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短編集  作者: 科上悠羽


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『息継ぎの下手な進み方』

 市民スポーツセンターの屋内プールは、朝の七時だとまだ少し青すぎる。

 天井の白い鉄骨まで水の色が反射して、世界全体が冷たく澄んで見える。そのくせ、いざ足を入れると、思っていたよりちゃんとあたたかい。


 葉山夏海は、プールサイドの端に立ったまま、三分ほど本気で動けなかった。

 ゴーグルは曇るし、キャップは耳にうまくかからないし、隣では六十代くらいの男性がもう準備運動を終えている。情けない。三十一歳にもなって、水に入る前からこんなに気後れするとは思わなかった。


「葉山さん、まだ儀式してる?」


 背中のほうから声が飛んできた。

 振り返ると、水泳教室の担当コーチである高階が、腕を組んで立っている。四十代後半、背が高く、やたらと姿勢のいい人だ。口調はさっぱりしているが、言うことは割と容赦がない。


「儀式じゃないです。覚悟です」

「同じようなもん」

「違います」

「じゃあ入ろう。覚悟は水の中で固めて」


 それができたら苦労しないのだが、反論する暇もなく笛が鳴った。

 初級クラスは全八人。夜勤明けらしい配送会社の男性、運動不足解消が目的の美容師、娘に勧められて来たという年配の女性、健康診断の数値に怯えたらしい会社員。泳げる人は一人もいないか、いても「昔二十五メートルだけ何とか」くらいの人ばかりだった。

 夏海もその一人だ。


 ただし、夏海にはひとつだけ事情がある。

 彼女はこのスポーツセンターの受付職員で、今月末に予定されている「大人のはじめ直し水泳教室」の募集広報を担当していた。二年前の設備改修以降、プール利用者は戻り切っていない。子どもの教室は埋まるが、大人向けは弱い。そこで市の広報課が「実際の初心者が挑戦する短い紹介動画を出そう」と言い出し、なぜか一番顔が映っても問題が少なそうという理由で、受付の夏海が撮影に出ることになった。


 断った。最初はちゃんと断った。

 でも「むしろ泳げない人が出たほうが伝わる」「上手すぎる見本より親しみやすい」「葉山さん感じいいから大丈夫」と、ろくでもない褒められ方で押し切られた。

 結果、先週公開された三十秒の動画には、水しぶきを変な方向へ飛ばしながら、必死の顔で進もうとしている夏海がしっかり映っている。


 その夜、スポーツセンターの公式アカウントについたコメントを、夏海は見てしまった。


【これで募集になるの?】

【税金でお遊戯】

【フォームやば】

【誰向け?】

【見てるこっちが苦しい】


 直接の悪口としては、たぶんぬるい。

 もっとひどい言葉はいくらでもある。

 それでも十分だった。匿名の短い文というのは、不思議なくらい刃物に向いている。投げるほうは軽くても、刺さる側にはちゃんと重い。


 夏海はその晩、布団の中で、自分が動画の中の情けない人間そのものになった気がした。

 受付では笑えて、案内もできて、館内放送もそこそこ落ち着いて読める。けれど水に入った途端、自分の鈍さと不器用さが全部むき出しになる。そんなものを不特定多数に見せたのかと思うと、胃の底が冷えた。


 翌日、出勤してすぐに広報担当へ言った。

「次の動画、別の人にしてください」

 担当の若い職員は困った顔をしたが、止めはしなかった。

「もちろん差し替えはできます。ただ、昨日の動画、問い合わせ自体は増えたんですよ」

「え」

「電話で三件。“あれ本当に初心者ですか”って」

「苦情じゃないですか」

「うち二件は“あれくらいなら自分も出られそう”でした」

 夏海は言葉を失った。

 それが慰めになるかというと、ならない。けれど妙な引っかかりだけは残った。


 その日の営業後、高階が更衣室前で待っていた。

「今日も来るでしょ」

「……休もうかと」

「コメント見た?」

 あまりに直球で、夏海はかえって笑ってしまった。

「見るでしょ、そりゃ」

「見ないほうがいいよ」

「でも見ちゃったものは仕方ないです」

「じゃあ泳ぐしかない」


「解決法が雑」


「雑じゃない。水は親切だから」

 高階は即答した。

「うまいか下手かは見るけど、誰が何書いたかは気にしない。手を回した分しか進まないし、止まれば止まる。そこだけ平等」


 その言い方が少しだけ悔しくて、でも少しだけ救いにもなった。

 陸ではごまかせる。笑って流すことも、傷ついていないふりをすることもできる。

 水の中では無理だ。息が上がれば苦しいし、顔を上げっぱなしなら沈む。恥ずかしいフォームでも、前へ出した腕の分だけしか進まない。


 初級クラスの練習は、いつも地味だった。

 板につかまってバタ足。壁を蹴ってまっすぐ浮く練習。片腕だけ回して、息継ぎの角度を覚える。

 夏海はこれが全部へたくそだった。特に息継ぎが駄目だった。呼吸が怖くて顔を上げすぎる。上げすぎるから脚が沈む。沈むから慌てる。慌てるから水を飲む。あまりにも教科書的な崩れ方で、いっそ清々しいくらいだった。


「葉山さん、顔で頑張りすぎ」

 高階が言う。

「泳ぐのは首じゃなくて腕」

「息できなくなるんです」

「一瞬はなる」

「それ困るんですけど」

「一瞬だけなら困らない」


 めちゃくちゃだと思った。

 だが隣のレーンで練習していた年配の女性が、けらけら笑って言った。

「人生もそんなもんよ」

「雑な共感が増えた」

「でも本当でしょ?」


 本当かもしれないと、夏海は思ってしまった。

 最近、自分は息ができなくなるのを怖がりすぎていたのかもしれない。苦しい一瞬を避けるために、変に顔を上げて、余計に沈む。コメントもそうだ。刺さったのは事実だが、刺さった瞬間からずっとそこだけ見ていたら、進みようがない。


 四回目の教室で、夏海は初めて二十五メートルの半分を、止まらずに進めた。

 フォームはぐちゃぐちゃだった。腕も脚もタイミングが合っているのか怪しい。

 それでも、十五メートルの旗を越えたあたりで、高階がプールサイドを歩きながら叫ぶ。


「いい、そのまま! 汚くていいから止まらない!」


 褒められているのか雑に扱われているのか微妙なところだが、その言葉は妙に効いた。

 きれいじゃなくていい。

 止まらないほうが先。

 そう思った途端、ほんの少しだけ水の中の時間が伸びた。


 教室の帰り、更衣室で髪を乾かしていると、美容師の女性が鏡越しに笑った。

「葉山さん、今日よかったですよ」

「いや、めちゃくちゃでした」

「でも進んでた。私まだ十メートルで人の一生考えます」

「何それ」

「このまま先まで行ったら、たぶん来世もあるなって」

 思わず声を出して笑う。

 こんなふうに、他人のへたくそさに救われる日が来るとは思わなかった。

 みんな同じように不格好で、同じように水を飲んで、でも毎週ちゃんと来る。大人になってから何かを下手な状態で始めるのは、想像以上に体力が要る。それでも来るのは、うまくなりたいからだけではないのだろう。

 少しでも、昨日と違う動きをしたいのだ。


 開講イベント当日。

 プールサイドには見学用の椅子が並び、受付横には新しい申込書の束が置かれていた。館長が挨拶をし、市の職員が「健康増進と地域利用促進の一環として」と長い前置きをする。

 夏海はその横で、Tシャツの裾を握っていた。

 本番では、高階が初心者向けの簡単な説明をしたあと、実際に「最初はこんな感じで十分です」という短い見本を見せる予定だった。

 うまい泳ぎではなく、始めたばかりの大人がどう進むかを見せたい。その役に、また夏海が指名されている。


 直前になって広報課の職員が小声で言った。

「やっぱり高階コーチの見本だけでも」

 気を遣ってくれたのだとわかった。

 夏海は一度だけ観客席を見た。見学者は二十人ほど。中には明らかに「気になって来たけど、自分ができるかはまだ半信半疑」という顔の人たちが混じっている。

 たぶん、先週の動画を見た人もいる。


「いえ」

 夏海は首を振った。

「私がやります」


 高階がちらりとこちらを見る。

 何も言わない。

 その代わり、スタート位置に立った夏海へ、いつも通りの声だけを投げた。


「きれいにやろうとしないで」

「はい」

「息が下手でも、腕は回る」

「はい」

「沈みそうでも、一回分は進む」

 夏海はそこで少し笑った。

「それ、今日は刺さります」

「いつも刺さって」


 笛が鳴る。

 夏海は壁を蹴った。


 最初の三かきで、やっぱり少し慌てた。水は容赦なく鼻に入るし、観客がいると思うだけで肩が固くなる。

 でも四かき目で、高階の声が聞こえた。


「止まらない!」


 それだけでよかった。

 きれいではない。ほんとうに全然きれいではない。腕の入水角度も深さもばらばらだし、息継ぎのたびに身体が少し斜めになる。

 それでも、夏海は進んでいた。

 必死に、下手なまま、ちゃんと前へ。


 十五メートル。

 二十メートル。

 もう腕は重い。脚も雑だ。けれど壁だけは近づいてくる。

 最後の一かきを伸ばして、指先がタイルに触れた。


 その瞬間、夏海はまず自分がいちばん驚いた。

 完璧ではない。二十五メートル泳ぎ切ったわけでもない。用意されていたのは二十メートルだけの短い見本コースだ。

 それでも、自分の力でちゃんと届いたという感触は、思っていたよりずっと大きかった。


 プールサイドへ上がると、まばらだが確かな拍手が起きた。

 子どもの拍手みたいな、遠慮のない音だった。

 その中で、見学席の後ろにいた四十代くらいの女性が、隣の友人らしき人に言うのが聞こえた。


「……あれなら、私もやってみたいかも」


 たったそれだけだった。

 でも、その一言で、先週画面に並んでいた短い悪意が、少しだけ遠のいた。


 イベントのあと、申込書は思っていたより減った。

 高階が集計を見ながら言う。

「増えたね」

「動画の効果ですかね」

「今日のもあるでしょ」

「下手な見本が?」

「下手でも来ていいって、ちゃんと伝わるの大事だから」

 夏海はタオルで髪を拭きながら、少しだけ考えた。

 世の中には、上手い見本が必要な場面もある。

 でも、始める前の人間に必要なのは、たぶんそれだけじゃない。みっともなくても止まっていない姿のほうが、届く相手もいる。


 帰り際、受付のパソコンを閉じる前に、夏海は例の動画ページを一瞬だけ開いた。

 コメントは増えていた。

 相変わらず軽い言葉もある。

 けれどその中に、ひとつだけ短い文が混じっていた。


【泳げない大人にも入りやすそうで助かった】


 夏海はそれを読んで、画面を閉じた。

 全部を真に受ける必要はないし、全部を背負う必要もない。

 ただ、自分が今日、水の中で手を回した分だけ進んだことは、もう誰にも取り消せない。


 更衣室の鏡の前でキャップを外す。髪はぺしゃんこで、顔色も少し赤い。格好いいとは言えない。

 けれど情けないとも、今日は思わなかった。


 息継ぎはまだ下手だ。

 これからもうまく水を飲むだろう。

 それでも、下手なりの進み方があると、一度身体で知ってしまった。


 ロビーへ戻ると、来月の初心者クラスの申込用紙が受付に並んでいる。

 夏海はその束を整えながら、ふと、次の広報動画のことを考えた。出るかどうかはまだ決めていない。

 でも、出てもいいかもしれないとは思えた。


 完璧なフォームじゃなくてもいい。

 笑われない形じゃなくてもいい。

 息継ぎが多少下手でも、苦しくても、腕を一回ぶん回せば、そのぶんだけ前へ出る。


 閉館前のプールの水面が、ガラス越しに静かに光っていた。

 夏海は申込書の角を揃え終えると、小さく肩を回す。

 まだ腕が重い。

 でも、その重さごと、今日は少しだけ頼もしかった。

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