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短編集  作者: 科上悠羽


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105/133

『湯のみの置き場を覚えている』

 六月のはじめ、区役所の西側窓口には、朝から妙に年配の夫婦が多かった。

 年金の相談、保険証の切り替え、介護認定の更新。似たような用件なのに、持ってくる封筒の厚みも、話し始める順番も、人によって全然違う。

 その中で、三上真琴の前に座った二人だけは、なぜか最初から少し浮いて見えた。


「ええと、今日は“任意後見契約と公正証書遺言の相談窓口”でお間違いないですか」


 真琴が確認すると、老婦人のほうが「はい」と答えた。

 白いシャツに薄い紺のカーディガン。背筋が妙にまっすぐで、声もよく通る。隣に座った夫のほうは、少し耳が遠いのか、婦人の口元を見て一拍遅れてうなずいた。

 二人とも七十代の後半くらい。

 いかにも仲のいい老夫婦、という雰囲気ではない。むしろ会話は最小限で、愛想も必要分しかない。

 なのに、夫が差し出した書類の向きを、妻は見もせず自然に直した。妻が印鑑を探す前に、夫は先に鞄の横ポケットを開けていた。

 長く一緒にいる人間にしか出ない手つきだと、真琴は思った。


「もしものときに、片方が困らないようにしたいんです」

 妻が言った。

「入院とか、施設とか、そのへんで」

「なるほど」

 真琴はパンフレットを広げる。

「最近はご夫婦でご相談に来られる方、増えてます。お子さんが遠方にいる場合も多いので」

「息子は仙台、娘は福岡です」

「じゃあ、まずは後見と遺言の違いからご説明しますね」


 説明を始めながら、真琴は内心で少し驚いていた。

 普段こういう窓口に来るのは、たいてい片方だけだ。

 夫が全部まとめているか、妻が必要に迫られて引っ張ってくるか。そのどちらかが多い。

 だがこの二人は、最初から二人で来て、二人で同じ資料を見ていた。


 真琴は二十九歳。区役所の市民相談課に勤めて四年目になる。

 生活相談、相続、離婚、介護、金銭トラブル。窓口へ来る話の多くは、人がどうしようもなく行き詰まったあとのものだ。

 おかげで人の「続かなかった話」には、ずいぶん詳しくなった。

 結婚したまま会話がなくなる夫婦。

 親子なのに連絡が取れない家。

 財産より先に感情が分裂している相続。

 だからこそ、長く一緒にいる二人を見ると、真琴はつい少し警戒してしまう。表面だけ整っていて、中身は冷え切っていることだって珍しくないからだ。


 だがこの夫婦は、整っているというより、擦り切れたあとでなお噛み合っている感じがした。

 説明の途中で夫が二度聞き返し、妻が三度言い直した。

 そのたびに少し面倒そうな顔はするのに、苛立ってはいない。

 面倒と愛情は別に共存するのだなと、真琴は妙なところで感心した。


 相談は四十分ほどで終わった。

 具体的な契約手続きは公証役場と司法書士を挟む必要がある。今日はその前段階としての整理だけだ。

 資料を封筒へ戻しながら、夫がぼそっと言った。


「こういうの、縁起でもないって嫌がるかと思ってた」

 妻は即座に返す。

「嫌だけど必要でしょ」

「そうだけど」

「あなた、病院の書類いまだに私の旧姓で探すじゃない」

「癖なんだよ」

「その癖が困るって話してるの」

 真琴は思わず目を上げた。

 夫のほうは少しばつが悪そうに鼻を掻き、妻はため息をつきながら封筒を鞄へしまう。

 その空気が、なぜだか少し可笑しかった。


「何十年一緒でも、そういうの直らないんですね」

 つい口にすると、妻がこちらを見て笑った。

「直ることもありますよ。でも、直らないもののほうが多いですね」

「それ、いい話なんですか」

 真琴が聞くと、今度は夫が言った。

「よくはない。でも、それで終わりでもない」

 その一言が、真琴の胸の真ん中へ、妙に真っ直ぐ落ちた。


 昼休み、真琴は庁舎裏の自販機で缶コーヒーを買った。

 六月の光は明るいくせに、風だけ少し冷たい。

 ベンチへ座ってスマホを見る。

 未読は一件だけだった。


【土曜、ごめん。やっぱりそっち行けない】

 送信者は、川瀬悠一。婚約者、だった人。

 もうその呼び方が正しいのか、真琴自身も少し迷っている。

 半年前、悠一は転勤で大阪へ行った。遠距離になってから、会う回数は減った。連絡の密度も下がった。喧嘩はしていない。していないまま、話すべきことだけが後ろへずれていく。

 結婚の話も、式場見学も、親への挨拶も、一応まだ消えてはいない。

 ただ、その一つひとつに以前ほどの体温がないことを、真琴はもう知っていた。


 昔の自分なら、こういう状態を「終わりかもしれない」と大袈裟に考えたかもしれない。

 でも窓口でいろんな終わり方を見すぎたせいで、逆に自分の話だけは曖昧にしてしまう。

 決定的な喧嘩がない。

 裏切りもない。

 だから、切る理由も見つけにくい。

 そうやって、じわじわと熱だけが逃げていく。


 真琴はスマホを伏せ、缶コーヒーのぬるい甘さを飲み下した。

 そのとき、さっきの老夫婦の会話がふいに戻ってきた。

 嫌だけど必要。

 よくはない。でも、それで終わりでもない。

 あんなふうに、面倒の中へ言葉を置ける二人と、言葉にする前に先延ばしている自分たち。

 何が違うのだろうと考えて、たぶん回数ではなく覚悟なのだと思った。

 いい感じのまま続ける覚悟ではない。

 嫌なものも、不格好なものも、一緒に見に行く覚悟だ。


 その日の夕方、例の夫婦がまた窓口へ戻ってきた。

 今度は忘れ物だった。

 夫の帽子。

 相談ブースの椅子へ、きれいに置き忘れてある。


「すみませんね」

 妻が受け取りながら言う。

「この人、頭に乗ってないと、すぐどこかへ置くんです」

「家でも?」

「家でも」

 妻が言うと、夫は少しだけむっとした顔をした。

「だって、お前がいつも片づけるから」

「片づけないと失くすでしょ」

「失くしてない」

「今」

 真琴は思わず吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。

 夫も自分で少し可笑しくなったのか、最後には照れたみたいに笑った。

 その顔を見て、真琴は変な確信を持った。

 この二人は、たぶん何度も同じことで言い合っている。

 それでも、もう言い合うこと自体を暮らしの一部として持っている。


 帽子を受け取ったあと、妻が少しだけ真琴を見て言った。

「お仕事、大変でしょう」

「まあ、それなりに」

「人の困りごとって、重たいですものね」

「そうですね」

「でも、あんまり正解ばかり見ないほうがいいですよ」

 真琴はきょとんとした。

「正解?」

「窓口に来る人って、答えを欲しがるでしょう。書類も制度も、何が正しいかはっきりしてるし」

「はい」

「でも、二人で生きるのって、たぶん正解より“面倒を面倒のまま持てるか”のほうが大事なんです」

 夫が横で「それはある」と頷いた。

 何でもない顔で言われたその言葉が、妙に沁みた。


 帰宅して、真琴は部屋の灯りをつけた。

 一人暮らしのワンルーム。整っているが、生活の気配は薄い。

 冷凍していたご飯を温め、味噌汁を作り、テーブルへ置いても、何かが足りない感じがする。

 足りないのは恋人ではなく、たぶん「面倒を口にする相手」なのだと、その夜、真琴はようやく思った。


 食後、スマホを開く。

 悠一とのトーク画面は淡々としていた。


【土曜、ごめん。やっぱりそっち行けない】

【了解】


 いつもならここで終わる。

 終わらせてきた。

 だが今日は、真琴は画面の上で指を止めなかった。


【行けないのは仕方ない】

【でも、最近こういうのを“仕方ない”で流し続けてるの、私はしんどい】


 送ってから、心臓が変な速さで鳴り始めた。

 数分、既読はつかない。

 その間に何度も取り消したくなった。重いかもしれない、面倒な女だと思われるかもしれない、今さら何を、と呆れられるかもしれない。

 でも、ここで消したらまた前と同じだ。

 真琴はスマホを伏せ、洗い物を始めた。

 皿を一枚洗ったところで、画面が震えた。


【俺も、しんどかった】

【先延ばしにしてた】

【ちゃんと話したい】

【今週じゃなくても、次に会う日を決めたい】


 真琴はしばらく手を止めたまま立っていた。

 救われた、とは少し違う。

 何かが解決したわけではないし、うまくいく保証もない。

 ただ、ようやくテーブルの上へ話が出てきた、という感じがした。


【うん】

【次に会う日、決めよう】

 それだけ返して、真琴はスマホをキッチン台へ置いた。


 数日後、昼休みに真琴はまた庁舎裏のベンチにいた。

 すると、あの老夫婦が公証役場からの帰りらしく、区役所の前を並んで歩いているのが見えた。

 今日も特別仲睦まじくはない。

 夫は何か言い、妻は少し面倒そうな顔をし、でも歩幅だけは合っている。

 信号待ちで、夫が車道側へ立つ。

 妻は何も言わない。

 青になったあと、妻のほうが一歩先へ出て、横断歩道の白い帯を確かめるみたいに軽く渡っていく。夫が少し遅れてついていく。

 その光景が、やけに鮮やかだった。


 真琴はふと思った。

 長く一緒にいることは、甘い瞬間を切らさないことではないのかもしれない。

 苛立つ日も、言葉が雑な日も、会いたくないほど面倒な日もある。

 それでも、湯のみの置き場や、帽子を忘れる癖や、相手がどこでつまずくかを覚えていて、必要なときには結局手を出してしまう。

 そういう日常の寄せ集めの先に、ようやく「分かつまで」という言葉は乗るのかもしれなかった。


 その日の夜、真琴は悠一とビデオ通話をした。

 派手な再会ではなく、謝罪の応酬でもなく、ただ互いに「先延ばしにしていたこと」を少しずつテーブルへ出した。

 会う日も決めた。

 続くかどうかは、まだ分からない。

 でも少なくとも、曖昧さの中で黙って離れていくよりは、ずっとましだと真琴は思えた。


 通話を終えて、キッチンへ行く。

 シンクには洗い終えた湯のみが二つ並んでいた。

 昼に区役所でもらった粗品の湯のみを、なぜか二つとも持ち帰ってきてしまったのだ。

 片方は柄が少しずれていて、安物っぽい。

 それでも真琴は、その二つを食器棚の同じ段へ置いた。

 片方が欠ける日もあるだろう。

 どちらかが先に増えなくなる日も、たぶんある。

 でも今はまだ、同じ棚へ戻しておく理由がある。

 それだけで、今夜には十分だった。

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