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短編集  作者: 科上悠羽


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『矢印が指すほう』

 市民文化センターの一階ロビーには、朝から段ボールが積み上がっていた。

 新しい案内板、トイレ表示、非常口サイン、貸室一覧、受付札。改修工事がひと区切りついて、最後に残ったのが「迷わないための全部」だった。


 坂口澄夏は、その段ボールの山を見た瞬間に、ちょっとだけ帰りたくなった。

 二十八歳。デザイン会社を辞めて地元へ戻り、この文化センターで広報と掲示物まわりの雑務をして二年目。

 チラシも作る。イベントのポスターも作る。SNS用の画像も作る。

 けれど今目の前にあるのは、そういう「ちょっと見てもらえるもの」ではなかった。

 トイレはどこか。

 受付はどこか。

 避難口はどこか。

 ただそれだけを、誰にでもすぐ伝えるための印。


「で、これ全部、澄夏ちゃんに最終チェックお願いね」


 館長の神崎が、ひどく軽い声で言った。

 軽い声なのに、頼んでいる仕事は全然軽くない。


「全部ですか」

「全部」

「業者さんの校正は」

「終わってる」

「じゃあ最終って何ですか」

「現場で見ると変なことあるでしょ」

 神崎は即答した。

「文字サイズとか、視線の高さとか、矢印の向きとか」

「それ、だいぶ大事ですよね」

「うん、大事」

「軽く言わないでくださいよ」


 神崎は笑って去っていった。

 こういうときだけ足が速い。


 澄夏は段ボールの一つを開けた。

 中から出てきたのは、白地に黒いピクトグラムと文字だけの板だった。

【受付】

 右向きの矢印。

 フォントは癖がなく、余白も十分。

 誰が見ても分かる、正しい案内板だ。


 正しい。

 その正しさが、澄夏は昔から少し苦手だった。


 もともと澄夏は、もっと違うものを作りたかった。

 大学を出て東京のデザイン事務所に入ったときも、街で見かけた人が思わず足を止める広告や、少しだけ誰かの心をさらう装丁や、そういう「伝えるより先に残るもの」を作りたかった。

 だが実際の仕事は、修正、修正、また修正だった。

 分かりにくいと言われ、目立たないと言われ、逆に主張しすぎると言われ、結局「もっとシンプルに」の一言で片づく。

 何度もそうやって削られていくうちに、自分の好きだった線までよく分からなくなった。

 それで、辞めた。


 地元へ戻ってからは、「目立ちすぎないもの」を作ることが増えた。

 会館の催し案内。

 商店街のポスター。

 市の広報に載る、角の丸い案内バナー。

 悪くない。役には立つ。

 でも時々、自分が「消しゴムのかけかす」みたいな仕事ばかりしている気がして、ひどく空っぽになる夜があった。


「顔、死んでるよ」

 背後から声がして振り向くと、設備担当の榊が脚立を抱えて立っていた。三十三歳。無口そうに見えて、実際は余計なことだけよく言う男だ。

「朝からだいぶ失礼ですね」

「案内板の顔してた」

「どういう顔ですか」

「間違っちゃいけないから面白くなくていい、って顔」

 図星すぎて、澄夏は少し黙った。

 榊はそれを見て肩をすくめる。

「ほら」

「……分かってて言ってます?」

「分かりやすい顔してるから」


 澄夏は案内板を箱へ戻した。

「だって、こういうのって、分かればいいんですよね」

「うん」

「だったら、もう私じゃなくてもいいじゃないですか」

「それ、分かるだけの案内板が言う台詞じゃないな」

「今のところ私のほうが板扱いですけど」

 榊は笑わなかった。

 その代わり、脚立を立てながら言った。

「分かればいい、って、簡単じゃないよ」

「……」

「迷ってる人を、迷ってる最中にちゃんと拾うんだから」


 その言い方が少しだけ残った。

 でも、はいそうですねと素直に飲めるほど、澄夏の機嫌はまだ戻っていなかった。


 午前中はひたすら設置確認だった。

 一階ロビーからホール前、会議室の廊下、授乳室、救護室、非常口。

 業者が貼り、澄夏が立ち位置を変えながら確認し、榊が高さを見て必要なら直す。

 やっていることは地味なのに、細かく気を使う。三歩離れた位置で見えるか、車椅子の目線で読めるか、柱の陰に入らないか。

 だんだん、ただの印ではなくなる。

 人が迷う場所の形が見えてくるからだ。


「ここ、左じゃなくて上のほうがいいかも」

 澄夏が言うと、榊が振り返る。

「何で」

「この先の曲がり角で視線が一回逃げるから」

「……ああ」

「で、壁が濃い色だから、白縁あったほうが矢印死なない」

「分かってんじゃん」

「仕事ですから」

「その返し、だいたい照れ隠しだよな」

「うるさい」


 昼を過ぎたころ、思わぬ邪魔が入った。

 土曜に開かれる子ども向け科学イベントの下見で、小学生の親子が何組か館内を見に来たのだ。

 工事明けでまだ一部が養生中の館内を、子どもたちは面白がって走り回る。

 そのうち、三年生くらいの男の子が、ロビーから会議室フロアへ続く分岐で立ち止まった。

 右がホール、左が工作室、奥がトイレ。

 新しいサインはもう付いている。

 でも男の子は少し首を傾げていた。


「どした?」

 澄夏が声をかけると、男の子は素直に言った。

「トイレ、どこか分かんなくなった」

「表示あるよ」

「うん。でも、こっちもこっちも矢印ある」


 見れば、確かにそうだった。

 天井吊りの総合案内板にトイレの右矢印。

 壁面の貸室案内にも、別の施設名へ向けた左矢印。

 大人なら読み分けられる。

 でも、急いでいる子どもの目には、矢印だけが先に刺さる。

 澄夏は一瞬で血の気が引いた。


「……ごめん、ちょっと待って」

 榊を呼ぶ。

 事情を話すと、榊は案内板を見比べて短く言った。

「確かにぶつかってる」

「やっぱり」

「大人の頭で整理しすぎたな」

 悔しかった。

 悔しいが、その通りだった。

 自分は文字情報の整合性ばかり見ていて、「いま漏れそうな子ども」が何を最初に見るかを抜かしていた。


「男の子、こっち」

 澄夏は先にトイレまで案内した。

 戻ってくると、男の子の母親が「すみませんね」と笑ったが、澄夏はその笑顔に余計に申し訳なくなった。


「この先、右だけ大きいピクトに変えます」

 澄夏が言うと、榊はすぐ頷いた。

「じゃあ仮で紙出す」

「今から作る」

「昼休み」

「いらない」

「いる」

「今それ言ってる場合じゃ」

「腹減ってる頭でやると、また大人の都合になる」

 榊の声は平坦だったが、反論しにくい正しさがあった。

 澄夏は唇を噛んで、結局コンビニのおにぎりを二つかき込んだ。

 急いで食べたせいで味はよく分からなかったが、不思議と少しだけ頭は回り始めた。


 午後、澄夏はロビーの隅でノートにラフを描き始めた。

 文字を減らす。

 矢印を一つに絞る。

 色を足すのではなく、視線の流れだけを太くする。

 シンプルに。

 その言葉は今まで、何かを削られる合図みたいで嫌いだった。

 でも、本当に必要なものだけを残す作業だと思うと、少しだけ意味が変わる。


「澄夏ちゃん」

 後ろから館長の神崎が覗き込んだ。

「やり直すの?」

「はい」

「業者もう一回呼ぶ?」

「呼ぶ前に仮で運用変えます。土曜までに実機直したいです」

 神崎はラフを見て、へえ、と言った。

「これ、朝のよりいいね」

「朝のは、たぶん“正しかった”だけです」

「今のは?」

 澄夏はペン先を見つめたまま答える。

「急いでる人に、ちゃんと届くやつ」

 自分で言ってから、少しだけ驚いた。

 そうだ。たぶんそれが、今日ずっと探していた答えだった。


 夕方までに、仮の大型トイレサインは出来た。

 白地に青のピクト。

 文字は最小限。

 右向きの矢印を大きく、迷う交差点の一番手前へ置く。

 そして貸室側の矢印は、情報の塊の中へ戻して主張を弱める。

 ただそれだけ。

 ただそれだけなのに、空間が急にすっきりした。


「こういうことか」

 榊が少し離れた位置から言う。

「何が」

「お前が今日ずっとやりたかったやつ」

「そんな大げさな」

「でも、分かった」

 榊は壁にもたれたまま言う。

「人を迷わせないって、けっこう派手だな」

 澄夏はその言葉に、少しだけ笑ってしまった。

 派手。

 今まで真逆だと思っていた言葉だった。


 土曜、科学イベントは朝から賑わった。

 子どもたちが館内を走り、保護者が受付で列を作り、ボランティアの高校生が声を張る。

 ロビーの分岐も当然混む。

 澄夏は少し離れた位置から、新しい仮サインの前を行き交う人たちを見ていた。


 最初に気づいたのは、迷って立ち止まる人が明らかに減ったことだった。

 親子連れは矢印を一瞥して、そのまま右へ曲がる。

 年配の夫婦は貸室案内を見てから左へ行く。

 そして午前の真ん中、昨日の男の子がまた来た。今度は友達を三人連れていて、トイレに行きたいらしい一人へ向かって、得意げに言った。


「ほら、これ。でっかいのあるから」


 その一言で、澄夏は胸の奥がふっと軽くなった。

 分かったのだ。

 ちゃんと、届いたのだ。

 誰かが立ち止まらずに済んだ。そのことが、思っていた以上にうれしかった。


 イベント終了後、神崎がロビーへ降りてきた。

「今日、苦情ゼロだったよ」

「それ、わりと奇跡ですね」

「しかも、保護者アンケートに“分かりやすかった”が三件」

 神崎は機嫌よくファイルを振った。

「やるじゃん」

 澄夏は少しだけ肩をすくめる。

「最初はやらかしましたけど」

「直したからいいの」

「そういうものですか」

「そういうもの。仕事って、だいたい途中で一回転ぶから」

 館長はそう言って、ロビーの新しいサインを見上げた。

「でも、これ好きだな」

「ただの矢印ですよ」

「うん。でも、ちゃんとお前の仕事だって分かる」


 帰り際、榊が工具箱を持って通りかかった。

「業者に本制作流す段取り、月曜でいい?」

「お願いします」

「最終データ、今日送れる?」

「送れます」

「じゃあ送れ」

「雑」

「シンプルだろ」

 その返しに、澄夏は声を出して笑った。

 たしかにシンプルだった。

 行くか、戻るか、いつまでもうだうだ迷うより、今やることだけを残したほうが、身体は軽い。


 夜、自宅の机でデータを開く。

 最終版の矢印は、余計な線がなく、驚くほど簡単な形をしていた。

 けれどそこへ至るまでに、自分がどれだけ迷って、どれだけ削って、どれだけ「これは違う」を見たかを、澄夏は知っている。

 シンプルというのは、手抜きではなく、迷った人間が最後に置ける印なのかもしれなかった。


 送信ボタンを押す。

 画面の隅に「送信しました」と出る。

 それだけで、今日は少し前へ進んだ気がした。

 誰かに褒められるほど派手ではない。

 賞を取る仕事でもない。

 それでも、迷っている人の足を一歩ぶん先へ出せるなら、たぶんそれは十分に格好いい。


 机の上のメモ帳へ、澄夏は何となく矢印をひとつ描いた。

 右向き。

 まっすぐで、少し不器用で、でも迷いのない形。

 その先に何があるかはまだ全部見えていない。

 けれど少なくとも、今日は戻るより行くほうが身軽だと、ようやく自分の手で確かめられた。

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