『待ち合わせにしなかった再会』
四月の終わり、海沿いの無人駅は、もう駅としての役目を半分くらい忘れていた。
一日に停まる列車は上下合わせて九本。改札はなく、券売機も古びて、待合室のガラスには去年の観光ポスターがまだ貼られている。潮の匂いが少し強い日には、ホームの端まで白っぽく霞んで見えた。
その待合室を、小さな読書室として使うことになった。
町の図書館本館が、寄贈本の置き場に困っていたのが発端だった。古い駅舎を何とか活かしたい観光課、子どもが寄り道できる場所を増やしたい教育委員会、そして「駅に本があるとなんとなく品がいい」と言い切った商工会長の雑な一声が合わさって、話だけはとんとん拍子に進んだ。
神谷文乃は、その立ち上げ担当として朝から段ボールを運んでいた。
三十一歳。町立図書館の司書。採用七年目。
本の分類も、寄贈整理も、壊れたラベルの貼り直しも得意だが、こういう新規立ち上げのような「人と人の間をぬって何かを動かす仕事」は、正直あまり好きではない。必要だからやるし、やればそれなりに形にはする。でも得意かと聞かれれば、たぶん違う。
待合室の床に積まれた段ボールへ番号を書き込みながら、文乃は壁の時計を見た。
手伝いに来るはずのボランティアは、九時集合。
今は八時五十六分。
四分くらいなら、まだ遅刻とも言えない。
そこへ、入口の引き戸ががらりと開いた。
「すみません、遅れ……」
言いかけた声が止まる。
文乃も、手にしていたマジックを止めた。
背の高い男が、工具箱を片手に立っていた。風に少し乱れた前髪、濃い色の作業着、肩に掛けたメジャー。見間違えるはずもない顔だった。
六年ぶりだった。
「……あ」
先に声を出したのは、向こうだった。
「神谷」
藤崎遼。
大学時代に付き合っていた人で、卒業してから二年ほどして別れた。
喧嘩が多かったわけではない。裏切りがあったわけでもない。ただ、社会人になってから互いの余裕がなくなり、会う頻度が減り、言わなくていい不満だけが少しずつ溜まっていった。
別れる日に泣いた。
でも、泣いた理由が相手を嫌いになったからではなかったぶんだけ、余計に苦しかった。
「……手伝い、遼なんだ」
「うん」
遼は入口の張り紙を見上げた。
「駅舎の棚、地元の工務店が手ぇ入れるって聞いて、うちが請けた」
「そうなんだ」
「そっちは図書館」
「うん」
それ以上の言葉が、とっさには出てこなかった。
六年ぶりの再会にしては、あまりに平凡な会話だった。
けれど文乃は、それで少しだけ助かった。劇的な偶然みたいな顔をされるより、仕事の延長でここにいるという事実のほうが、いくらか息がしやすい。
「遅れてないから」
文乃が言うと、遼は小さく笑った。
「そこ?」
「そこ」
「じゃあ助かった」
その笑い方が、ほとんど昔のままで、文乃は少しだけ困った。
午前中は、ひたすら棚の位置決めだった。
待合室は広くない。大人用の本棚を壁際に二つ、子ども用を低めに一つ、雑誌ラックを窓際に置くと、もう通路はぎりぎりになる。
文乃は床に養生テープで印をつけ、遼は寸法を測りながら棚板の高さを調整した。
「そこ、あと三センチ右」
「三センチ?」
「ベビーカー通る幅、取っておきたい」
「ああ」
遼はすぐに棚を持ち上げた。
「そういうの、前から気づく人だったな」
「気づかないと、あとで苦情が来るから」
「仕事っぽい返し」
「仕事だからね」
「そりゃそうか」
必要なことだけ話すうちは、まだ楽だった。
問題は、必要なことが途切れる瞬間にある。
次の指示を出すまでの数秒、棚板の穴を見つめる遼の横顔や、工具箱のふたを閉める指先が目に入るたび、過去が勝手に浮いてくる。
大学近くの安い定食屋。
終電を逃して歩いた川沿い。
遼がふざけて買ってきた、どうしても似合わない黄色いマフラー。
忘れたわけではなかったのだと、こういうとき思い知らされる。
昼前、商工会の手伝いに来ていたおばあさんが、湯のみを二つ持って入ってきた。
「はい、お茶。若い人は水分取らないと働き方が古くなるよ」
豪快な理屈だった。文乃は礼を言って受け取り、遼にも渡す。
おばあさんは二人を見比べてから、にこっとした。
「息合ってるねえ」
文乃の手が一瞬止まる。
「昔から知ってるんですか?」
と遼が平然と聞くと、
「いや、今見て。ずれる前に片方が半歩引くのが早い」
おばあさんはそれだけ言って、また別の箱を抱えに行った。
遼が苦笑する。
「見る人は見るな」
「年の功ってやつでしょ」
「年の功、怖い」
文乃も一応笑ったが、胸の奥では別のところが引っかかっていた。
ずれる前に半歩引く。
たしかに、昔の自分たちはそういうふうにはできなかった。
昼休憩は、駅前の食堂でうどんになった。
ボランティアが何人か来る予定だったのに、地区の清掃日と重なって今日は二人きりだと判明し、もはや一緒に食べないほうが不自然だった。
窓際の席に向かい合って座る。
文乃は、きつねうどん。遼は、肉うどんとおにぎり二個。
食べるものまで昔と変わらないな、と思ってから、そんなことを覚えている自分に少し呆れた。
「こっち戻ってたんだ」
文乃が先に口を開く。
「三年前に」
「仕事で?」
「父親が腰やって、工務店の人手足りなくなって」
「そうなんだ」
「最初は手伝いだけのつもりだったけど、そのまま」
遼はうどんをすすってから、少しだけ視線を落とした。
「そっちは、ずっと図書館?」
「うん。異動もなく」
「神谷っぽい」
「どういう意味」
「同じ場所で、ちゃんと積んでくの向いてる」
「褒めてる?」
「かなり」
遼は即答した。
そういうところだ、と文乃は思う。変に飾らない。だから昔、自分はこの人のそういうまっすぐさに甘えていたし、同時に傷つきもした。
少し迷ってから、文乃は聞いた。
「結婚、したのかと思ってた」
遼が目を上げる。
「してない」
「そっか」
「神谷は?」
「してない」
「そっか」
同じ言葉が返ってきただけなのに、妙におかしかった。
二人して、少しだけ笑う。
昔なら、その先に無理やり別の話題を探していたかもしれない。でも今は、その沈黙を無理に埋めなくても大丈夫だった。
午後は寄贈本の整理に入った。
駅前の閉店した書店から引き取った本が多く、箱の中には古い文庫、新しめの児童書、使い込まれた図鑑、旅行雑誌が混ざっていた。
遼は本棚を組みながら、ときどき箱の中身を覗く。
「これ、懐かしいな」
差し出されたのは、大学時代に流行ったミステリだった。
「それ、読んでた?」
「神谷に貸された」
「ちゃんと返した?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
「別れてから返しづらくなった物、いくつかある」
言い方がさらっとしすぎていて、文乃は少しだけ笑ってしまった。
「何」
「文庫二冊と、青いマグカップ」
「あったね、そういうの」
「まだある」
「え」
「マグカップ?」
遼は棚板のねじを締めながら、何でもないみたいに言った。
「捨てる理由もなかったし」
文乃は返事に困った。
捨てる理由もない。
たしかにそうだ。終わった関係の名残を、劇的に捨てる人ばかりではない。使わなくなって、でも壊れもせず、なんとなく棚の奥に残っているものはある。
思い出も、少し似ているのかもしれなかった。
夕方、駅舎の裏手にある古い倉庫から、追加の本棚用木箱を運ぶことになった。
二人で持ち上げるには微妙に重い。文乃が片側を抱え、遼がもう片方を持つ。
狭い通路を抜けるとき、文乃の足元が少し滑った。
「あ」
声を上げるより先に、遼が木箱を引き寄せて支える。
「大丈夫?」
「うん」
「足、ひねってない?」
「大丈夫」
言いながら、心臓だけが遅れて速くなる。
危なかったからではない。
こういう、とっさの動きに昔を見てしまうからだ。遼は昔から、こういう瞬間だけ異様に早かった。人が困る前に体が出る。そういう優しさに何度も助けられたし、同じくらい何も言わない不器用さに振り回された。
木箱を置いたあと、文乃はぽつりと言った。
「別れたときさ」
「うん」
「ずっと、私たちって相性が悪かったのかなって思ってた」
遼は少し黙ってから、木箱の角を指でなぞった。
「俺は逆だった」
「逆?」
「相性は悪くなかったから、余計に駄目になったんだと思ってた」
文乃は顔を上げる。
「どういう理屈」
「合うから、わかった気になってたんだよ。言わなくても大丈夫だろって」
「……」
「で、神谷はたぶん、わかってるなら先に気づいてよって思ってた」
図星だった。
文乃は思わず息を止めた。
そんなところまで、今さら正確に言い当てるのはずるい。
「仕事がきつかったとか、会えなかったとか、ああいうのももちろんあったけど」
遼が言う。
「結局、互いに相手の弱い日に、もう少しうまくなれれば違ったのかもなって、後で思った」
文乃はしばらく返事ができなかった。
言い訳みたいに聞こえるはずなのに、少しもそう聞こえなかったからだ。
たぶんそれは、自分も同じことを何度か考えていたからだった。
「大人じゃなかったってこと?」
文乃がようやく言うと、遼は笑った。
「まとめると、たぶん」
「雑だな」
「でも、それくらいが正しい気がする」
その日の作業を終え、棚に本が七割ほど並んだころ、待合室はようやく読書室の顔になってきた。
窓際に児童書、奥に小説、駅の時刻表があった壁には旅の本と地図。
夕方の光が差し込むと、まだ新しい棚の木の色がやわらかく見える。
「いい場所になりそう」
文乃が言うと、遼は並んだ本の背表紙を眺めながら答えた。
「なるだろうね」
「即答」
「神谷がやってるから」
「またそういう」
「本気だけど」
照れたふうもなく言われて、文乃は困る。
困るけれど、嫌ではなかった。
翌週、読書室の開設日には思ったより人が来た。
学校帰りの小学生が漫画以外の棚を覗き込み、散歩途中の老人が時刻表の横に置かれた鉄道雑誌を手に取り、母親に連れられた子どもが窓際の絵本コーナーへ座り込む。
駅としては静かな場所なのに、本が入ると途端に「いていい場所」になるのが面白かった。
文乃は貸出ノートの説明をし、遼は入口横の小さな掲示板へ利用案内を取り付けていた。
そのとき、小学校低学年くらいの男の子が二人の間へ割り込むようにして聞いた。
「この本、つぎいつくる?」
「つぎ?」
文乃が聞き返すと、男の子は駅の時刻表を指した。
「電車みたいに」
遼が吹き出す。
「本はね、自分で戻ってこないから、誰かが返しに来たらまた会えるんだよ」
「じゃあ、また会えるの?」
「必要ならね」
遼が何気なく答えたその言葉に、文乃は一瞬だけ目をやった。
男の子はよくわからないまま頷き、絵本を抱えて窓際へ走っていく。
閉館時間が近づき、人が引けたあとの待合室は、朝とはもう別の場所だった。
椅子には読まれた本のぬくもりが残り、窓ガラスには指の跡がつき、返却箱の中にはすでに二冊本が戻っている。
使われた場所のほうが、ずっと落ち着く。
文乃はそれを見回しながら、ふと思った。
今日ここに人が来たのは、偶然ではない。
町に必要だったから、話が集まって、本が集まって、手が集まった。その中に、自分と遼がいた。
六年ぶりの再会だけを切り取れば偶然みたいに見える。
でも、その前にそれぞれが別の場所で選んできたものを考えれば、案外、こうなる道筋は前からあったのかもしれない。
鍵を閉めて、ホームへ出る。
海風が少し冷たかった。
次の列車まで十五分。夕暮れの線路は細く光っている。
「来月、棚もう一段増やすかもって」
遼が言った。
「児童書、思ったより増えそうだから」
「そうなんだ」
「そのとき、また来る?」
文乃はホームの先を見たまま、少し考えた。
待ち合わせをしたわけじゃない。
今日までのことに、きれいな名前をつける必要もない。
ただ、またここへ来る理由は、もう十分にある気がした。
「勤務日なら」
「勤務日じゃなくても?」
「そのとき考える」
「前よりやわらかくなったな」
「誰のせいだと思ってるの」
「半分くらい俺じゃないことを祈る」
文乃は笑った。
昔みたいに無理をして笑ったわけではなく、ちゃんと可笑しかったから笑えた。
列車の灯りが遠くに見える。
ホームに風が通る。
文乃はその明かりを見ながら、静かに息を吸った。別れたことまで間違いだったとは思わない。あのときの自分たちには、たぶん必要な距離だった。
でも、離れたことまで含めて今ここに繋がっているのだとしたら、それは少しだけ救いになる。
「じゃあ、また」
文乃が言う。
遼は頷いた。
「うん。また」
約束のようで、約束ではない返事だった。
けれど今の二人には、その曖昧さがちょうどよかった。
列車がホームへ滑り込む。
扉が開く音の向こうで、待合室の窓に並んだ本の背が、夕方の残り光を薄く返していた。




