『九回裏まで待てない』
五月の終わり、河川敷の市民球場には、夕方から細かい雨が降っていた。
雨といっても、傘を差すほどではない。けれどグラウンドの土は少しずつ色を変え、外野の芝はしっとり濃くなっていく。試合をやるには微妙で、中止にするにはまだ早い。そういう、判断のつかない天気だった。
倉橋悠斗は、一塁側ベンチの屋根の下で空を見上げた。
商店街対抗の親善ソフトボール大会。春の終わりに毎年やる、地元では妙に気合いの入った恒例行事だ。優勝しても景品は商店街共通商品券と、町内新聞のすみっこに写真が載る程度。それでも大人たちは本気になる。
悠斗が勤めるスポーツ用品店も今年は出場していて、悠斗は一応選手登録されている。
ただし、試合に出るかどうかは怪しい。店長が「若いんだから走れ」と言って登録しただけで、実際にうまいのは四十代の常連たちのほうだった。
「倉橋、また見てる」
隣でバットを拭いていた先輩の諸橋が、にやにやしながら言った。
「何をですか」
「バックネット裏」
「見てません」
「いや見てる」
諸橋は露骨に顎をしゃくった。
「今日も来てるよ、彼女」
悠斗は反射みたいに視線を逸らしたが、遅かった。
バックネット裏の簡易テーブルに、スコア用紙とペットボトルを並べて座っている女が見えた。黒いレインコートの袖を肘までまくり、濡れないように髪をひとつに結んでいる。
相原澪。
商店街の洋菓子店で働いている。二十六歳。
悠斗と付き合って、今日で七か月と四日だった。
七か月と四日。
そのわりに、二人の関係は、驚くほど前へ進んでいない。
デートはする。食事もする。手はつなぐ。たまに軽く抱き寄せるくらいなら、澪も嫌がらない。
でも、そこから先へ行こうとすると、どういうわけか毎回、絶妙なところで空気が変わる。
店から電話が来たり、友人に見つかったり、澪がさらっと話題を変えたり、悠斗が変に慎重になってタイミングを逃したり。
一歩進んで、気づけば振り出し。
また一歩進んで、次は一回休み。
そんなことを七か月もやっていると、さすがに穏やかな男でも少しは考える。
「今日こそ聞けば?」
諸橋が言う。
「何を」
「俺のこと本当に好き?って」
「中学生ですか」
「じゃあ、何でスマホにロックかけてんのって」
「それはただのプライバシーでは」
「いや、でもお前ずっと気にしてるだろ」
図星で、悠斗は黙った。
澪のスマホには、いつ見てもロックがかかっている。別に見せろと思っているわけではない。そういう権利が自分にあるとも思っていない。
ただ、澪が時々、誰かからの着信を見て、少しだけ表情を変えるのが気になっていた。
相手の名前は、一度だけ見えた。
征人。
男の名前だった。
「気にしてないです」
「嘘つけ」
「嘘じゃないです」
「じゃあ今日、征人って誰か聞ける?」
諸橋が勝ち誇った顔で言う。
悠斗はバットケースを閉めてから、低く答えた。
「……聞けたら苦労しません」
「だろうなあ」
その返しが腹立たしいほど優しくて、余計に腹が立つ。
試合開始十分前になっても、雨は止まなかった。
審判団と大会運営が集まって相談し、グラウンドの土を爪先で蹴り、空を見上げる。
結局、「できるところまでやる」という一番厄介な判断になった。
プレーボールがかかる。
雨の中のソフトボールは、思っていた以上に雑だった。ボールは滑るし、守備はずれるし、打球は止まる。
悠斗は六番ライトで先発に入れられたが、初回から頭の半分が試合にない。
打席では四球を選び、守備では平凡なフライをひとつ取った。取った瞬間、バックネット裏で澪が小さく拍手したのが見えた。たったそれだけで、胸の奥が変に熱くなる。
そういうところがずるいと思う。
ちゃんと好きだとわかるようなことはするくせに、こちらが踏み込むと、するっと距離を変える。
手の上で転がされている、という言い方は少し悔しいが、感覚としては近かった。
三回の表が終わったところで、澪のスマホが鳴った。
悠斗はベンチからそれを見てしまった。
画面を見た澪が、ほんの一瞬だけ「またか」という顔をする。席を立ち、バックネット裏の通路へ移動して電話に出る。
雨音に混じって、声までは聞こえない。
ただ、笑ってはいない。
それなのに悠斗の胸には、じわじわと嫌なものが広がった。
征人。
さっきも来たのか。
いや、さっきの着信相手まで同じとは限らない。でもそう思ってしまうと、もう止まらない。
何なのだろう。元彼かもしれない。家族かもしれない。仕事関係かもしれない。
何にしても、自分が知らないことだけは確かで、それが妙に引っかかった。
「おい倉橋、次お前から」
店長の声で我に返る。
四回裏、二死一二塁。
打席に入る。
雨は少し強くなっていた。キャッチャーのマスクから雫が落ちる。悠斗はバットを握り直した。
集中しろ、と自分に言う。
だがこういうときに限って、人間は余計なことまでよく見える。
バックネット裏へ戻ってきた澪が、スマホをポケットにしまう仕草。
少しだけ固い横顔。
それを見た瞬間、内角の甘いボールが来たのに、悠斗は打ち損じた。
力のないサードゴロ。
ベンチへ戻ると、諸橋が肩を叩く。
「恋愛で負けて試合でも負けるの、だいぶ芸術点高いな」
「うるさいです」
「せめて片方だけでも勝てよ」
「勝てる気がしないんですよ」
口に出してから、自分で少し驚いた。
本音だったからだ。
結局、試合は五回の途中で止まった。
雨脚が一段強くなり、運営が協議の末、そこで打ち切りを決めた。
四対二で、悠斗のチームが負け。
中途半端な終わり方だった。九回どころか、最後まで行けてもいない。
「はい、コールド」
諸橋がわざと明るく言う。
「お前の顔が一番降雨コールドっぽい」
「先輩、そういうときだけ語感いいですよね」
「褒めろ褒めろ」
グラウンド整備を手伝い、ベンチを片づけ、ようやく荷物を抱えて駐車場へ向かう。
澪はまだバックネット裏にいた。運営の人にスコア表を渡し、濡れた髪を払っている。
話すなら今しかない、と悠斗は思った。
思ったのに、足が少しだけ遅れる。
そこでまた諸橋が小声で言った。
「今行かないなら、たぶん来週もその顔だぞ」
「脅しですか」
「予言」
「……最低」
「知ってる」
悠斗は荷物を諸橋へ押しつけた。
「五分だけ持っててください」
「十分までなら」
「長い」
「恋愛は延長戦あるから」
バックネット裏の屋根の下へ入る。
澪がこちらに気づいて、あ、と小さく言った。
「おつかれ」
「うん。そっちも」
「負けたね」
「うん。途中までだったけど」
「そっか」
そこまで言って、澪は少しだけ首を傾げた。
「何か、顔こわいよ」
「……雨のせい」
「うそ」
即答だった。
そういうところも困る。
見抜くなら、最初から全部見抜いてほしいと、勝手なことを思う。
「澪」
「うん」
「今日、電話、多かったね」
口に出した瞬間、もう少しましな聞き方はなかったのかと後悔した。
だが遅い。
澪は少しだけ目を細めた。
「うん」
「征人って」
そこで喉が詰まる。
こんなふうに嫉妬を丸出しにするのは格好悪い。
でもここでやめたら、また今までと同じだ。
「……誰」
澪は、数秒だけ黙っていた。
怒るかと思った。呆れるかと思った。
けれど返ってきたのは、思っていたのと少し違う顔だった。驚いたあとで、少しだけ困って、それからようやく、ああそこか、みたいに息を吐く顔。
「今さら、そこ?」
「今さらだけど」
「征人は兄」
「……え」
「実の兄。三つ上」
悠斗はしばらく理解が追いつかなかった。
「兄?」
「うん。離婚して、今、実家に一時的に戻ってる」
澪は濡れた前髪を耳にかける。
「今日は子どもの迎え頼まれてたのに、あっちが時間読めなくて何回も電話きてた」
数秒前まで胸を焼いていたものが、一気に行き場をなくした。
恥ずかしさが遅れて押し寄せる。
兄。
兄か。
それなら笑っていない顔にも説明がつく。
何を一人で疑って、何を一人で負けた気になっていたのか。
「……ごめん」
悠斗が言うと、澪は不思議そうに首を振った。
「何が」
「何か、勝手に」
「考えてた?」
「うん」
「ふーん」
澪はそれだけ言って、でも視線は外さなかった。
責めない代わりに、逃がさない顔だった。
「じゃあこっちも聞く」
澪が言う。
「何で今まで聞かなかったの」
「それは」
「気になってたんでしょ」
「……うん」
「なら、もっと早く聞けばよかったじゃん」
正論だった。
だが正論というのは、ときどき一番きつい。
「嫌われるかと思った」
悠斗は正直に言った。
言ってから、子どもみたいだなと思った。
でも澪は笑わなかった。
「私ね」
澪は屋根の外の雨を見ながら言う。
「悠斗が優しいのは知ってる」
「うん」
「慎重なのも知ってる」
「うん」
「でも、何でも譲って、何でも飲み込んで、それを優しさみたいな顔で出されると、たまに腹立つ」
悠斗は息を止めた。
「腹立つ?」
「立つ」
澪はきっぱり言う。
「だって、私ばっかり決めてるみたいになるから」
「そんなつもりじゃ」
「わかってる。でも結果としてそうなってた」
雨音が少し強くなる。
グラウンドでは運営の人たちがシートを片づけている。誰かが笑い、誰かが水を蹴る。
そのざわめきの向こうで、澪の声だけが妙にはっきりしていた。
「進まないなら、進まないでいいの」
澪が言う。
「でも、そのたびに“今日はやめとこう”って先に引かれると、私が止めたみたいになる」
悠斗は何も言えなかった。
全部、覚えがある。
帰り道、キスの気配が近づいたところで、明日早いよね、と言った夜。
手をつないだまま黙って終わらせた映画館の前。
澪が少しだけこちらへ寄った気がしたのに、いや違うかと自分で引いてしまった、駅の階段。
「私、そんなに何もさせない女だった?」
澪がまっすぐ見る。
悠斗は答えに困った。
何もさせない、ではない。
ただ、澪がどこまで許して、どこから嫌がるのか、その境目を間違えるのが怖かった。
怖かったから、ずっと手前で止まり続けてきた。
結果として、その怖さごと澪へ渡していたのだと、今ようやくわかった。
「違う」
悠斗は小さく言った。
「じゃあ、何」
「俺が、びびってた」
澪のまつげが一度だけ動く。
「嫌われたくないとか、重いと思われたくないとか、そういうのばっかり先で」
「うん」
「でも本当は、もっとちゃんと触りたかったし、ちゃんと好きだって思ってたし」
そこまで言うと、顔が熱くなった。
雨の冷たさと釣り合わないくらい熱い。
こんなことを人の多い球場の隅で言うはずではなかった。
けれど、今日ここで言わなかったら、たぶんまた振り出しに戻る。
「……今も?」
澪が聞く。
「今も」
悠斗は即答した。
今だけは、変に考えなかった。
澪は少しだけ視線を落として、それから、困ったみたいに笑った。
「それ、やっと聞けた」
「遅いよね」
「かなり」
「ごめん」
「うん」
それでも澪の声は、さっきより柔らかかった。
「じゃあ、次は?」
澪が言う。
「次」
「今、悠斗がどうしたいか」
問われて、悠斗は喉を鳴らした。
どうしたいかなんて、ずっと前から決まっている。
ただ、それを口にしたり、形にしたりする勇気だけが遅れていた。
悠斗は一歩だけ近づいた。
澪は逃げなかった。
そのことだけで、胸の中の何かが音を立てた気がした。
「キス、したい」
言うと、澪はほんの少しだけ目を細めた。
「許可取るんだ」
「駄目?」
「駄目じゃない」
その返事を聞いた瞬間、悠斗はようやく、ずっと引き分けにも負けにもしていた試合が、少しだけ動いた気がした。
触れる。
最初は確かめるみたいに短く。
でも離れた瞬間、澪の指が悠斗のレインジャケットの袖をつかんだ。
それだけで十分だった。
もう一度、今度はさっきより深く近づく。雨の匂いと、湿った土と、澪の髪に残った甘い整髪料の匂いが混ざる。
屋根の下なのに、胸の内側だけ妙に濡れたみたいだった。
離れると、澪は耳まで少し赤くなっていた。
それを見て、悠斗は初めて少し笑えた。
「……形勢逆転?」
澪が小さく言う。
悠斗は首を振る。
「いや」
「違うの?」
「たぶん、まだ全然」
「弱気」
「だって、今のでもう、たぶん俺のほうがずっと好きなの確定したし」
澪は一瞬ぽかんとして、それから声を立てずに笑った。
その笑い方があまりに可愛くて、悠斗は内心でもう一度負けた気がした。
「何その負け方」
「気持ちよく負けてる」
「変なの」
「澪がそうした」
「責任転嫁」
「半分は本当」
澪はまだ笑いながら、今度は自分から悠斗の手を取った。
「じゃあ、今度からは」
「うん」
「勝手に試合終わらせないで」
「……うん」
「雨が降っても、電話が来ても、こっちがどうしたいか聞いて」
悠斗は頷いた。
簡単そうで、たぶん一番難しいことだ。
でも今日、自分はようやくそこへ立ったのだと思った。慎重でいることと、相手に委ねきりにすることは違う。優しさの顔をした逃げ方もある。
それを知っただけでも、たぶん今日の負け試合には意味があった。
遠くで諸橋が「倉橋ー! 十分経ったぞー!」と叫ぶ。
澪が吹き出した。
「先輩、優しいね」
「余計なお世話がすごいだけ」
「でも助かったでしょ」
「……うん」
正直に言うと、澪は少し満足そうな顔をした。
雨はまだ降っている。
試合は途中で終わった。
スコアだけ見れば負けだし、活躍もしていない。
それでも悠斗には、今日の帰り道がこれまでより少しだけ違うものに思えた。九回裏まで行かなくても、終わらせ方を自分で選べる試合はあるのかもしれない。
「送るよ」
悠斗が言うと、澪は頷いた。
「うん。でも途中でコンビニ寄りたい」
「何で」
「ホットスナック食べたい」
「このタイミングで?」
「このタイミングだから」
そう言って、澪はつないだ手を軽く引いた。
その引き方が妙に自然で、悠斗はまたひとつ、嬉しい負けを増やした気がした。




