『階段を一段ずつ派手に上がる』
五月の終わり、駅前商店街の空は朝から妙に高かった。
晴れているのに、どこか風が落ち着かない。旗がはためき、店先ののぼりが忙しく揺れ、通りに面したガラス戸がときどき小さく鳴る。こういう日は、町全体が「何か始めろ」と急かしてくるみたいで、落ち着かない人にはだいぶ落ち着かない。
七海咲歩は、文具店「赤羽堂」の店先で、その風にチラシの束をひっくり返された。
せっかく十枚ずつ揃えたのに、ばさっと広がって、色見本みたいに歩道へ散る。
「ああもう!」
しゃがんで拾い集める。
そこへ自転車で通りかかった八百屋の息子が、「朝から景気いいねえ」と笑っていった。ぜんぜん景気よくない。三十枚くらいの紙に負けているだけだ。
咲歩は二十九歳。
文具店勤め、今年で六年目。
レジも発注も包装も速いし、学校帰りの子どもがどの消しゴムを欲しがっているかもだいたい顔でわかる。季節の売り場を作るのも嫌いじゃない。けれど「自分の案で何かを前に出す」ことだけは、昔から妙に苦手だった。
目立つことが怖いわけではない。
正確には、「やりたいくせに、やったあとで駄目だったときの顔を想像しすぎる」タイプだ。
やる前から、失敗したあとの自分を先に迎えに行ってしまう。
そういう面倒な癖が、咲歩にはある。
「咲歩ちゃん、拾うの手伝おうか」
店の奥から声をかけてきたのは店主の赤羽千鶴だった。七十前なのに、眼鏡の奥の目だけは異様に元気な人だ。
咲歩は最後の一枚を拾って立ち上がる。
「大丈夫です」
「顔は大丈夫じゃなさそう」
「風のせいです」
「今日の風はみんなのせいにされるわねえ」
そう言いながら、千鶴はカウンターの上へ一枚の紙を置いた。
商店街の事務局から来た回覧だった。
【夏のわくわく市 各店舗一企画提出のこと】
【今年は店先ディスプレイ賞あり】
咲歩は一瞬で嫌な予感がした。
そしてたいてい、こういう予感は当たる。
「うち、出すから」
千鶴が言う。
「……そうでしょうね」
「で、担当は咲歩ちゃん」
「でしょうね!」
わかっていた。わかっていたけれど、やっぱり声は大きくなった。
夏のわくわく市は、商店街が一年でいちばん浮かれる期間だ。
店ごとに小さな催しや限定商品を出し、客を通りへ引っ張り出す。文具店なら子ども向けの工作コーナーや限定福袋が定番だが、今年は「店頭の見せ方」も評価対象になるらしい。
つまり、店の顔をつくる必要がある。
しかも咲歩の手で。
「無理です」
「早い」
「私、そういう“映えるやつ”向いてないです」
「映えなくていいのよ。足止まれば」
「言い方が雑」
「商店街なんだから雑でいいの」
千鶴は平然としている。
「去年も一昨年も、咲歩ちゃんが作った新学期の売り場、みんな立ち止まって見てたでしょ」
「あれは実用品だから」
「実用品を可愛く置ける人は、イベントもやれる」
「理屈が乱暴」
「でも当たってる」
当たっているかどうかが、いちばん困る。
咲歩は否定できないまま、回覧を持ってバックヤードへ逃げた。
昼休み、通りの向かいにある惣菜店でコロッケパンを買うと、店番をしていた真鍋玲子にすぐ顔を読まれた。
玲子は咲歩の一つ上で、商店街の同世代ではいちばん声が大きく、だいたい他人の面倒まで勝手に見ている。
「その顔、何か押しつけられたね」
「押しつけられた」
「夏市?」
「何でわかるの」
「今朝から三人同じ顔してきた」
咲歩はコロッケパンを受け取りながら、店先の丸椅子へ座った。
事情を話すと、玲子は途中から笑い始めた。
「いや、向いてるじゃん」
「みんなそれ言う」
「だって、咲歩ちゃんって、可愛いもの作るくせに最後の一歩だけ急に引くじゃん」
「悪口?」
「癖の指摘」
玲子は腕を組む。
「本当はやりたいんでしょ」
「……」
「沈黙は肯定」
「うるさい」
やりたい。
それは確かだった。
文具店の店先を、自分の案で一回ちゃんと作ってみたい。子どもも大人も足を止めるような、見た瞬間に少しだけ気分が上がる場所を作ってみたい。
でも、その「みたい」の先で失敗したらどうする。ダサかったら。空振ったら。ほかの店の派手な飾りに埋もれたら。
そう考え始めると、頭の中があっという間に詰まる。
「咲歩ちゃん」
玲子がコロッケを揚げながら言った。
「悩むのはいいけど、悩みを宝物みたいに持つのやめな」
「何その言い方」
「捨てなってこと」
「簡単に言う」
「簡単でいいの。三角コーナーにポイってしな」
「急に雑さが増した」
「それくらいでちょうどいいって」
その言い方が妙に可笑しくて、咲歩は少しだけ肩の力を抜いた。
悩みを宝物みたいに持つ。
たしかに自分は、やる前の不安をずっと磨いてしまうところがある。磨いたところで、立派な不安になるだけなのに。
その夜、咲歩は閉店後の店内で、試しにラフを描き始めた。
ガラス戸の前へ低い台を置いて、色鉛筆の山を小さな花畑みたいに見せる。奥に自由帳を吊るし、通りに向けて手描きの短冊を並べる。
テーマは「この店で始まる夏休み」。
悪くない、と思った。
でも十分後には、全部が子どもっぽく見え始める。さらに十分後には、幼稚で古くさくて、誰も見ない気がしてきた。
咲歩はラフ用紙を丸めて、ごみ箱へ投げた。
外れた。
ごみ箱の横へ落ちた。
「そういう日か……」
独り言を言った瞬間、店の奥からぱち、と拍手が聞こえた。
千鶴だった。
「外したねえ」
「見てたんですか」
「店なんだからいるわよ」
「最悪」
「でも今の、ちょっと良かった」
「どこが」
「外したあと、自分で笑ったとこ」
千鶴はレジ締めの手を止めずに言う。
「前なら、もっと暗い顔してた」
「成長点が小さい」
「でも大事」
そのまま千鶴は、ごみ箱の横の紙を拾って広げた。
「これ、そんなに悪くないじゃない」
「悪いです」
「悪くない」
「子どもっぽい」
「文具店なんだから半分は正しい」
千鶴は紙を机へ戻す。
「咲歩ちゃんさ、駄目なとこ探すの速すぎるのよ」
「癖で」
「その癖、今度の夏市では使用禁止ね」
翌日から、咲歩はとにかく手を動かすことにした。
朝の開店前に五分。昼休みに十分。閉店後に三十分。
店頭の寸法を測り、段ボールで台の高さを試し、吊るす紙の大きさを変え、色の並べ方を何度もいじる。
途中で何回も失敗した。
短冊は風で絡まるし、色鉛筆の山は思ったより地味だし、ガラス戸へ貼った切り絵は夕方の光でほとんど見えない。
そのたびに「向いてない」が頭を出した。
だが今回は、頭を出すたびに玲子の「三角コーナーにポイ」が浮かんだ。
腹が立つくらい雑な助言だったのに、妙に効いた。
四日目の夜。
咲歩は閉店後の床へ座り込み、散らかった紙を見ていた。
うまくいっているのか、いないのか、もう自分でもわからない。
そこへ、通りの照明交換を終えたらしい青年が、店先から覗き込んだ。
「まだやってる」
商店街の電器店で働く比嘉隼人だった。二十七歳。工具を持って高いところにいることが多く、地上にいると少し落ち着かない人に見える。
咲歩とは顔見知り程度だったが、ここ数日、閉店後の作業中に何度か目が合っていた。
「見ないでください、散らかってるんで」
「見える位置でやってるのそっちでしょ」
隼人は笑って、店先のサンプルを見回した。
「いいじゃん」
「またそれ」
「いや、ほんとに」
「お世辞いらない」
「お世辞で閉店後の店覗かないって」
その返しに少しだけ詰まる。
隼人は、吊るしてあった短冊の一本を指で軽く揺らした。
「これ、上のほうに風逃がす穴あけたら」
「穴?」
「うん。今、風受けすぎて絡んでる」
「……あ」
「ほら、通りの旗も同じでしょ。逃がさないと暴れる」
言われてみれば、その通りだった。
咲歩は慌てて穴あけパンチを探す。
「何でわかるんですか」
「電飾の布看板でも似たようなことあるから」
隼人は少し屈んで、床の紙を一枚拾った。
「あと、こっちの色、昼より夕方のほうが映える」
「見てたんですか」
「帰り道だからね」
そう言って、ごく自然に手伝い始める。
余計なおせっかいなのに、不思議と嫌ではなかった。
嫌ではないどころか、誰かと一緒に「どこがまずいか」を見られるだけで、急に頭の中の詰まりがほどける。
「咲歩さんって」
穴をあけながら隼人が言う。
「途中までは勢いあるのに、最後だけ急に“これでいいのかな”って顔になりますよね」
「……よく言われる日だな」
「当たってる?」
「当たってます」
「じゃあ、最後だけ自分にパンチ入れたら」
「何その解決法」
「いや、比喩で」
「雑」
「でも必要でしょ」
必要だった。
たぶん、そういうことなのだ。
自分を責めるためではなく、びびって小さくなっている自分を一回起こすための、軽いパンチ。
咲歩は短冊の列を見上げた。穴をあけたことで、風が抜ける。揺れるが、絡まない。
それだけで、景色が少し変わった。
夏市の初日。
朝から商店街はうるさかった。焼きそばの匂い、くじ引きの鐘、子どもの走る音、店ごとの呼び込み。
赤羽堂の前には、咲歩が一週間かけて組んだ店頭ディスプレイが並んでいる。
低い台に色鉛筆の花畑。
奥には自由帳とスケッチブックを階段状に積み、短冊には「きょうの落書きは本番です」「やり直せるノートあります」「夏休みの計画だけ先に立派」など、少しだけ笑える言葉を手描きで入れた。
ガラス戸には、夕方の光で色が浮く半透明の切り絵。
派手ではない。
でも、立ち止まる理由はちゃんと作ったつもりだった。
開店してすぐ、小学生の女の子が母親の手を引いて立ち止まった。
「見て、色えんぴつ、お花みたい」
咲歩はその一言だけで、朝から頑張った甲斐の半分くらいを回収した気がした。
昼には、中学生の男子が短冊を読みながら「夏休みの計画だけ先に立派、わかる」と笑った。
夕方には、会社帰りの女性が自由帳を二冊抱えて、「この店、今日なんか可愛いですね」と言った。
可愛い。
その一言が、咲歩の胸の真ん中へ、思ったよりまっすぐ落ちた。
劇的な拍手じゃない。
賞の発表でもない。
でも、自分が作ったものがちゃんと誰かの足を止めた。その事実だけで、十分に眩しかった。
閉店前、商店街の審査役だという人たちが店先を見て回った。
メモを取り、頷き、次の店へ行く。
その姿を見ながら、咲歩は不思議なくらい落ち着いていた。
賞を取れるかどうかは、もうあまり問題じゃなかった。
ここまで来る間に、自分が自分の案を途中で投げなかったことのほうが、大きかったからだ。
片づけの前、玲子がコロッケを差し入れに来た。
「どうよ」
「疲れた」
「知ってる。顔がいい疲れ方してる」
「何その判定」
「うまくいった日の顔」
玲子は店先を眺めた。
「ほら、やっぱ向いてる」
「まだ結果出てない」
「結果の前に、もう顔出てるって」
そこへ隼人も通りかかった。
脚立を肩に担いだまま、赤羽堂の前で足を止める。
「短冊、生き残ってる」
「おかげさまで」
「じゃあよかった」
それだけ言って行きかけて、ふと戻る。
「あと、これ」
小さな缶を差し出された。穴あけパンチの刃に使う油らしい。
「昨日、引っかかってたから」
「そんなとこまで見てたんですか」
「目についたから」
「便利な人だな」
「商店街なんで」
その言い方が少し可笑しくて、咲歩は笑った。
結果発表は、翌日の夕方だった。
赤羽堂はディスプレイ賞の二位。
一位は魚屋の巨大な紙の魚群で、正直ちょっと勝てないと思ったので悔しさは少ない。
千鶴は表彰状を見て「よし、来年は一位」と言い、玲子は「はい出た」と笑い、隼人は通りすがりに親指だけ立てていった。
閉店後、咲歩は一人で店先の飾りを外していた。
役目を終えた短冊は少しよれていて、切り絵の端は日差しでわずかに反っている。完璧ではない。最初から最後まで、ずっと完璧ではなかった。
でも、その不格好さまで含めて、自分の仕事だったと思えた。
最後の短冊を外す前に、咲歩は一枚だけ裏返した。
誰にも見せるつもりのなかった面に、小さく書いてあった。
【びびってる自分は、今日だけ二位でいい】
書いたのは初日の朝だ。
情けない保険みたいなつもりだった。
でも今見ると、案外悪くない。
びびっている自分をいきなり追い出すのではなく、とりあえず横に置いて、一段だけ上へ行く。
たぶん、これからも自分はそうやって進むのだろう。
通りには、店じまいの音が少しずつ増えていく。
夏はまだ始まったばかりだ。
次の催しも、次の面倒も、たぶんすぐ来る。失敗だってまたする。紙くずみたいに不安が散る朝も、きっとまだある。
それでも咲歩は、次に何か押しつけられても、前よりはましな顔で「やります」と言える気がした。
店のガラス戸に、自分の姿が映る。
特別に頼もしい顔はしていない。
けれど、前より少しだけ、自分で自分を雑に励ませる顔になっていた。
それが思っていたより、ずっと使える変化だった。




