勘付かれ始めた日本
「国家という巨大な機構全体が、まるで各省庁の間に存在する強固な縦割りの垣根を完全に撤廃してしまっているかのように見えます……
そして、たった一つの異質な『何か』を、国家の総力を挙げて死守し、解明しようとしているようにしか思えません」
若手解析官が掠れた声で吐き出したその言葉に対して、主任は深い沈黙を守ったまま、微動だにせず考え込んでいた。
やがて彼は、長い間手の中でぬるくなっていたコーヒーカップを、音も立てずにそっと木目のデスクへと置く。
「……つまり、お前はここで私にこう言いたいというわけか?」
「はい、間違いありません」
若手解析官はごくりと唾を飲み込むと、壁一面を覆う巨大なメインモニターをゆっくりと見上げた。
「日本政府は現在、国家の存亡に関わるレベルの未確認情報、すなわち国家機密級の何かを突如として発見したのです。
そして、それが軍事、医療、先端科学、ひいては世界経済に至るまで……あらゆる分野の根幹を揺るがす可能性があるからこそ、政府全体を巻き込んだ異常な体制を敷いているのです」
「……あまりにも荒唐無稽な仮説だな」
「果たして本当にそう言い切れるでしょうか?」
若手解析官は指先を素早く走らせ、別の詳細なデータ画面をモニターに展開した。
そこに次々と表示されたのは、日本国内各所に点在する主要な研究機関における、ここ数時間の不審な動向のログだった。
国立大学の研究室。
民間製薬会社の研究所。
防衛省の傘下にある最先端の防衛関連研究施設。
厚生労働省が直轄する高度医療機関。
さらには、海外の優秀な研究機関と進めていた国際共同研究プロジェクトを、何の前触れもなく一時的に完全停止させた研究グループまで存在しているのだ。
「ここ数時間という極めて短い間に、日本国内の複数の高度研究施設が、極秘指定のもとで特殊な分析機器の優先確保に動いています」
「一体どんな分析機器を確保しているというんだ?」
「高精度の質量分析計、透過型電子顕微鏡、次世代遺伝子解析装置、消してそれから……」
若手解析官は一瞬だけ言葉を詰まらせ、言葉を選ぶように息を整えた。
「本来であれば、未知の植物由来物質や複雑な有機化合物を解析するためにのみ用いられる特殊な分析機器群です」
その報告を聞いた瞬間、主任の眉間にしわが寄った。
「……植物だと?」
「はい、データ上は明確にそうなっています」
「……まさか、新種の生物兵器や植物兵器とでも言うつもりか?」
「現時点の限られた情報だけでは、正確な判断は下せません」
若手解析官はどこか困惑した様子でゆっくりと首を振った。
「ただし、本当に奇妙であり、かつ解せないのはここからのデータなのです」
新しい機密資料が、青白い光を放つスクリーン上に鮮明に映し出される。
そこに整然と並んでいたのは、日本政府が過去数十年間にわたって国内外で取得・管理してきた医療および生物工学関連の膨大な特許情報の一覧だった。
「日本国内のあらゆる製薬関連企業や研究機関に対して、政府当局が異例とも言える電撃的な速度で特許情報の精査と再調査を進めています」
「既存の登録技術に関する大規模な洗い直しか?」
「おそらく、その線で間違いありません」
「彼らは何か未知の革新的技術を新しく発見したからこそ、それに酷似するような既存の特許がすでに存在しないかを血眼になって探しているというのか?」
「分析結果から見ても、その可能性が極めて高いと考えられます」
主任は胸の前で重々しく腕を組み、険しい表情を浮かべた。
「……では仮に、その『何か』という物体は、現代の既存の科学技術や物理法則の枠組みでは到底説明がつかない存在だとでも言うのか?」
「そう推測するのが、現在のすべての状況証拠に最も合致する自然な考え方です」
二人の会話が途切れると、巨大なオペレーションルーム内に再び重苦しい沈黙が降り積もっていった。
カタカタカタ……カタカタ……。
広大な室内に並ぶ数百台の高度情報端末から発せられる、オペレーターたちの高速なキーボード打鍵音だけが、不気味なBGMのように規則正しく響き続けている。
まさにその時だった。
「主任!」
少し離れた列に座っていた別の解析官が、緊張で引きつった大声を入室以来初めて張り上げた。
「どうした、何か大きな動きがあったのか!?」
「日本国内の医療関係者間で行われている高負荷暗号通信の中から、きわめて異質な単語が検出されました!」
「何だと? 一体どんな単語だ!」
「極めて高度に暗号化されたデータ通信の一部において、不自然なほど高頻度で繰り返し登場しているキーワードが存在します」
主任は即座に体を翻し、声のした方向へ向かった。
「該当の通信ログをメインモニターに表示しろ!」
大型モニターの中央に、解読されたたった一つの単語が大きく拡大されて表示された。
――『ポーション』。
「……ポーションだと?」
主任は露骨に不快感と疑問を露わにし、深く眉をひそめた。
「オンラインゲームか何かのファンタジー用語の話をしているのではないのか?」
「私も最初は、どこかのシステムエラーか個人の雑談データの混入かと疑いました」
解析官は激しく首を振ってその推測を否定した。
「ですが、この単語が使われているコンテキストと出現頻度が、あまりにも異常なのです」
画面上には、過去二十四時間以内に日本国内の政府・医療ネットワーク間でやり取りされた厳重な通信ログがズラリと表示されている。
『検体A』
『ポーション』
『被験体への投与』
『驚異的なレベルの細胞修復』
『予測不能な生体反応』
『最高ランクでの厳重保管』
『レベル7以上の国家機密』
「……」
その文字の並びを目にした瞬間、主任の疲弊しきった表情から、眠気と油断が完璧に消し去られた。
「……細胞修復だと?」
「はい、間違いなくそう記述されています」
「一体全体、具体的にどういう意味なんだ?」
「完全な文脈までは解読に至っていません。ただ……」
解析官は震える手で別の通信解読資料を画面にドッキングさせた。
「こちらの医療専門ラインの通信では、『悪性腫瘍』という致命的な病名を指す単語も、高頻度で組み合わされて登場しています」
主任は微動だにせず、しばらくの間その画面に表示された文字列を食い入るように見つめていた。
そして、掠れた低い声でゆっくりと口を開いた。
「……まさか、な」
「何か思い当たる節がおありなのですか?」
「日本政府が……人類の悲願である癌治療に関する、あまりにも革命的な新技術を密かに手に入れたという可能性は考えられないか?」
「しかし、もし仮にそれが画期的な癌の特効薬に過ぎないのだとすれば、国家全体でここまで過剰に情報統制を行い、警戒を強める必要があるでしょうか?」
「……いや、必要ないな」
主任は一切の迷いなく即答した。
「単なる癌治療薬の開発に成功しただけならば、いずれ時期が来れば世界中に向けて大々的に発表され、国際社会での名声を獲得するはずだ。日本一国だけで世界から完全に存在を隠蔽し、封印するメリットがどこにもない」
「だとするならば、一体……」
「我々の想像を遥かに超える、もっと巨大な何かだ」
主任は噛みしめるようにそう呟いた。
「単なる新しい医療技術そのものの発見ではなく、その技術が存在することによってもたらされる『国家的な価値』があまりにも巨大すぎるんだよ」
若手解析官は息を呑み、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
主任は巨大な画面の一点を行き場のない指先で指し示した。
「もしも、この未知の薬が単なる癌細胞の破壊だけでなく……」
言葉の重みに耐かねるように、一瞬だけ言葉を選び直す。
「人間という生命体そのものの損傷を、根本から修復・再生してしまうような奇跡的な代物だったとしたらどうだ?」
「……」
「もしも、絶対に助からないはずの瀕死の重傷者を、一瞬で完全救命できるとしたら?」
「……」
「もしも、非可逆的とされる複雑な臓器の損傷すら、元通りに回復させられるとしたら?」
「……」
「もしも……生物にとって不可避である『老化』という現象すら、劇的に抑制・逆転させることができるのだとしたら?」
オペレーションルームにいた全員が息を止め、誰一人として口を開く者は me なかった。
主任は静まり返った室内で、さらに容赦なく言葉を重ねる。
「そんな神の領域に等しい技術を、もしも日本という一国家が独占していたとしたら、一体どうなると思う?」
その恐ろしい問いかけの真意を理解した瞬間、若手解析官の顔面から一気に血の気が引いていった。
「……現在存在する世界中の医療市場と製薬産業の構造が、根底から完全に崩壊し、ひっくり返ります」
「それだけに留まらない」
主任は、地獄の底から響くような低い声で吐き捨てた。
「世界の軍事医療における常識すらも、根底から激変することになる」
「……!」
「過酷な戦場で瀕死の致命傷を負った兵士が、今までの常識であれば長期の入院や除隊が必要だった傷から、極めて短い時間で戦線復帰できるようになる。そうなれば補給や兵站の概念そのものが劇的に変わり、ひいては近現代の軍事作戦のあり方そのものが変貌を遂げるのだ」
「世界の主要国間におけるパワーバランスすら、不可逆的に崩れていく……」
「その通りだ」
主任は、不気味な静寂を保つ画面の日本列島をじっと見つめた。
「だからこそ、日本政府は全力を挙げてこの事実を世界から隠蔽しようとしているんだ」
まさにその決定的な瞬間だった。
オペレーションルームの中央に鎮座するメインスクリーン全体が、突如として禍々しい鮮赤色に激しく点滅を始めた。
【新規最優先情報受信】
【緊急重要度:最高レベル】
「何が起きたんだ!?」
室内にいたオペレーターと解析官たちが、一斉に己の端末へと弾かれたように向き直る。
「日本国内の厳重保護通信ラインから、さらに新たな重要キーワードが連続して検出されました!」
「出力を急げ! すぐに読み上げろ!」
「……『万能傷薬』です!」
主任は光る画面を見つめ、険しく目を細めた。
「万能……傷薬だと?」
「はい、間違いありません」
「通信データの詳細は解明できたのか?」
「最高幹部クラスの医療関係者間で行われている極秘通信です。どうやら、本日新たに特定の施設へと持ち込まれた未知の検体について、緊急の議論が行われている模様です」
「先ほどの『検体A』とは別の存在なのか?」
「はい、通信内では明確に『検体B』というコードネームで区別されて呼ばれています」
主任の顔つきが、明確な驚愕と戦慄へと変化した。
「二種類もの未知の物質が存在するというのか……」
「データ上は、そのように解釈するほかありません」
解析官は震える指で次々と通信データのログを追っていく。
「この『検体B』に関しては、『物理的な創傷治癒』『瞬時の止血』『超活性化した組織再生』さらには『瘢痕形成の完全な抑制』という、驚くべき臨床的単語が確認されています」
「……」
「主任……?」
「……もし、そこに表示されているデータがすべて紛れもない事実なのだとしたら」
主任は椅子の肘掛けを掴み、ゆっくりと、だが圧倒的な威圧感を伴って立ち上がった。
「日本という国は、人類の歴史を変えてしまうような二つの異常な医療技術を、ほぼ同時に手に入れたことになる」
「はい……」
「一つは、人間の全身レベルにおける不可逆的な生命機能そのものに強力に干渉し、疾患を凌駕する可能性を秘めた薬」
「……」
「そしてもう一つは、あらゆる苛烈な外傷を一瞬にして修復してしまうという、まさに魔法のような薬」
「……はい」
主任は深い沈黙の中に身を置き、思考の海へと沈んでいた。
やがて、彼は決意を固めたように鋭い声で命じた。
「ホワイトハウス、ならびに大統領への直通報告ラインを至急準備しろ」
「今すぐ、この未確定の段階でですか!?」
「今すぐだ、一刻の猶予もない!」
「しかし主任、我々にはまだこれらの情報が真実であるという決定的な確証が得られていません!」
「確証が得られるのを待ってから報告したのでは、すべてが手遅れになるから言っているんだ」
主任は射抜くような鋭い眼光で若手解析官を凝視した。
「我々が確証を得た時には、すでに日本の独占体制が完了しているかもしれん」
「……了解いたしました。直ちに回線を確保します」
「ただし、報告の際には決して断定的な表現は使うな」
主任はスクリーンの中央で赤く不気味に明滅し続ける日本列島のマップを、どこか畏怖の念を込めて見つめる。
「『日本政府が、既存の科学体系を根底から覆す未知の医療技術を発見した可能性が極めて高い』」
そして、わずかな間を置いてから、重々しく付け加えた。
「まずは、その程度のニュアンスにとどめて報告を作成しろ」
「承知いたしました」
「それと――」
「はい、他にご指示は?」
主任は大型画面の片隅に小さく表示された『国立高度医療科学研究所』という施設名称を、刻み込むように注視した。
「そのターゲットとなっている研究所に関して、現時点で我々がアクセス可能なあらゆる手段を用いて、可能な限り詳細な情報を集め尽くせ」
「高解像度の軍事衛星画像も配置しますか?」
「利用できるリソースはすべて投入しろ」
「周囲の電波通信ログ、電力消費の異常値、物流データ、果ては施設関係者の出入りログに至るまで……」
「そのすべてを洗い出せ」
主任は再び重い腰を上げるようにして、レザーの椅子へと深く腰を下ろした。
「日本が一体その手の中に何を隠し持っているのか、我々も一刻も早くそれを突き止め、把握しなければならない」
その時――。
作業を続けていた若手解析官が、ふと我に返ったように小さく呟いた。
「……もしも、本当にそんな神話のような薬が現実の物質として実在しているのだとしたら」
「何が言いたい?」
「世界中のあらゆる国家や権力者たちが、なりふり構わずそれを手に入れようと蠢き始めるでしょうね」
主任はその言葉に対して何ひとつ答えなかった。
ただ静まり返った暗いオペレーションルームの中で、不気味に赤く点滅し続ける日本列島の影を、じっと見つめ続けているだけだった。
◇
まさに同じ頃――。
地球の反対側に位置する、穏やかな夜気に包まれた日本。
都内某所に位置する、厳重なセキュリティで守られたセーフハウスの最上階。
「……んん……ふぁ……」
春奈は、肌触りの良いシーツの上で小さく可愛らしく寝返りを打った。
保温性の高いふかふかの羽毛布団に心地よく包まれながら、半分まだ深い夢の中に足を踏み入れた状態で、枕元へとゆっくり手を伸ばす。
「……んー……お水……」
ベッド脇のサイドテーブルに置いてあった冷たいペットボトルを小さな手で手繰り寄せ、キャップを開けてゴクリと一口だけ喉を潤した。
探していた水を取り終えると、吸い込まれるように再び温かい布団の中へと潜り込んでいく。
「……ふあぁ……明日は朝ごはんに何を食べようかな……」
今この瞬間にも、自分を中心にして世界中の巨大な国家機関や情報機関が慌ただしく動き始めていることなど、彼女は知る由もなかった。
現在の彼女の小さな頭の中を満たしているのは、楽しみにしている明日の朝食のメニューと、異世界の『収納の指輪』の中にたっぷり大切に詰め込んでおいた大好きなお菓子のことだけだった。
「……甘い……プリン食べたいな……」
満足げに小さくそう呟いて。
春奈は何の不安もなく、再び穏やかで深い眠りの海へと落ちていった。
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