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短編集  作者: 科上悠羽


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『曲がり道の窓』

 朝の五時半、図書館の裏手にある車庫の前には、昨夜の雨がまだ薄く残っていた。

 水たまりに空の端だけが映っていて、色のつきかけた朝焼けが、揺れるたびに細かく砕ける。

 澪は移動図書館車のドアを開ける前に、その水たまりを一度だけ踏んだ。靴の先へ、冷たいしぶきが小さく跳ねる。わざとだった。意味のないことを一回しておかないと、緊張で身体が固まる朝がある。


 白い車体の側面には、青い文字で「こはる号」と書かれている。

 山の上の集落や、駅から遠い団地を回る、小さな図書館だった。棚は低く、積める本の数も本館の何百分の一しかない。それでも毎週この車を待ってくれる人がいる。

 澪はそのことを知っている。

 知っているのに、今日だけは胸の奥がやけに落ち着かなかった。


 初めての一人運行だからだ。


 澪が図書館に入って四年目になる。

 分類も配架も、返却処理もレファレンスも、一通りはできるようになった。けれど移動図書館だけはずっと先輩と二人だった。運転は委託の運転手がやるとしても、現場で本を回し、人を迎え、棚を整え、時間を見て出る判断は、実際かなり忙しい。

 その忙しさを、隣で軽く受け止めていたのが真緒だった。


 真緒は三月で異動した。

 市民病院の患者図書室へ行った。喜ばしい異動だ。本人も望んでいた。なのに澪は、見送ったその日からずっと、移動図書館の中にひとつ分の空白がある気がしていた。


「おはよー、今日も世界が早いねえ」


 そんなふうに、毎朝どうでもいい第一声を飛ばしてくる人はもういない。

 忘れ物があれば笑って指さし、雨なら「本より先に自分がふやける」と言い、利用者に厳しいことを言われた日には、帰りのコンビニでくだらない新作菓子を買ってきて、まずいまずいと一緒に笑わせた。

 助言らしい助言は少なかったくせに、澪が立ち止まりそうなときだけは、必要な言葉を妙に外さない人でもあった。


 人は、一人でちゃんと立つものじゃなくて、少しずつ借りながら進くんだよ。

 前に真緒が言ったその一言が、なぜか今朝の車庫でやけに近かった。


「片瀬さん、顔かたいよ」

 運転席の窓から、委託運転手の野間が声をかけてきた。六十代の、いつも眠そうな目をした人だ。

「そんなにわかります?」

「水たまりにケンカ売ってた」

「見てたんですか」

「朝は暇だからね」

 野間はあくびを噛み殺した。

「大丈夫。最初の停留所で子どもが三人来れば、そんな余裕なくなる」

「励まし方が雑」

「現場なんて雑でいいの」


 言われて、少しだけ笑えた。

 笑えたので、たぶんまだ大丈夫だ。


 こはる号は六時に出た。

 最初のルートは海沿いの団地、そのあと山へ入って二つの集落を回り、最後に峠の向こうの小学校前で停まる。道はくねっていて、季節によって匂いが変わる。春は土と若葉、夏は熱を持った草、秋は乾いた風、冬は海の塩気が強い。

 今日は春の終わりかけで、山道のあちこちに、まだほどけ切っていない桜の葉が残っていた。


 最初の団地では、いつもの三姉妹が待っていた。

 一番上が歴史まんが、真ん中が犬の図鑑、一番下が毎回おなじ絵本の続き。澪が貸出カードを受け取りながら少し手間取ると、三人の母親が言う。

「あれ、今日は真緒さんいないの?」

「四月から病院図書室なんです」

「そっかあ。じゃあ今日は澪さんが一人か」

 その言い方に、澪は一瞬だけ背筋を伸ばした。

「はい。一人です」

「なら余計に頑張って借りるね」

 母親が笑って言う。

 その「頑張って借りるね」はたぶん気遣いで、でも嫌な気遣いではなかった。人は案外、そういう雑な優しさで朝をひとつ進められる。


 二つ目の停留所までは順調だった。

 返却本の冊数も、予約本の受け渡しも、時間通り。

 問題が起きたのは、三つ目の山の停留所だった。


 停留所といっても、舗装の切れ目に小さな広場があるだけの場所だ。向かいに自販機、脇に古いベンチ、その後ろに桜の木。

 いつもなら老人が二、三人待っているのに、その日はベンチに制服姿の女子中学生が一人いるだけだった。

 本を借りる常連の子ではない。だが、見覚えはあった。先週、数学の問題集を返しに来て、代わりに何も借りずに帰った子だ。


「おはよう」

 澪が声をかけると、少女は少しだけ顔を上げた。

「……おはようございます」

「本、見る?」

「今日はいいです」

 そう言ってから、少女は膝の上のリュックを強く抱え直した。

 泣いてはいない。けれど泣く一歩手前の顔だった。


 澪は一瞬迷った。

 真緒なら、ここでたぶんいきなり本の話はしない。天気か、靴か、しょうもないことから始める。

 澪は自販機を見て言った。

「ここ、まだホットの缶ココアあるんだ」

 少女がつられてそちらを見る。

「え」

「もう五月なのに。だいぶ諦めが悪い」

 数秒置いて、少女の口元が少しだけ動いた。

「……ほんとだ」

「自販機にもあるんだね、季節感に置いていかれること」

 今度はちゃんと、少しだけ笑った。


 その笑い方を見て、澪の肩の力も少し抜けた。

 真緒みたいにはできない。でも、ゼロではないらしい。


「何か探してた?」

 澪が聞くと、少女はしばらく黙ってから答えた。

「別に……」

 別に、の声が全然別にじゃないときのやつだった。

「受験?」

「ちがいます」

「部活?」

「……ちょっとだけ」

 当たった。

 少女は靴先を見たまま言う。

「吹奏楽、希望のパートに入れなくて」

「うん」

「別に、上手い子が入るのは当たり前だから仕方ないんですけど」

「うん」

「でも、じゃあ他の楽器で頑張るって、すぐ切り替えられるほど偉くもなくて」

 そこまで言って、少女は自分で自分が情けなくなったみたいに笑った。

「なんか、向いてないのかなって」

 澪は少し考えた。

 励ましのテンプレートはいくらでもある。頑張ればいいとか、まだこれからだとか、他にも道はあるとか。

 でも今この子に必要なのは、たぶん綺麗な正解ではない。


「向いてない、って思ったときってさ」

 澪は車内の棚へ手を伸ばしながら言った。

「いきなり全部やめたくなるよね」

 少女が顔を上げる。

「……はい」

「わかる」

「わかるんですか」

「仕事でもある。私、今日ちょっとそうだった」

「え」

「一人で大丈夫かなって、朝からだいぶ顔かたかった」

 少女は少し意外そうに、こはる号の中を見た。

「でも、普通です」

「外から見たらね」

 澪は文庫棚の端から一冊を抜いた。表紙に、坂道を歩く少女の絵が描かれている。

「これ、迷ってる子がずっと歩く話なんだけど」

「元気出る系ですか」

「いや、そんなすぐ元気は出ない」

 澪は笑った。

「でも、止まったままじゃなくて、迷いながらでも進く話」

 少女は本を受け取って、少しだけ表紙をなでた。


「ねえ」

 澪は自分でも驚くほど自然に、その言葉を口にしていた。

「今すぐ立派に切り替えなくていいよ」

 少女の目が揺れる。

「悔しいままでも、へこんだままでも、とりあえず次の合奏に行くとか、そのくらいで十分」

「……」

「自分一人でちゃんとしなきゃって思うと、だいたい苦しいから」

 それは昔、真緒が澪に言った言葉に、少しだけ自分の手触りを足したものだった。

 そのまま返しているわけじゃない。

 でも、ちゃんと届いてほしいと思う気持ちは同じだった。


 少女は本を抱え直して、小さく頷いた。

「じゃあ……今日は、行くだけ行きます」

「うん」

「で、無理だったら、また来ます」

「それがいい」

 澪がそう言うと、少女は今度は少しちゃんと笑った。

「ホットココアも見ます」

「まだあったら報告して」

「わかりました」


 停留時間を少しだけ過ぎたが、野間は何も言わなかった。

 車が坂を上がり始めてから、運転席越しにぼそっと言う。

「今日の一冊、よかったんじゃない」

「聞いてたんですか」

「山道は声ひびくからね」

「恥ずかしい」

「でも、ああいうのは本より先に人が貸されるんだよ」

 野間のその言い方が妙に可笑しくて、澪は窓の外を見ながら笑った。


 最後の停留所は、峠の向こうの小学校前だった。

 開校前の校庭にはまだ誰もいない。風だけが強く、正門の脇に並ぶ植え込みが細かく揺れている。

 その端に、まだ固く閉じた蕾が並んでいた。何の花かはわからない。けれど朝の光を受けた先端だけが、少し透明に見える。


「春って、中途半端だな」

 澪が呟くと、野間が言った。

「いいじゃない。全部開いてたらつまらん」

「達観してますね」

「年だから」


 ルートを終えて図書館へ戻るころには、時計は十時を回っていた。

 荷台の返却箱を下ろし、貸出記録をまとめ、予約本のメモを整理する。いつもなら真緒が横で半分しゃべりながらやっていた仕事を、今日は澪が一人でやった。

 完璧ではない。停留時間も少し押したし、記録用紙に一か所書き直しもある。

 でも、走り切った。

 それだけで、朝とは景色が少し違って見えた。


 昼休みにスマホを見ると、真緒から珍しく一件だけメッセージが来ていた。


【初ソロどう? まだ世界に負けてない?】


 澪は思わず笑った。

 この人はほんとうに、最初の一文がだいたいどうでもいい。


【水たまりに勝って、山で少し借りた】

 そう返して、少し迷ってから続けた。

【君の言葉、一個だけ別の人に使った】


 送ってしばらくして、返事が来る。


【それならもう大丈夫】

【人の言葉は、使えるようになったら自分のだよ】


 澪はその文を見て、スマホを伏せた。

 泣くほどではない。

 でも、胸の奥のどこかが静かにほどける感じはあった。


 夕方、もう一度こはる号の棚を整えに車庫へ行くと、朝の水たまりはほとんど乾いていた。

 空は高くなり、青の端のほうに薄い雲が流れている。

 澪は車体の脇へ手を置いて、少しだけ目を閉じた。

 明日も道は曲がっているだろう。

 山道は急だし、季節は中途半端だし、たぶんまたどこかで足を止めたくなる。

 それでも、今日は一日ぶん進んだ。

 誰かに借りた言葉を、今度は自分の声で渡せた。

 そのことが、思っていたよりずっと頼もしい。


 車庫の外で風が鳴る。

 澪は乾きかけた地面を見下ろしてから、今度は水たまりのない場所をまっすぐ歩いた。

 蕾はまだ開いていない。

 でも、開いていないものにもちゃんと春は来ている。

 そう思えたので、明日のルート表を持つ手は、朝より少しだけ軽かった。

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