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13/20

二国の情報戦

翌朝――。


午前七時三十分。


都内某所。


それは、昨日までと何ひとつ変わることのない、どこまでも静かで穏やかな朝の訪れだった。


水平線の彼方にある薄い雲の隙間から柔らかな朝日がゆっくりと差し込み、重厚なセキュリティに守られたセーフハウスの窓辺を、温かなオレンジ色の光で優しく照らし出している。


静けさの中に響く小鳥たちの伸びやかな鳴き声。


はるか遠くの幹線道路を静かに走り去っていく、かすかな自動車の走行音。


そして――。


「……ん……ふぁ……」


清潔なシーツとふかふかの羽毛布団に包まれたベッドの上で、春奈がゆっくりと時間をかけて目を覚ました。


「……もう、朝……なのかな……?」


まだ重い瞼と眠気の残る瞳を小さな手で何度もこすりながら、暖かい布団の中で体を丸めて小さく伸びをする。


「ふわぁ……よく寝たぁ……」


昨夜、何ひとつとして不安を覚えることもなく平穏な眠りについた春奈にとって、今日という日もまた、昨日までとまったく変わらないごく普通の日常の一日として始まったに過ぎなかった。


しかし。


彼女が与り知らぬ完全な世界の外側においては――。


全世界の動向は、すでに昨日までとはまったく異なる異常かつ急激な速度をもって動き始めていたのである。



ワシントンD.C.


国家安全保障関連施設。


現地時間、午前六時四十二分。


「……大統領へ即時提出する極秘報告書の作成は、すでに完了したか?」


空気の冷え切った薄暗い地下作戦会議室。


壁一面を埋め尽くす巨大な高精細スクリーンの前に立ち、鋭い眼光を放ちながら主任が問いかけた。


「はい。各部門のデータ検証および最終的な文面チェックまで、すべて滞りなく完了しております」


若手解析官が張りのある声で、だが緊張を隠せない様子で答える。


青白く光る大型スクリーンには、昨夜から徹夜作業を続けて作り上げられた、最重要機密の報告書データが表示されていた。


そこに刻まれた重々しいタイトルは――。


【極秘分析報告】


【日本国内における未確認医療技術の存在可能性およびその影響について】


そのタイトルの下には、外交的摩擦や誤認を徹底的に避けるため、極めて慎重かつ厳密に選び抜かれた客観的な文章が整然と並べられている。


不確実な推測や断定的な表現は巧みに排除されている。


裏付けとなる証拠能力の低い雑多な情報も、すべて容赦なく削ぎ落とされていた。


それにもかかわらず――。


そこに記された事実関係を順に読み進めていきさえすれば、現在日本で起きている事態の異常性は、誰の目から見ても明白であった。


「『未知の高度医療物質、または未解明の生物学的検体が、現在日本政府の極めて厳重な管理下に置かれている可能性が非常に高い』」


主任が静かに、そして重々しく文章を読み上げていく。


「『複数の日本政府中枢機関、主要国立研究機関、ならびに主要医療施設が、同時並行的に緊急の関連調査活動へ移行している事実から鑑みるに、これは単一の民間組織による独立した研究などではなく、日本国という国家レベルで推進されている統合プロジェクトである可能性が極めて高い』」


そこまで読み上げたところで、主任は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。


「そして報告書の最下部……結論として添えられたのは、これか」


画面の最下部、最も視線を集める赤い枠線の中。


そこには、世界勢力図の激変を予感させる最も重要な一文が、明瞭に刻み込まれていた。


【本件に関する分析結果が事実である場合、当該技術は既存のグローバルな医療・製薬産業のみならず、各国の軍事、世界経済、将来的な人口動態、ひいては国際安全保障体制の根幹に対して計り知れない重大な影響を及ぼす可能性がある】


「……よし、ただちにこれを大統領への直接報告ラインへと回せ」


「了解いたしました。最高度暗号化の上、緊急転送します」


「それから――」


主任は指先で顎をさすりながら、慎重に思考を巡らせた。


「この極秘情報にアクセスできる人間の数を、これ以上無暗に増やしすぎるな」


「しかし主任、国家安全保障会議(NSC)幹部メンバーへの情報共有はいかがいたしますか?」


「それに関しても、現時点では必要最低限のキーパーソンだけに厳しく限定しろ」


主任は地鳴りのような低い声で言葉を続けた。


「今の段階においては、我々自身が一体いかなる怪物を追っているのかすら、完全には把握できていないのが実情なのだからな」


「はい、仰る通りです」


「そのような曖昧な状態で安易に情報を周囲へ撒き散らせば、国家機関内部に余計な大混乱と情報漏洩を引き起こすだけに終わってしまう」


若手解析官は納得したように深く頷いた。


まさにその瞬間であった。


重厚な防音構造を持つ会議室の自動扉が、シューという空気音とともに滑らかに開いた。


「失礼します。緊急のアップデートです」


部屋に入ってきたのは、隣接する情報分析部署に所属する上級職員であった。


その表情は硬くこわばり、深刻な事態の発生を物語っていた。


「どうした、何か新たな進展でもあったのか?」


「日本側の通信インフラにおいて、極めて顕著な新しい変化が検出されました」


「日本関連の動きか?」


「……はい、間違いありません」


その一言が出た瞬間、室内のピンと張り詰めた空気がさらに一段と緊張感を増した。


上級職員は手にした高セキュリティ仕様のタブレット端末を、中央の会議用デスクの上に滑らせるように置いた。


「昨夜、我々のチームが通信ログの中から『ポーション』および『万能傷薬』という極めて不審な二つのキーワードを検出した直後から、日本国内における政府・医療系の通信パターンに劇的な変化が確認されたのです」


「具体的な変化の内容とは?」


「はい、こちらのグラフをご覧ください」


スクリーン上に、時間経過に伴う暗号データ量の推移を示す鮮やかな折れ線グラフが表示される。


日本国内の主要な官公庁および暗号通信回線におけるデータトラフィック。


それが、昨夜の特定の時刻を境にして、まるで垂直に切り立つ崖のように急激な増加を見せていた。


「これは……一体どういうことだ?」


「日本政府当局が、外部からの何らかの情報閲覧、あるいは情報漏洩の兆候を敏感に察知した可能性が極めて高いと考えられます」


主任の険しい表情が、さらに険しさを増した。


「我々のサイバー解析活動や監視行動に、あちら側がすでに気づいたとでも言うのか?」


「現時点でのデータから完全に断定することは不可能です。ただし――」


上級職員は端末を操作し、さらに詳細な通信解析データを画面上にオーバーレイさせた。


「昨夜遅くから本日未明にかけて、日本国内の複数の政府系通信網および高度研究機関のネットワークにおいて、通常運用されているものとは明らかに異なる最高レベルの暗号化プロトコルへの一斉切り替えが確認されています」


「つまり、彼らの狙いは何だ?」


「日本政府が、自国の通信空間そのものの安全保障レベル、あるいは警戒ランクを一段階引き上げた可能性が極めて高いということです」


主任は胸の前で重々しく腕を組み、画面の数値をじっと見つめた。


「……向こうの首脳陣も、我々の動きや外部からの視線を明確に警戒し始めたというわけか」


「そのように解釈するのが最も妥当かと存じます」


「フッ……ますます面白くなってきたじゃないか」


口から出た強がりな言葉とは裏腹に、主任の厳格な表情には笑みや余裕など一切浮かんでいなかった。



同時刻。


日本・内閣府地下特別対策室。


「……昨夜から本日未明にかけまして、海外主要国の情報機関と思われる通信アクセスや情報収集の動きに明確な変化が現れ始めています」


何台もの高度なサーバーラックが低音を響かせる広大なオペレーションルームで、壁一面の巨大モニターに向かい、複数の専門解析官たちが追撃するように流れてくる情報を目まぐるしく整理していた。


そのオペレーターたちの背後、中央の指揮デスクに堂々と立っていたのは――。


対策室の指揮を執る神崎所長であった。


「通信の発信源は、やはりアメリカか?」


「現時点の多層的なプロキシを経由したデータだけでは、特定国家の関与を断定することはできません。ですが、明らかに北米方面のIPアドレス群から、日本国内にある特定の高度医療研究施設や製薬研究所のデータベースに対する間接的な検索リクエストが急増しています」


「……海外の察知速度が、我々の想定よりも遥かに早いな」


神崎は苦虫を潰したような顔で深く眉をひそめた。


昨日までの段階であれば、単なる偶然の検索重複や通常の産業スパイ活動として処理することも不可能ではなかった。


しかし。


日付が変わった今日になって、いくつもの決定的な異常現象が同時多発的に重なり合っている。


海外の大学や研究所から国内研究機関への不自然な共同研究の問い合わせ。


日本上空を通過する偵察衛星による高分解能画像の取得リクエストの増加。


主要通信回線における不自然な通信パターンのゆらぎ。


そして、複数の海外情報機関が張り巡らせている諜報網による、目に見えて不自然な情報収集活動の活発化。


「……やはり、我々がポーションや傷薬の存在を捕捉したのと同様、彼らも何らかの破片を察知したか」


「所長」


神崎のすぐ隣に控えていた佐藤研究員が、周りに聞こえないほどの慎重な声量で口を開いた。


「我々が事前にシミュレーションしていたシナリオよりも、海外への情報伝播および察知のスピードがあまりにも早すぎます」


「ああ、痛いほど分かっている」


神崎は静かだが揺るぎない声で答えた。


「だからこそ、今後は一筋の隙も見せることなく、これまで以上に慎重かつ迅速に動かなければならないのだ」


「承知いたしました。すぐに指示を」


「現在、春奈さんが滞在しているセーフハウスおよび周辺の研究機関に対する警備体制のレベルを、直ちに一段階引き上げろ」


「了解いたしました。特殊部隊の増派を手配します」


「ただし――」


神崎は一瞬だけ言葉を遮り、何かを慈しむかのように思考を巡らせた。


「春奈さん本人の日常生活や精神環境に対しては、絶対に何らかの変化や異変を感じさせてはならない」


佐藤研究員は予想外の指示内容に、少し驚いたように目を見開いた。


「……警備を強化しながらも、ご本人には現在の緊迫した世界状況を一切知らせないとおっしゃるのですか?」


「そうだ、今の段階では彼女に余計な事実を知らせる必要はどこにもない」


「ですが、もし万が一の事態が起きた際のリスクを考慮すると――」


「彼女自身は、何ひとつとして悪いことなどしていないのだからな」


神崎は迷いのないきっぱりとした口調で言い放った。


「自分が異世界から持ち帰ったものが一体何をもたらすのかすら、まだ完全には理解しきれていない幼い彼女に対して、世界情勢の重圧や国家間の泥沼の情報戦まで背負わせる必要など毛頭ない」


「……深く納得いたしました。その方針で完璧に徹底いたします」


神崎は再び巨大なメインモニターへと視線を戻した。


そこに映し出されていたのは、日本列島を中心に地球全体を俯瞰する、美しい世界地図のホログラム映像であった。


東端に位置する日本。


太平洋を挟んだアメリカ。


ユーラシア大陸に広がるヨーロッパ各国。


巨大な存在感を放つ中国。


北方に鎮座するロシア。


そして――。


世界各地に点在する主要都市の座標の上に、次々と小さく赤い警戒マーカーが、不気味なシグナルのように不規則に灯っていく。


「……世界中の誰も、まだこの薬の背後に隠された本当の真実など何ひとつ知らない」


神崎が誰に聞かせるでもなくぽつりと呟いた。


「だが、世界がその真実に到達するのも、もはや時間の問題かもしれないな」

読んでいただきありがとうございます!

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