『湯のみの置き場を覚えている』
六月のはじめ、区役所の西側窓口には、朝から妙に年配の夫婦が多かった。
年金の相談、保険証の切り替え、介護認定の更新。似たような用件なのに、持ってくる封筒の厚みも、話し始める順番も、人によって全然違う。
その中で、三上真琴の前に座った二人だけは、なぜか最初から少し浮いて見えた。
「ええと、今日は“任意後見契約と公正証書遺言の相談窓口”でお間違いないですか」
真琴が確認すると、老婦人のほうが「はい」と答えた。
白いシャツに薄い紺のカーディガン。背筋が妙にまっすぐで、声もよく通る。隣に座った夫のほうは、少し耳が遠いのか、婦人の口元を見て一拍遅れてうなずいた。
二人とも七十代の後半くらい。
いかにも仲のいい老夫婦、という雰囲気ではない。むしろ会話は最小限で、愛想も必要分しかない。
なのに、夫が差し出した書類の向きを、妻は見もせず自然に直した。妻が印鑑を探す前に、夫は先に鞄の横ポケットを開けていた。
長く一緒にいる人間にしか出ない手つきだと、真琴は思った。
「もしものときに、片方が困らないようにしたいんです」
妻が言った。
「入院とか、施設とか、そのへんで」
「なるほど」
真琴はパンフレットを広げる。
「最近はご夫婦でご相談に来られる方、増えてます。お子さんが遠方にいる場合も多いので」
「息子は仙台、娘は福岡です」
「じゃあ、まずは後見と遺言の違いからご説明しますね」
説明を始めながら、真琴は内心で少し驚いていた。
普段こういう窓口に来るのは、たいてい片方だけだ。
夫が全部まとめているか、妻が必要に迫られて引っ張ってくるか。そのどちらかが多い。
だがこの二人は、最初から二人で来て、二人で同じ資料を見ていた。
真琴は二十九歳。区役所の市民相談課に勤めて四年目になる。
生活相談、相続、離婚、介護、金銭トラブル。窓口へ来る話の多くは、人がどうしようもなく行き詰まったあとのものだ。
おかげで人の「続かなかった話」には、ずいぶん詳しくなった。
結婚したまま会話がなくなる夫婦。
親子なのに連絡が取れない家。
財産より先に感情が分裂している相続。
だからこそ、長く一緒にいる二人を見ると、真琴はつい少し警戒してしまう。表面だけ整っていて、中身は冷え切っていることだって珍しくないからだ。
だがこの夫婦は、整っているというより、擦り切れたあとでなお噛み合っている感じがした。
説明の途中で夫が二度聞き返し、妻が三度言い直した。
そのたびに少し面倒そうな顔はするのに、苛立ってはいない。
面倒と愛情は別に共存するのだなと、真琴は妙なところで感心した。
相談は四十分ほどで終わった。
具体的な契約手続きは公証役場と司法書士を挟む必要がある。今日はその前段階としての整理だけだ。
資料を封筒へ戻しながら、夫がぼそっと言った。
「こういうの、縁起でもないって嫌がるかと思ってた」
妻は即座に返す。
「嫌だけど必要でしょ」
「そうだけど」
「あなた、病院の書類いまだに私の旧姓で探すじゃない」
「癖なんだよ」
「その癖が困るって話してるの」
真琴は思わず目を上げた。
夫のほうは少しばつが悪そうに鼻を掻き、妻はため息をつきながら封筒を鞄へしまう。
その空気が、なぜだか少し可笑しかった。
「何十年一緒でも、そういうの直らないんですね」
つい口にすると、妻がこちらを見て笑った。
「直ることもありますよ。でも、直らないもののほうが多いですね」
「それ、いい話なんですか」
真琴が聞くと、今度は夫が言った。
「よくはない。でも、それで終わりでもない」
その一言が、真琴の胸の真ん中へ、妙に真っ直ぐ落ちた。
昼休み、真琴は庁舎裏の自販機で缶コーヒーを買った。
六月の光は明るいくせに、風だけ少し冷たい。
ベンチへ座ってスマホを見る。
未読は一件だけだった。
【土曜、ごめん。やっぱりそっち行けない】
送信者は、川瀬悠一。婚約者、だった人。
もうその呼び方が正しいのか、真琴自身も少し迷っている。
半年前、悠一は転勤で大阪へ行った。遠距離になってから、会う回数は減った。連絡の密度も下がった。喧嘩はしていない。していないまま、話すべきことだけが後ろへずれていく。
結婚の話も、式場見学も、親への挨拶も、一応まだ消えてはいない。
ただ、その一つひとつに以前ほどの体温がないことを、真琴はもう知っていた。
昔の自分なら、こういう状態を「終わりかもしれない」と大袈裟に考えたかもしれない。
でも窓口でいろんな終わり方を見すぎたせいで、逆に自分の話だけは曖昧にしてしまう。
決定的な喧嘩がない。
裏切りもない。
だから、切る理由も見つけにくい。
そうやって、じわじわと熱だけが逃げていく。
真琴はスマホを伏せ、缶コーヒーのぬるい甘さを飲み下した。
そのとき、さっきの老夫婦の会話がふいに戻ってきた。
嫌だけど必要。
よくはない。でも、それで終わりでもない。
あんなふうに、面倒の中へ言葉を置ける二人と、言葉にする前に先延ばしている自分たち。
何が違うのだろうと考えて、たぶん回数ではなく覚悟なのだと思った。
いい感じのまま続ける覚悟ではない。
嫌なものも、不格好なものも、一緒に見に行く覚悟だ。
その日の夕方、例の夫婦がまた窓口へ戻ってきた。
今度は忘れ物だった。
夫の帽子。
相談ブースの椅子へ、きれいに置き忘れてある。
「すみませんね」
妻が受け取りながら言う。
「この人、頭に乗ってないと、すぐどこかへ置くんです」
「家でも?」
「家でも」
妻が言うと、夫は少しだけむっとした顔をした。
「だって、お前がいつも片づけるから」
「片づけないと失くすでしょ」
「失くしてない」
「今」
真琴は思わず吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。
夫も自分で少し可笑しくなったのか、最後には照れたみたいに笑った。
その顔を見て、真琴は変な確信を持った。
この二人は、たぶん何度も同じことで言い合っている。
それでも、もう言い合うこと自体を暮らしの一部として持っている。
帽子を受け取ったあと、妻が少しだけ真琴を見て言った。
「お仕事、大変でしょう」
「まあ、それなりに」
「人の困りごとって、重たいですものね」
「そうですね」
「でも、あんまり正解ばかり見ないほうがいいですよ」
真琴はきょとんとした。
「正解?」
「窓口に来る人って、答えを欲しがるでしょう。書類も制度も、何が正しいかはっきりしてるし」
「はい」
「でも、二人で生きるのって、たぶん正解より“面倒を面倒のまま持てるか”のほうが大事なんです」
夫が横で「それはある」と頷いた。
何でもない顔で言われたその言葉が、妙に沁みた。
帰宅して、真琴は部屋の灯りをつけた。
一人暮らしのワンルーム。整っているが、生活の気配は薄い。
冷凍していたご飯を温め、味噌汁を作り、テーブルへ置いても、何かが足りない感じがする。
足りないのは恋人ではなく、たぶん「面倒を口にする相手」なのだと、その夜、真琴はようやく思った。
食後、スマホを開く。
悠一とのトーク画面は淡々としていた。
【土曜、ごめん。やっぱりそっち行けない】
【了解】
いつもならここで終わる。
終わらせてきた。
だが今日は、真琴は画面の上で指を止めなかった。
【行けないのは仕方ない】
【でも、最近こういうのを“仕方ない”で流し続けてるの、私はしんどい】
送ってから、心臓が変な速さで鳴り始めた。
数分、既読はつかない。
その間に何度も取り消したくなった。重いかもしれない、面倒な女だと思われるかもしれない、今さら何を、と呆れられるかもしれない。
でも、ここで消したらまた前と同じだ。
真琴はスマホを伏せ、洗い物を始めた。
皿を一枚洗ったところで、画面が震えた。
【俺も、しんどかった】
【先延ばしにしてた】
【ちゃんと話したい】
【今週じゃなくても、次に会う日を決めたい】
真琴はしばらく手を止めたまま立っていた。
救われた、とは少し違う。
何かが解決したわけではないし、うまくいく保証もない。
ただ、ようやくテーブルの上へ話が出てきた、という感じがした。
【うん】
【次に会う日、決めよう】
それだけ返して、真琴はスマホをキッチン台へ置いた。
数日後、昼休みに真琴はまた庁舎裏のベンチにいた。
すると、あの老夫婦が公証役場からの帰りらしく、区役所の前を並んで歩いているのが見えた。
今日も特別仲睦まじくはない。
夫は何か言い、妻は少し面倒そうな顔をし、でも歩幅だけは合っている。
信号待ちで、夫が車道側へ立つ。
妻は何も言わない。
青になったあと、妻のほうが一歩先へ出て、横断歩道の白い帯を確かめるみたいに軽く渡っていく。夫が少し遅れてついていく。
その光景が、やけに鮮やかだった。
真琴はふと思った。
長く一緒にいることは、甘い瞬間を切らさないことではないのかもしれない。
苛立つ日も、言葉が雑な日も、会いたくないほど面倒な日もある。
それでも、湯のみの置き場や、帽子を忘れる癖や、相手がどこでつまずくかを覚えていて、必要なときには結局手を出してしまう。
そういう日常の寄せ集めの先に、ようやく「分かつまで」という言葉は乗るのかもしれなかった。
その日の夜、真琴は悠一とビデオ通話をした。
派手な再会ではなく、謝罪の応酬でもなく、ただ互いに「先延ばしにしていたこと」を少しずつテーブルへ出した。
会う日も決めた。
続くかどうかは、まだ分からない。
でも少なくとも、曖昧さの中で黙って離れていくよりは、ずっとましだと真琴は思えた。
通話を終えて、キッチンへ行く。
シンクには洗い終えた湯のみが二つ並んでいた。
昼に区役所でもらった粗品の湯のみを、なぜか二つとも持ち帰ってきてしまったのだ。
片方は柄が少しずれていて、安物っぽい。
それでも真琴は、その二つを食器棚の同じ段へ置いた。
片方が欠ける日もあるだろう。
どちらかが先に増えなくなる日も、たぶんある。
でも今はまだ、同じ棚へ戻しておく理由がある。
それだけで、今夜には十分だった。




