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短編集  作者: 科上悠羽


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102/125

『帰り道の灯りだけ甘い』

 朝一番で、マンションのごみ置き場で怒られた。

 分別を間違えたのは隣の部屋の住人なのに、たまたま同じ時間に袋を持って出たというだけで、「最近の人はほんとに雑」とまで言われた。反論する隙もなく管理人は去り、言い返そうとした口だけが、行き場を失って残った。


 その時点で、篠崎由麻は、今日はもうだめかもしれないと思っていた。

 だめかもしれない、というのは倒れるとか泣くとかそういう派手なものではない。細かい嫌なことが、朝から夕方までじわじわ積もって、最後には自分の機嫌の置き場がなくなる、あの感じだ。


 駅までの道では自転車に水をはねられた。

 会社へ着いたら、昨日まとめた企画書に古いデータが混じっていたとわかって、朝礼前に差し替えになった。

 隣の席の後輩は悪くない顔で「すみません、昨日そこ確認し切れなくて」と言ったが、最終確認の名前が自分だった以上、怒る先はない。

 昼休みに買ったサンドイッチは、開ける前からつぶれていた。

 午後の打ち合わせでは、こちらが三日かけて準備した案に対して、先方の部長が「もうちょっとパッと見でわかるやつない?」と五分で言った。

 帰り際には営業の神谷が「ごめん、これだけ今日中に見て」と紙束を置いていった。残業手当のつかない三十分で済む程度の量を、きっちり三十分で。


 そこまで来ると、もう笑うしかない。

 由麻は会社のトイレで口紅を塗り直しながら、自分の顔を見た。二十七歳。広告制作会社の事務兼進行管理。別に向いていない仕事ではない。むしろ細かい確認や全体の進み具合を見ながら先回りするのは得意なほうだと思う。

 だが今日は、その得意がぜんぶ裏目に出た気がした。

 気を回した先で余計な仕事が増え、先回りしたぶんだけ責任の札も自分に刺さる。

 そういう日はある。

 あるのはわかっている。

 それでも、あるから平気とは限らない。


 スマホを見る。

 十八時二十分。

 待ち合わせは十九時。

 相手は、瀬名遼一。付き合って一年と二か月。三つ年上で、内装関係の仕事をしている。

 由麻の生活が細かい紙と数字でできているとしたら、遼一の生活は木と金属と寸法でできている。仕事の話をしても、互いの専門用語は半分くらいしか通じない。けれど、なぜかそこが気楽だった。


【ちょい遅れる。十九時二十分になる】

 メッセージを送る。

 数秒で既読がつき、返事が来た。

【了解。じゃあ駅前じゃなくて、うち来る?】

【今日は外で食べるって言ってなかった?】

【言った。けど、雨きそう】

【まだ降ってない】

【お前の日って、こういう日は最後に降る】

 由麻は、ふ、と笑った。

 何の根拠もない言い方なのに、やけに説得力がある。遼一は、由麻の「ついてない日」の形をわりと正確に覚えている。最悪なことが起きるのではなく、どうでもいい小さな嫌さが連打されるやつ。しかも最後に、急な雨か電車遅延が乗る。

 悔しいが、当たりやすい。


【じゃあ、そっち行く】

【よし。途中でコンビニ寄ってアイス買ってこい】

【何で命令】

【今日はそういう日だから】

 由麻は返事を打ちかけて、やめた。

 少しだけ、肩の力が抜けていた。


 会社を出るころには、空はきれいに曇っていた。

 駅までの道に入ったところで、一本目の雨が落ちる。やっぱり、と思う。悔しいので走らない。走ったところで、こういう日はだいたいもっとみっともないことになる。

 コンビニへ寄り、言われた通りアイスを二つ買う。ついでに肉まんも一つ買いかけて、いやもう五月の終わりだろと思い直す。

 レジ前で悩んだ末に、結局ホットスナックの唐揚げを一つ追加した。

 完全にやけだ。


 遼一の部屋は、駅から歩いて十分ほどの古いマンションの二階にある。

 付き合って半年を過ぎたころから、由麻はここへ来る頻度が増えた。泊まる日もあるし、仕事帰りに寄って一時間だけ喋って帰る日もある。まだ同棲ではない。合鍵ももらっていない。

 その中途半端さが、由麻は嫌いではなかった。全部をひとつにする前の、少しだけ逃げ道のある近さ。

 ただ今日は、階段を上る足まで少し重い。

 何だか、自分が今日一日ぶんの嫌さを全部引きずってこの部屋に持ち込む気がして、ドアの前で一瞬だけ立ち止まる。


 その瞬間、中から足音が近づいた。

 ドアが開く。


「遅」

「まだ十九時二十七分」

「七分もオーバーしてる」

「細かい」

「お前が言うな」


 遼一は作業着から着替えたらしく、黒いTシャツに灰色のスウェットという、あまりに気の抜けた格好だった。髪だけはまだ半分濡れていて、たぶん帰ってすぐシャワーを浴びたのだろう。

 玄関先に立ったまま、由麻はコンビニの袋を上げる。

「アイス」

「よし」

「あと唐揚げ」

「さらによし」

「褒め方が雑」

「今日はそれでいい」


 部屋に入る。

 六畳のリビングに、低いテーブルとソファ、壁際に本棚、隅に観葉植物。変に飾っていないのに、なぜか散らかって見えない部屋だった。

 キッチンからは、すでに何かいい匂いがしている。


「何これ」

「冷蔵庫で死にかけてた野菜の救出」

「言い方」

「パスタ。あとスープ」

「外で食べるって」

「言った」

「変えたの?」

「変えた」

 遼一は由麻から袋を受け取って、アイスをすぐ冷凍庫へ入れる。

「今日は店で待ち合わせて、妙にきれいな皿に乗ったやつ食うより、こっちのほうが向いてる」

「何で決めるの」

「顔」

「今日ずっとみんな顔で決めてくる」

「みんな?」

「いろいろ」


 そう言ったきり、由麻はその先をうまくつなげなかった。

 遼一は追及しない。しない代わりに、「手洗ってこい」とだけ言う。

 そういうところがありがたい日と、腹立つ日がある。

 今日は前者だった。


 手を洗って戻ると、テーブルにはすでに深い皿が二つ並んでいた。

 湯気の立つスープと、きのことベーコンのパスタ。添えたサラダは袋の葉物を皿に出しただけらしく、やけに現実的だ。

 でも、その現実的さが妙に安心する。


「いただきます」

「うん」


 最初の数分は、ほとんど無言で食べた。

 空腹だったのもあるが、温かいものが胃へ落ちていく感覚そのものが、今日は思っていたより効いた。

 由麻はパスタを巻き取りながら、少しだけ息を吐く。

 すると遼一が、スープの器を持ったまま言った。


「で」

「何」

「今日は何個あった」

 由麻は顔を上げる。

「何個?」

「ついてないやつ。朝から何個」

 聞き方が変で、思わず笑ってしまう。

「数えてない」

「じゃあ思い出せるやつから」

 由麻は少し迷ったが、話し始めると案外止まらなかった。

 ごみ置き場。

 水はね。

 企画書の差し替え。

 つぶれたサンドイッチ。

 部長の五分コメント。

 残業。

 言葉にして並べていくと、どれもそこまで大事件ではない。大事件ではないのに、ちゃんと嫌だ。

 遼一は途中で一回も「それは災難だったな」とか「最悪だな」とか、わかりやすい相槌を打たなかった。ただ、箸を動かしながら、必要なところだけ聞き返す。


「企画書、古いデータ入れたのは誰」

「元は後輩。でも最終確認が私」

「じゃあ半分は向こうだな」

「そうなんだけど、名前書いてあるの私」

「名前欄ってそういう罠あるよな」


 言い方が少しだけ可笑しくて、由麻は吹きそうになる。


「部長の五分コメントは?」

「“もっとパッと見でわかるやつ”」

「死ぬほど雑」

「でしょう」

「その人、たぶん一生そう言う」

「わかる」

「なら、今日はその人の能力の下限に巻き込まれただけだ」

「言い方ひどいな」

「でも事実だろ」


 その「でも事実だろ」が、変に効いた。

 慰めというのは、優しく丸めることだけじゃないらしい。相手の雑さをきちんと雑と言ってもらうだけで、妙に楽になる瞬間がある。


「あと管理人」

 由麻が言う。

「朝、私じゃないのに怒られた」

「ああ」

 遼一は頷く。

「それが今日の一本目か」

「一本目」

「試合みたいなもんだろ、そういう日って。最初の一点が入ると、流れ悪くなる」

「何それ」

「で、どっかで流れ変えないと、そのまま負ける」


 由麻は箸を止めた。

 その言い方は雑だし、理屈としては乱暴だ。

 でも、今日の自分の感じに妙に近かった。小さい一点を取られたまま、ずるずる引きずっていた感じ。


「じゃあ今は?」

「七回裏くらい」

「まだ中盤じゃん」

「これから逆転する」

 遼一は何でもない顔でスープを飲む。

「アイスもあるし」

「そこが切り札?」

「今日はそういうのでいい」


 食後、遼一が皿を下げている間に、由麻はソファへ沈み込んだ。

 部屋の中は静かで、キッチンから水の音だけがする。

 会社帰りに誰かの部屋へ来て、温かいものを食べさせてもらって、愚痴みたいな報告をしている。

 大人としてどうなのか、と一瞬だけ思う。

 だがすぐに、別にいいか、という気持ちのほうが勝った。

 自分一人で完結しないと駄目な日ばかりではない。


「アイス、どっち」

 キッチンから声が飛ぶ。

「チョコ」

「了解」

 遼一が二本持って戻ってきて、一本を由麻へ渡す。

 ソファへ並んで座り、包装を剥がす。

 最初のひと口の冷たさに、由麻は少しだけ目を細めた。


「甘」

「今日はそれが目的だから」

「ずるい」

「何が」

「こういうの、ちゃんと効くの」

「だろ」

 遼一は当然みたいに言う。

「ご褒美って、別に大きくなくていいんだよ。帰り道に食うアイスとか、家で座ってるだけとか、そのへんで充分」

「そのわりに、私は今日かなり引きずったけど」

「だから今食ってる」

 その返しに、由麻は少し黙った。


 効いている。

 たしかに、効いているのだ。

 何が解決したわけでもない。会社の面倒は明日もあるし、部長は多分また雑なことを言う。管理人の誤解だって解けていない。

 それでも、今日はそれで終わりじゃないと思える程度には、もう息がしやすい。


「遼一」

「ん」

「私、最近ちょっと思ってたんだけど」

「嫌な前置き」

「最後まで聞け」

「どうぞ」

 由麻はアイスの棒を見つめたまま言う。

「こういう日、増えた気がする」

「ついてない日?」

「うん。それもあるし、頑張ってるわりに何も増えてない感じの日」

「うん」

「ちゃんと働いてるし、ちゃんとやってるのに、何かすごいことが起きるわけでもないし、劇的によくなるわけでもないし」

「うん」

「で、たまに、何のためにこんな細かいこと全部拾ってるんだろうって思う」

 遼一は少しだけ黙った。

 軽く流さない。この人は、こういうときだけ、返事までの間がちゃんとある。


「それさ」

 遼一が言う。

「何も増えてないんじゃなくて、増え方が地味なだけじゃない」

「地味」

「お前、今日も企画書差し替えて、残業の紙見て、帰りにアイス買って、ちゃんとここまで来たじゃん」

「後半だけ雑」

「でも全部積み上がってる」

 遼一は由麻のほうを向いた。

「大きい成果とか、すごい変化みたいな顔はしてなくても、ちゃんと日が進んでるやつあるだろ」

 由麻は何も言えなかった。

 その言い方が、悔しいくらいまっすぐだったからだ。

 頑張ったことが、すぐ立派な形にならない日もある。

 それでも、積み上がっていないと決めるのは、自分が早すぎただけかもしれない。


「ご褒美ってさ」

 遼一がアイスの棒をくるりと回す。

「頑張ったことへの賞状じゃなくて、明日また行くための餌だと思ってる」

「餌」

「うん」

「夢がないな」

「でも続く」

 由麻は吹き出した。

「ひどい」

「ひどくない。実用的」

「実用的って便利な言葉だね」

「お前が好きそうなやつ」


 そこまで言ってから、遼一はふと視線をやわらげた。

「由麻」

「何」

「今日は、来てよかった?」

 聞き方が少し不器用で、由麻は思わず笑った。

 こっちが元気をなくしている日に限って、この人はこういうところだけ少し慎重になる。


「うん」

「ならよかった」

「ただ」

「ただ?」

「外で食べる予定の店、ちょっと行きたかった」

「それはまた今度」

「ほんとに?」

「ほんとに」

 遼一は少しだけ肩をすくめる。

「でも、今日じゃなくてよかっただろ」

 由麻は部屋を見回した。

 湯気の名残がまだ少し残っていて、テーブルには食べ終わった器、キッチンには洗ったばかりの皿。ソファには由麻の鞄と、遼一の脱ぎっぱなしのパーカー。

 きれいな店の灯りじゃない。

 ご褒美というには、だいぶ生活感がある。

 でもたぶん、今日の自分に必要だったのは、こういう甘さなのだ。


「……うん」

 由麻が言う。

「今日じゃなくてよかった」


 そのあと少しだけ、由麻はソファにもたれて目を閉じた。

 眠るつもりはなかったのに、気がつくと十分くらい落ちていたらしい。

 起きると、肩に薄いブランケットが掛かっていて、遼一はローテーブルの向こうでスマホを見ていた。テレビはついていない。音を立てないようにしていたのが、わかる。


「起きた」

「うん」

「何分寝た?」

「十二分」

「細かい」

「今日はそういう係だから」

 遼一はスマホを伏せた。

「雨、やんだぞ」

 カーテンの隙間を見ると、確かに道路が乾き始めている。

 時計は二十二時前。

 帰ろうと思えば帰れる時間だ。

 でも、由麻はブランケットの端を指でつまんだまま、少しだけ迷った。


「遅いなら泊まれば」

 遼一が言う。

「着替えないけど」

「うちに前の置いてなかった?」

「ある」

「じゃあ」

 あまりに自然に言うので、由麻は少しだけ笑う。

「何か、そういうのずるい」

「何が」

「この部屋、帰るの面倒になるようにできてる」

「設計勝ち」

「性格悪」

「褒め言葉として受け取る」


 由麻は少し黙ってから、うなずいた。

「じゃあ泊まる」

「よし」

「よし、って」

「七回裏で逆転した」

「まだ終わってないけど」

「勝ち筋は見えた」

 そう言って、遼一は立ち上がって洗面所のほうを指す。

「歯ブラシ出す」

「お願いします、監督」

 口にしてから、由麻は自分で少し驚いた。

 監督。

 たぶん、今日一日を動かしていた嫌な偶然まで全部、この人の手柄にするのは違う。

 でも、最後のほうで流れを変えてくれたことくらいは、認めてもいい気がした。


 夜の支度を終えて、由麻は借りたTシャツに着替えた。

 大きすぎる袖をひとつ折って、洗面所の鏡を見る。朝の自分と同じ顔のはずなのに、少しだけ緊張がほどけている。

 完璧には戻っていない。

 でも、それで十分だと思えた。


 ベッドに入る前、キッチンの小さな流し台で、由麻はグラスに水を注いだ。

 隣で遼一が、明日の弁当用らしい米を研いでいる。

 こういう、明日のための地味な動きが同じ部屋にあるのを見ていると、何だか安心する。ご褒美というのは、キラキラした特別な時間だけを指すのではなくて、明日もまた生活を続けるための、こういう小さな甘さのことかもしれない。


「ねえ」

 由麻が言う。

「何」

「今日、ありがとう」

 遼一は手を止めずに答えた。

「うん」

「……そこはもう少し何かないの」

「じゃあ」

 ようやくこちらを見て、少しだけ笑う。

「明日もちゃんと行ってこい」

 由麻はグラスを持ったまま、ふっと息を抜いた。

 結局、そういう言葉が一番効く。大丈夫だとか、頑張れとか、何でもできるとか、そういうきれいな励ましより、ずっと実際的で、ずっとやさしい。


 窓の外では、さっきまでの雨が嘘みたいに止んでいた。

 嫌なことは、朝になればまた並ぶだろう。

 ごみ置き場の管理人も、雑な部長も、確認漏れの書類も、何も消えていない。

 それでも由麻は、明日の自分を今日の自分より少しだけ信用できる気がした。


 甘いものを食べて、温かいものを飲んで、誰かに今日の嫌さを数えてもらって、少しだけ眠る。

 それだけで、人は案外、また明日へ出ていける。

 大した褒美じゃない。

 でも、明日また戦うには、これくらいがちょうどよかった。

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