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短編集  作者: 科上悠羽


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『改札前で生活が戻る』

 冷蔵庫を開けた瞬間、藤代直央は「あ、終わった」と声に出した。

 別に世界が終わったわけではない。朝の七時半の一人暮らしで、終わるものなんてせいぜいその日の段取りくらいだ。

 ただ、冷蔵庫の中が、見事なくらい何もなかった。

 卵が一個。

 賞味期限の切れたマヨネーズ。

 輪ゴムで口を縛っただけの味噌。

 以上。

 人間の生活って、こんなに急に床を抜くものなのかと、直央は本気で感心した。


 直央は三十歳。

 中堅の印刷会社で営業をしている。要領は悪くない。納期の逆算もできるし、相手先の好みを見て提案を変えるくらいの器用さもある。

 ただし、生活能力だけはずっと怪しい。

 洗濯はできる。掃除も、やればできる。ゴミ出しの曜日も一応わかる。

 けれど、それを「一応わかる」で止めている人間は、いざ一人になったとき、だいたいこうなる。


 もともとこの部屋には、もう一人いた。

 結城環。二十八歳。三年付き合って、半年同棲していた恋人だ。

 だが一週間前、環は「少し実家に帰る」と言って部屋を出た。

 喧嘩をした。

 大きい喧嘩ではない。むしろ、そういう言い方がいちばん厄介な類いのやつだった。

 皿の洗い残し。

 洗濯機に入れっぱなしのシャツ。

 遅くなる連絡の雑さ。

 使ったドライヤーを戻さないこと。

 ひとつひとつは小さい。けれど小さいからこそ、「今さらこれを言うのもな」が積もる。

 積もって、ある夜、環が言った。

「直央って、私がいる前提で生活してるよね」

 そのとき、直央はうまく返せなかった。

 返せなかったどころか、「そんなことない」と先に否定した。

 環はその瞬間、ああだめだ、という顔をした。

 次の日の朝、最低限の荷物だけ持って出ていった。


 それから一週間。

 部屋は静かだった。

 静かなくせに、何だかずっと落ち着かない。

 帰宅しても、電気のついていない部屋が妙に広い。洗濯物を畳む音も、キッチンで何か刻む音もない。テレビをつけても間が埋まらず、スマホをいじっても面白くない。

 そして何より、生活が全部、自分のだらしなさの形で返ってくる。

 環がいなくなって初めて、直央は自分の暮らしが誰かの手でどれだけ丸くされていたかを思い知らされた。


 とりあえず、朝食をどうにかしようと思って、卵を割った。

 フライパンへ落とした瞬間、黄身が崩れた。

 今日ってこういう日か、とため息をついたところで、シンクに昨夜の皿が残っているのが見えた。

 正確には昨夜だけではない。

 一昨日のマグカップと、その前の日のコンビニのスプーンまでいる。

 誰かがいないと、生活はこんなにもすぐ「あとで」に負けるのか。

 直央は崩れた目玉焼きを皿へ寄せながら、腹の底がじわじわ重くなるのを感じた。


 会社へ行けば、少しは気が紛れるかと思ったが、そうでもなかった。

 午前の打ち合わせで先方の担当者に「藤代さん、今日ちょっと元気ないですね」と言われた。

 午後は見積りの数字をひとつ打ち間違え、経理に差し戻された。

 昼に食べたうどんは麺がのびていた。

 帰り道、コンビニのレジで財布を忘れたことに気づき、電子決済で何とかした。

 自分が崩れると、こんなにも細かく世界は追い討ちをかけてくるらしい。


「お前、顔死んでるぞ」

 夕方、営業車を返しながら、先輩の大崎が言った。

「そうですか」

「そうだよ。三日前からずっと」

 三日前から。

 つまり、他人から見てももう分かるくらいには崩れていたらしい。

「彼女となんかあった?」

 直央は驚いて顔を上げた。

「何で」

「お前、同棲してるって言ってたろ。そういう顔だ」

「どういう顔ですか」

「家帰っても電気ついてない顔」

 あまりに的確で、言い返せなかった。

 大崎は車の鍵を棚へ戻しながら、さらっと言う。

「だったら、拗らせる前に頭下げとけ」

「でも」

「でも、は別れたあとで言え」

 その言い方が妙に乱暴で、妙に腹へ落ちた。


 とはいえ、すぐ連絡できるほど素直なら苦労しない。

 直央は帰宅後、ソファへ座ってスマホを開いた。環とのトーク画面は、一週間前で止まっている。


【少し実家帰る】

【わかった】

【落ち着いたら連絡する】

【うん】


 あまりにも短い。

 自分の返事の薄さに、今さら腹が立つ。

 そこから何度もメッセージを打ちかけては消した。

【ごめん】

 違う。

【今、話せる?】

 重い。

【部屋がやばい】

 馬鹿か。

 そうやって一時間くらい無駄にして、結局何も送れなかった。


 代わりに、直央は立ち上がった。

 シンクの皿を洗い、洗濯機を回し、床に落ちていた靴下を拾った。

 誰に見せるわけでもない。

 謝る代わりにもならない。

 それでも、今の自分がやるべきことはたぶんそこからだった。

 生活を立て直すことと、環に戻ってきてほしいことは、本当は別の話だ。

 でも、自分の生活すら持てないまま「帰ってきて」は、さすがに虫がよすぎる。


 深夜一時、ようやく部屋の床が見えた。

 冷蔵庫の中身は相変わらず終わっていたが、シンクだけはましになった。

 直央はその状態のキッチンを見て、少しだけ笑った。

 こんなことで誇れる大人もどうかと思うが、何もしないよりはよかった。


 翌朝、環からメッセージが来た。


【日曜、夕方なら時間ある】


 それだけ。

 顔文字も句点もない。

 それでも直央は、その短さにちゃんと救われた。会わないと言われたわけではない。少なくとも、話す余地はある。


 日曜の夕方、待ち合わせ場所に指定されたのは、環の実家の最寄り駅だった。

 海沿いの小さな駅で、改札は一つしかない。

 直央は予定より二十分早く着いて、売店でミネラルウォーターを買い、ホームの端で落ち着かない時間を過ごした。

 こういうとき、人間は自分の手を持て余す。スマホを見る、ポケットにしまう、また見る。意味もなく自販機の前まで歩く。戻る。

 高校生みたいだと思った。


 環が現れたのは、約束の五分前だった。

 白いシャツに細いデニム。髪はいつもより少し短く見える。

 元気そうかといえば、よく分からなかった。元気そうに見せることができる人だからだ。


「久しぶり」

 環が言う。

「一週間ぶりだけど」

 直央が返すと、環は少しだけ肩をすくめた。

「体感はもっと」

「……うん」

 最初の会話がこれなの、だいぶ自分たちらしいなと直央は思った。


 駅前の小さな喫茶店に入る。

 日曜の夕方だからか空いていて、窓際の席に座れた。

 環はアイスティー。直央はコーヒー。

 注文が来るまでの沈黙がやけに長い。


「ごめん」

 先に言ったのは直央だった。

 考えてきた言葉はたくさんあったはずなのに、口から出たのは一番短いそれだった。

「ちゃんと分かってなかった」

 環は少し黙ってから、ストローの袋を指で折った。

「何が」

「俺が、環がいる前提で暮らしてたこと」

「……」

「それ言われたとき、否定したのも、たぶん分かってないの認めたくなかっただけで」

 直央は水を一口飲んだ。

 喉がからからだった。

「部屋、今すごいことになってるかと思ったら、昨日ちょっと戻した」

 環が思わず吹きそうになった。

「そこ報告する?」

「いや、言い訳じゃなくて」

「分かってる」

 環は口元を押さえて、でも少し笑っていた。

「うん、ちょっと面白かっただけ」


 その笑い方を見て、直央は少しだけ息がしやすくなった。


「私もね」

 環が言う。

「出ていく前に、もっと早く言えばよかったと思ってる」

「いや」

「いや、言わせて」

 環は視線をまっすぐ向けた。

「私、直央が分かってくれないって思い込んで、途中から説明をさぼった」

 直央は反射的に否定しかけて、やめた。

 環が今、自分の側の話をしているのに、そこへ「でも」を被せるのは違う気がした。

「やってほしいことはあった。でも言うと面倒な女っぽいかな、とか、言わなくても見てよ、とか、勝手に溜めてた」

「……うん」

「で、最後にまとめて嫌になった」

 環はストローの袋を細く裂いた。

「だから、直央だけが悪いって話でもない」

 その言葉がありがたくて、でも同時に少し痛かった。

 許された感じがしたからではない。

 自分たちは、どちらか一人の悪さで壊れかけたわけではなく、二人で少しずつ雑にしてしまったのだと、ちゃんと分かる言葉だったからだ。


 コーヒーが来る。

 アイスティーの氷が鳴る。

 外では、普通電車が一本だけ通り過ぎていった。


「征人さん」

 直央がぽつりと言うと、環が目を丸くした。

「誰」

「いや、違う」

 自分でも何を言っているんだと思った。

「この前まで、何か男の名前がちらっと見えた記憶あって」

「それ、兄」

 即答だった。

 直央は目を閉じた。

 別の話を思い出しても、人はやはり同じところで馬鹿になるらしい。


「……ごめん」

「何か前にも似たようなことなかった?」

「あります」

「学んで」

「努力します」

 環は今度こそ声を立てて笑った。

 それだけで、喫茶店の空気が少しだけいつもの二人に戻る。


「で、どうする?」

 環が言った。

「どうする、って」

「私たち」

 その問いはずるい。

 ずるいが、ここで曖昧にしたら、一週間前の自分へ逆戻りだと直央にも分かった。


「戻ってほしい」

 言う。

 環は黙って待つ。

「ただ、戻って当然みたいには思ってない」

「うん」

「生活も、連絡も、ちゃんと変える」

「うん」

「あと、何が嫌か、もっと早く言ってほしい」

 環が少しだけ眉を上げた。

「そっちがそれ言うんだ」

「言う」

「言われたくないこともあるけど」

「それでも」

 直央はコーヒーカップを持ち直した。

「分からないまま勝手に平気だと思うより、嫌われても言われたほうがまし」


 環はしばらく返事をしなかった。

 窓の外の駅前ロータリーでは、小学生くらいの兄妹が追いかけっこをしている。

 そのありふれた夕方の景色の中で、自分の言葉だけがやけに生々しく感じた。


「じゃあさ」

 ようやく環が言う。

「一個、今ここで言っていい?」

「うん」

「直央の“わかった”って返事、軽いときある」

 直央はすぐ頷いた。

「ある」

「いま自分で認めた」

「それは前から少し思ってた」

「思ってたなら直して」

「はい」

 環は笑った。

 その笑い方が、だいぶいつもの環だった。


「私も一個」

 環が続ける。

「不機嫌を、相手が全部拾う前提で出すのやめる」

「助かる」

「今すぐ助かるとか言わない」

「ごめん」

「それ」

「……はい」

 直央は少しだけ頭を抱えた。

 だめだ、まだ軽い。自覚した瞬間にまたやっている。

 環はそれを見て、とうとう肩を震わせた。


「何か、ちょっとましになったね」

「何が」

「謝り方」

「そんな評価軸ある?」

「今作った」


 喫茶店を出ると、夕方の光が少しやわらいでいた。

 駅前の空き地には風が通り、線路の向こうの海が鈍く光って見える。

 二人で改札の前まで戻る。

 ここで別れて、次に会う日を決めるのか。

 それとも今日、このまま一緒に帰るのか。

 直央はそこを勝手に決めないように、少しだけ息を整えた。


「環」

「うん」

「今日は、どうしたい」

 環は目を細めた。

「ちゃんと聞くようになった」

「今のところ一回だけ」

「でも一回は一回」

 環はバッグの持ち手を握り直す。

「今日は、部屋見に行く」

「査察?」

「査察」

「厳しい」

「当然」

 その返事に、直央は本気でほっとした。

 戻る、ではない。

 許す、でもない。

 でも少なくとも、終わりにされなかった。


「じゃあ」

 環が言う。

「冷蔵庫、何入ってる?」

「卵一個と、切れたマヨネーズと味噌」

「終わってるね」

「うん」

「買い物からだ」

「はい」

「あとシンク」

「昨日だいぶやった」

「見て判断する」

「はい」

 語尾が全部「はい」になるのが情けない。

 情けないが、悪くなかった。


 改札前の小さなスーパーで、二人は買い物かごをひとつずつ持った。

 環はネギを選び、豆腐を入れ、鶏肉の値段を見る。直央はその横で、黙って牛乳と卵と洗剤を入れる。

 特別な再会ではない。花束もない。劇的な抱擁もない。

 ただ、切れていた生活の続きを、もう一度つなぐための買い物だった。


「ねえ」

 環がカート越しに言う。

「何」

「私ね、戻るとしても、前と同じにはしないよ」

「うん」

「直央のこと、好きだからこそ」

 その一言で、直央は足を止めそうになった。

 好きだからこそ。

 そういう言い方をされると、何だか急に胸の中の散らかったものまで見透かされる気がする。


「俺も」

 直央は少しだけ遅れて言った。

「前と同じにしない」

「ほんとに?」

「たぶん、前よりは」

「その“たぶん”は軽い」

「じゃあ」

 直央は息を吸った。

「する。変える」

 環は数秒見つめて、それから小さくうなずいた。

「うん。じゃあ、見てる」


 買い物袋を提げて、二人で駅から歩く。

 夕方の道は、来るときより少しだけ明るかった。

 直央はその横顔を盗み見る。

 環は前を向いて歩いている。急いではいない。だからといって、もう何もかも元通りという顔でもない。

 その曖昧さが、今はむしろありがたかった。

 やり直しというのは、突然完成するものではなくて、こういう買い物袋の重さとか、冷蔵庫の中身とか、洗剤の銘柄みたいなところから始まるのかもしれない。


 マンションの階段を上がる前に、直央はふと立ち止まった。

「何」

 環が振り返る。

「いや」

 直央は少し笑う。

「今日、やっと部屋が戻るなって」

 環は一瞬きょとんとして、すぐに口元をゆるめた。

「まだ戻ってないよ」

「うん」

「これから」

「うん」

「だから、まず鍵開けて」

「あ、はい」


 相変わらず少し間が抜けていて、環は呆れたように笑った。

 でもその笑い方には、少なくとも一週間前の硬さはなかった。

 直央は鍵を差し込みながら、胸の奥が少しだけ騒ぐのを感じた。

 終わらなかった。

 それだけで、今日は十分すぎるほどの収穫だった。

 ドアの向こうには、昨日自分がどうにか片づけた生活の続きを、今夜は二人で整えられる余地がある。

 たぶん明日からも、すぐ完璧にはならない。

 けれど、「さよなら」ができなかったことを、ようやく少しだけ誇ってもいい気がした。

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