
ウィルソンはスクリーンに大きく映し出された日本列島の地形を静かに見つめながら言った。
「我々は現在に至るまで、日本側から直接的あるいは物理的な敵対行動を何一つ受けているわけではありません」
「そんなことは重々承知している」
「であればこそ、我が国から先走って過剰な諜報活動や不必要な圧力をかけるような行動に出るべきではないと考えます」
それに対してカーター国防長官がすぐさま反論の声を上げた。
「だが、もしその『ポーション』とやらが、世界のパワーバランスを根本から崩しかねない未知の医療技術であった場合はどうするつもりだ?」
「だからこそ、一歩間違えれば同盟関係を壊しかねない事態に対しては、最大限に慎重なアプローチを取るべきなのです」
ウィルソンは感情的になることなく、徹底して冷静な外交姿勢を保っていた。
「日本は我が国にとって最も重要な同盟国の一つです。もしこれが単なる革新的な新しい医療技術の発見に過ぎなかった場合、我が国が過剰な諜報活動を強化してしまえば、長年築き上げてきた日米同盟の信頼関係そのものを致命的に損なう危険性があります」
「では君は、この異常事態に対して手をこまねいて何もしないでいろと言うのか?」
カーターが強い調子で問い返す。
「私は何もしなくていいなどとは一言も申し上げておりません」
ウィルソンはゆっくりと首を横に振った。
「不法な裏の諜報活動ではなく、正式かつ正当な外交ルートを通じて直接事実関係を確認すべきだと言っているのです」
「正面切って堂々と日本側に問い詰めるというのか?」
「はい、それが最も誠実かつ安全な手段です」
「『日本政府は我々に隠れてポーションなる秘密兵器でも開発しているのか』とでも聞くつもりか?」
カーターの皮肉に満ちた問いかけに対し、ウィルソンは眉一つ変えずに答えた。
「当然ながら、そのような露骨で愚かな尋ね方をするつもりは毛頭ございません」
その激しい議論の最中、不意に低い声が響いた。
「……待て」
ハミルトン大統領が静かに、しかし絶対的な制止の力を込めて言った。
議論していた全員が即座に口をつぐみ、大統領の方へと一斉に視線を向けた。
「我が国以外における世界各国の動きは、現在どのような状態になっている?」
その問いに対し、国家安全保障担当補佐官のエドワード・グラントが即座に回答した。
「現時点で我々の監視網が把握できている範囲におきましては――諸外国に特別な動きは見られません」
「中国の動向はどうだ?」
「アジア情勢に関して、特段の異常な軍事動員や通信の急増などは確認されておりません」
「ロシア側はどうか?」
「こちらも同様に、通常運転の範囲内にとどまっております」
「ヨーロッパ各国の情勢はどうなっている?」
「……こちらも確認した限り、ほぼ平常通りの通信トラフィックを維持しております」
ハミルトンの鋭い目がさらに細められた。
「我が国と最も密接な情報共有を行っているイギリスもか?」
「はい、例外ではございません」
「フランスの動きも通常通りか?」
「はい、変化はありません」
「ドイツに関しても同じか?」
「はい、大統領。間違いございません」
グラントは言葉を選びながら慎重に説明を付け加えた。
「少なくとも我々アメリカ合衆国が補足できる情報網の範囲内においては、今回の日本における異常事態を特別に追跡したり察知したりしている兆候は他国には見受けられません」
ハミルトンは大統領の椅子で静かに沈黙した。
大型スクリーンには世界地図が映し出されており、日本の周囲にだけアメリカ側が独自に設定した赤く光る警戒マーカーが集中して表示されていた。
しかし、それ以外の広大な大陸や地域には、警戒を示すマーカーなどほとんど存在していなかったのである。
「……つまり、こういうことだな」
大統領が噛み締めるように呟いた。
「我が国は現在のところ、世界のどの国よりも先にこの日本の異常事態に気づくことができている」
「その可能性が極めて高いと考えられます」
マッケンジー長官がその分析を補強するように答えた。
「この『情報の先占』は、我が国にとって決定的に重要な戦略的意味を持ちます」
「アラン、詳しく説明してくれ」
「もし仮に、この『ポーション』と称される存在が我々の推測しているような世界を一変させるレベルの未知の医療技術、あるいはそれに類する革新的な何かであるとするならば――」
マッケンジーはそこで一度言葉を切り、全員の表情を見渡した。
「他国がその存在にすら気づいていないこの決定的なタイミングで、我が国だけが独占的に日本政府と接触を図り、交渉の主導権を握ることができるのです」
その説明を聞いたカーター国防長官が腕を組み、深く納得したように頷いた。
「つまり我が国が圧倒的な先行権と圧倒的な優位性を確保できる、ということだな」
「左様でございます」
しかし、外交の専門家であるウィルソン国務長官は依然として慎重な姿勢を崩さなかった。
「ですがそれは同時に、我が国が無闇に大きく動くことによって、まだ気づいていない他国に対して重大な事案の存在を自ら教えてしまうという致命的なリスクもはらんでおります」
「……なるほど、一理あるな」
ハミルトンはゆっくりと頷いた。
「現段階においては、まだ世界の大半の国々が日本の変化について何も知らずにいる」
「まさにその通りでございます」
「ならば、この貴重な情報の価値を落とさないためにも、外部へ絶対に漏らすような真似をしてはならない」
大統領の声が一層低く、絶対的な拒絶の響きを帯びる。
「中国に対してはこの存在を一切知らせてはならない」
「はい、徹底いたします」
「ロシア側に対しても、当然ながら極秘扱いだ」
「承知いたしました」
「ヨーロッパの同盟国に対しても同様に伏せておけ」
グラント補佐官が手元の端末に即座にその方針を記録していく。
「了解いたしました、ただちに情報統制の指示を出します」
ハミルトンは背もたれへと深く身体を預け、厳しい表情で一同を見回した。
「今、この危機対策室の中にいる人間と、国家の運営上どうしても知る必要がある最小限の権限保持者のみでこの情報を共有する」
そして、誰にも異論を挟ませない絶対的なトーンで告げた。
「本件に関する全てのデータおよび議論は、国家最高機密として扱うものとする」
その場にいた全員が、無言のまま重々しく首を縦に振った。
だが、そのときカーター国防長官がふと思い立ったように口を開いた。
「大統領」
「何だ、カーター」
「仮にではございますが、この件が本当に我々の想像を超えるような未知の医療技術であった場合……当事国である日本はそれを一体どのように扱うつもりだとお考えですか?」
「現時点では見当もつかん」
ハミルトンは大統領として即座に答えた。
「だからこそ、我々は一刻も早くその真実を知る必要があるのだ」
そう言い捨てると、大統領はゆっくりと椅子から立ち上がった。
室内の全員の集中した視線が、一斉に彼に集まる。
「エドワード」
「はい、大統領」
「日本政府のトップと迅速に接触できるよう、裏で水面下の準備を進めろ」
「それは通常の外交ルートを通じて行うべきでしょうか?」
「いや」
ハミルトンは明確に首を横に振った。
「私から直接、日本の首相に対してトップ会談の形で連絡を入れる」
その決断に対し、緊張感漂う室内に僅かな動揺とざわめきが広がった。
「大統領自らが直接、お話しになられるのですか?」
グラントが事態の大きさを再確認するように尋ねる。
「そうだ」
ハミルトンはスクリーンに映し出された遠く離れた日本列島の画像をじっと見つめた。
「ただし、会話の最初から『ポーション』という具体的なキーワードを絶対に口に出すな」
「……承知いたしました」
「我が国が一体どこまでの詳細な情報を掴んでいるのか、相手に決して悟らせるような真似をしてはならない」
「はい、慎重に対応いたします」
「まずは、普段通りの定期的な外交協議の延長線上として、ごく自然な対話を装って話を進める」
ハミルトンの表情は徹底して冷静そのものであった。
しかし、その奥にある瞳には、国家の未来を左右する出来事に対する強い警戒と計算が宿っていた。
「そして――」
大統領は、確信に満ちた静かな声でゆっくりと言葉を繋いだ。
「日本側の口から、自らその秘密を我々に明かしたくなるように上手く誘導して仕向けるのだ」
「了解いたしました」
会議室の中に、息が詰まるほどの静かな緊張感が急速に広がっていく。
そこにいた誰もが明確に理解していた。
まさにこの瞬間から。
アメリカ合衆国という超大国は、日本という同盟国に対して、これまでとは根本的に異なる警戒と計算が入り混じった視線を注ぐことになるのだということを。
そして。
もし日本側が本当に人類の歴史を揺るがすような何かを発見・獲得しているのだとしたら――。
それは、アメリカがこれまでの歴史で経験したことのないほど巨大な規模の国家戦略上の安全保障問題へと発展していくことになる。
ハミルトン大統領は最後に、スクリーン上に静かに佇む日本列島をじっと見つめながら、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。
「……一体全体、日本という国は我々の知らぬ間に何を手に入れてしまったのだ?」
その問いに答えることができる者は、この室内に一人として存在しなかった。
ただ一つだけ。
この極秘会議に出席していたトップ全員が、胸の中で全く同じ冷や汗が出るような予感を共有していた。
――我々はまだ、この異変の真実について何も知らない。
だが。
――このまま何も知らないままで放置しておくには、あまりにも国家の運命を左右する重大すぎる局面に差し掛かっている。
◇ ◇ ◇
全く同じ時刻。
大西洋を挟んだヨーロッパ大陸各地。
イギリスの首都ロンドン。
フランスの首都パリ。
ドイツの首都ベルリン。
EUの本部が置かれたブリュッセル。
さらにはロシアのモスクワ。
そしてアジアの大国、中国の北京。
世界を動かすいかなる主要国の政府中枢においても、日本を巡って発生しつつある異常事態について特別な緊急会議が開かれているわけではなかった。
世界中の人々や国家はまだ、東アジアの小さな島国で何が起きようとしているのかについて一切何も知らなかった。
日本という土地でひっそりと生まれたたった一つの異常な変化が。
やがて地球規模で世界のあらゆる常識や前提を覆し、巨大な波紋となって全土を飲み込んでいくことなど――。
この時点では、地球上の誰一人として予想すらしていなかったのである。
その世界中の静寂の中でただ唯一。
アメリカ合衆国という超大国だけが、まだ誰も存在すら気づいていない未知の「巨大な異変」の兆候を、着実にその手で掴み始めていたのであった。
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