『十年目の白線』
朝六時の校庭は、まだ誰のものでもない顔をしている。
白線の消えた土の上に、昨夜の風が残した葉っぱが散っていて、鉄棒の下だけが少し濃く湿っている。そこへ一番乗りで入っていくと、学校という場所は、賑やかさを全部脱いだあとの骨組みみたいだと、三嶋広樹はいつも思う。
軽トラックの荷台から、石灰の袋とラインカーを下ろす。
今週末は小学校の運動会だった。町内会の道具を学校へ貸し出して、その線引きを毎年、広樹が手伝っている。
手伝っている、という言い方も少し違うかもしれない。
気づけば十年、毎年やっていた。
「今年も早いねえ」
正門のほうから声がした。
振り向くと、用務員の安西が竹箒を持って立っている。六十を過ぎたのに、なぜか背中だけは高校球児みたいにまっすぐな人だ。
「他の人が来る前に終わらせたいんで」
「毎年そう言ってる」
「毎年ほんとなんで」
「知ってる」
安西は笑いながら、昇降口の前の葉を掃き始めた。
広樹はラインカーへ石灰を流し込む。さらさらした白い粉が、朝の空気の中で少しだけ光る。
こういう作業は嫌いじゃない。
どこへ線を引くかが決まっていて、その通りに手を動かせば、だいたいちゃんと形になるからだ。
迷わなくて済む仕事は、人を少しだけ楽にする。
広樹は三十九歳。
町の自動車整備工場で働いている。若いころはもっと別の人生を考えていた時期もあったが、今となってはその輪郭もだいぶ薄い。
働いて、帰って、飯を作って、洗濯して、息子を起こして、学校へ送り出す。
毎日はその繰り返しだ。
派手さはない。だが、壊れもしていない。
それなりにやれている。
そう思ってきたし、たぶん間違ってもいない。
ただ最近、ときどき、どこへ向かっているのかだけが少しぼやける。
ラインカーを押して最初の白を引き始める。
まっすぐに見える一本でも、引いている最中は案外ぶれる。手元だけ見ていると蛇行するので、少し先の地面を見る。
それは仕事でも、暮らしでも、似たようなものだった。
トラックの助手席には、まだ寝癖のついた息子が一人、膝を抱えて座っている。
小学校四年生の湊。九歳。来月で十歳になる。
今日は土曜授業がないので連れてきた。家に一人で置いておくよりましだし、本人も学校の校庭が好きだった。
「父ちゃん」
窓を少し開けて、湊が言う。
「何」
「まだ眠い」
「知ってる」
「なんで連れてきたの」
「朝飯のパン、二枚食ったろ」
「食った」
「その元気があるなら手伝える」
「理屈がずるい」
その返しに、広樹は少し笑った。
口の減らなさだけは、母親に似ている。
母親。
そう思うと、胸の奥のどこかがまだ少しだけ固くなる。
広樹の妻、真帆が亡くなって七年になる。
病気だった。見つかったときにはもう遅く、長くはもたなかった。
そのあいだに広樹は、ずいぶんいろんなことを覚えた。保育園の送り迎え、冷凍しても味が落ちにくいおかず、夜中の咳で起きる子どもの背中のさすり方、病院での説明の聞き方、役所の書類、葬儀の順番。
覚えたくて覚えたわけではない。
ただ、その時々で必要だったから体に入った。
そうして七年経ってみると、悲しみは薄くなるというより、生活の奥へ沈んでいくものらしい。見えなくはなるが、なくなりはしない。
十年前の今ごろ、広樹はもっと別の人間だった。
湊が生まれたばかりで、真帆はまだ元気で、工場でも今よりずっと若手で、休みの日には中古のバイクをいじっては「いつか自分の店を持つ」と格好つけたこともある。
その「いつか」は結局来なかった。
来なかったけれど、今の生活が失敗だったとも思えない。
思えないのに、ときどき、どこかの分岐で置いてきたものの影だけが足元へ伸びる。
「父ちゃん」
また湊が呼ぶ。
「今度は何」
「ゴールって、どこ」
広樹はラインカーの手を止めた。
「何の」
「運動会の線」
「それは引く場所決まってるから」
「そうじゃなくて」
湊はあくびを噛み殺しながら言う。
「父ちゃんのやつ」
「父ちゃんのやつ?」
「うん。仕事とか、家とか、そういうやつ」
朝っぱらから、ずいぶん刺さることを聞く。
九歳のくせに、急にそういうところへ入ってくるから油断できない。
「何でそんなこと聞くんだ」
「昨日、先生が“目標を持ちましょう”って言ってた」
「ふうん」
「で、みんな、サッカー選手とか、漫画家とか、ケーキ屋とか言ってた」
「うん」
「父ちゃんは何」
広樹はラインカーの取っ手を持ったまま、少しだけ空を見た。
朝の空は高く、青く、なのにどこか行き止まりがない。
だから余計に困る。
「……分かんない」
正直に言うと、湊は少し目を丸くした。
「分かんないの」
「分かんない」
「大人なのに?」
「大人でもだ」
広樹が言うと、湊は少し考えてから、妙に納得した顔でうなずいた。
「じゃあ、まだ途中なんだ」
その一言が、広樹の胸の真ん中へ静かに落ちた。
まだ途中。
そう言われると、少しだけ救われる気がした。
線引きを再開する。
二本、三本、と白が増えていく。
途中、安西がコーヒーを持ってきてくれた。紙コップの安いブラックが、なぜか朝の校庭にはよく合う。
「湊くん、手伝わんの?」
安西が聞くと、湊は助手席から顔だけ出した。
「今、父ちゃんのゴール聞いてた」
「おお、朝から重いな」
「でしょう」
広樹が言うと、安西は笑った。
「ゴールなんて、見えたことないぞ」
「いや、そこまで堂々と言われると困るんですけど」
「だってほんとだし」
安西は紙コップのふたを指で押さえながら続けた。
「俺だって、用務員になろうと思ってなったわけじゃない。たまたま役場の紹介で来て、気づいたら二十年だ」
「二十年」
「ほら、怖いだろ」
「だいぶ」
「でもな」
安西は校庭を見回した。
「怖いけど、ここまで来たってことは、それなりにやれてるってことでもある」
その言い方が、歌のサビみたいにきれいだったわけではない。
でも、だからこそ妙に残った。
ここまで来たってことは、それなりにやれてる。
広樹はそういう雑な救い方が、案外嫌いじゃなかった。
十時前、町内会の人たちが追加の備品を持って集まり始めた。
万国旗の箱、玉入れの籠、拡声器の予備電池。
そのなかに、湊の担任もいて、明るい声で言った。
「三嶋さん、今年も助かります」
「いえ、毎年なんで」
「湊くん、お父さん似で背伸びましたね」
「口だけ先です」
広樹が返すと、湊は助手席から抗議した。
「父ちゃんも口うるさいじゃん」
「それは生きるのに必要だから」
「理不尽」
周りが笑う。
そういう、どうでもいいやり取りの中で、広樹は少しだけ気づく。
十年前に思い描いていた人生ではない。
でも、十年前にはいなかった関係が、今ここにはいくつもある。毎年顔を合わせる町内会の人。学校の先生。工場の後輩。息子の友達の親。
夢の代わりに生活を選んだのではなく、生活の中で別のものが増えてきたのかもしれない。
最後の直線を引いていたとき、ラインカーの車輪が小石に乗って、白線が少しだけ曲がった。
「あ」
思わず声が出る。
見ると、三メートルほどの線がわずかに蛇行している。
運動会としては支障がない。誰も気づかないかもしれない。
でも、引いた本人には分かる。そういうズレは妙に目につく。
「ごめん」
広樹がつぶやくと、いつの間にか車から降りてきていた湊が、その線を覗き込んだ。
「これ、だめ?」
「いや、だめではないけど」
「まっすぐじゃないから?」
「まあ」
湊は少し考えてから言った。
「でも、父ちゃんっぽい」
「どういう意味だ」
「ちゃんとやろうとしてるのに、たまに変なとこで曲がる」
あまりに的確で、広樹は反論できなかった。
安西が後ろで吹き出している。
「湊くん強いなあ」
「最近こうなんです」
「最近じゃないよ」
湊が真顔で言う。
その真顔が可笑しくて、結局広樹も笑ってしまった。
昼前、作業を終えて軽トラックへ荷物を戻す。
校庭には真新しい白線が走り、テントの位置も決まり、運動会らしい形が見えてきた。
完成ではない。まだ机も椅子も放送席も入る。
でも、途中まで形になった場所というのは、完成品より少しだけ希望に見える。
帰り道、助手席で湊が言った。
「ねえ、父ちゃん」
「何」
「十歳って、すごい?」
「お前が?」
「うん」
「まあ、すごいんじゃない」
「父ちゃんの十年は?」
広樹はハンドルを握りながら、信号待ちで少しだけ考えた。
十年。
仕事を辞めなかった。
子どもを遅刻させずに学校へやった。
洗濯も飯も、だいたい回した。
泣く日も、投げ出したい日もあった。真帆がいない部屋に帰るのが嫌で、コンビニの駐車場で十分動けなかった夜も、一度や二度ではない。
でも、そういう日まで含めて、確かにここまで来た。
「……すごいかもな」
広樹が言うと、湊は得意げにうなずいた。
「だよね」
「何でお前が偉そうなんだ」
「近くで見てたから」
その返事で、広樹は少しだけ目頭が熱くなりかけた。
危ないので、すぐ前を向く。
大人は信号待ちでそう簡単に泣かない。
その夜、夕飯はオムライスにした。
湊が来月十歳になるので、少し早い練習だ。
卵は少し破れた。ケチャップの線も最後に一か所だけよれた。
でも湊はそれを見て、満足そうに言った。
「今日、全部父ちゃんっぽい」
「それ褒めてる?」
「うん」
「ならいいか」
食後、風呂上がりの湊が宿題をしている横で、広樹は何となくノートを開いた。
家計簿でも整備メモでもない、真っ白なページ。
そこへ、珍しく字を書いた。
【次の十年でやりたいこと】
書いてみたものの、すぐには続かない。
店を持つ、は違う気がした。
今さらバイク屋、でもない。
資格を取る。工場で後輩を育てる。湊と一回くらい二人で旅行する。真帆の写真をちゃんとアルバムにする。
浮かんでは消え、消えてはまた少しだけ残る。
広樹はそこで、無理に一つへ絞るのをやめた。
ゴールのテープが見えないなら、見えないなりに白線を引いていけばいい。
まっすぐじゃなくても、途中で少し曲がっても、翌年また引き直せる。
たぶん暮らしも、それくらいのものだ。
窓の外では、夜の住宅街が静かだった。
台所の流しに、洗ったばかりの弁当箱が逆さに置いてある。明日の米を研いだボウルが、まだ少しだけ水を切っている。
そういう、何でもない景色の中に、自分の十年はあるのだと、広樹はようやく少しだけ思えた。
「父ちゃん」
宿題のノートから顔を上げずに、湊が言う。
「何」
「来年も線引く?」
「たぶん」
「じゃあ、そのときまた聞く」
「何を」
「ゴール」
広樹は笑った。
「まだ分かんないと思うぞ」
「いいよ」
湊は平然と言う。
「まだ途中なら」
その一言が、今日いちばん綺麗な答えだった。
広樹は白いページの端に、小さく丸を一つ描いた。十でも、ゴールでもない、ただの途中の印。
それでも今の自分には、そのくらいでちょうどよかった。




